訂正履歴
・第14章ブッダ(元データと判定・解釈・考察と書き換え)の章に分類した詩 401, 407, 402, 410, 411, 412, 413をバラモンへの戒律として、詩388の後に挿入します。(180605)
・詩番号388のコメントと書き換え詩に追加の訂正を入れました。追加部分は黄色のマーカーで示します。(180607)
・前書きの頭の2行の文章を付け加えました。(180611)
・396の書き換え詩に“も”を付け加えた。(180613)
・詩307を第22章 悪しきところ(地獄改め)から詩393の後に移動挿入。(181022)
第26章 バラモン
バラモンは、瞑想を体現してこそです。瞑想については、「悟りのよすが」、「八正道」、「五根」についてのまとめで、2018/6/11にさらに詳しく記述しましたので、そちらをご覧ください。
“かれ”という三人称は、男性を指すので、その人と置き換えます。
バラモンの章として選択した20詩全てが、第26章のバラモンから構成されていて、詩番号の並び順は、予定では、
387, 406, 383, 399, 415, 416, 388, 389, 394, 395, 396, 393, 404, 405, 409, 408, 400, 384, 385, 386 でしたが、
387, 406, 383, 399, 415, 416, 389, 393, 394, 395, 396, 404, 405, 409, 408, 388, 384, 400, 385, 386と多少の変更をしました。
訂正履歴
・第14章ブッダ(元データと判定・解釈・考察と書き換え)の章に分類した詩 401, 407, 402, 410, 411, 412, 413をバラモンへの戒律として、詩388の後に挿入します。(180605)
・詩番号388のコメントと書き換え詩に追加の訂正を入れました。追加部分は黄色のマーカーで示します。(180607)
・前書きの頭の2行の文章を付け加えました。(180611)
・396の書き換え詩に“も”を付け加えた。(180613)
・詩307を第22章 悪しきところ(地獄改め)から詩393の後に移動挿入。(181022)第26章 バラモン
詩番号 387
***(元データ)*************
387)太陽は昼にかがやき、月は夜に照し、武士は鎧を着てかがやき、バラモンは瞑想に専念してかがやく。しかしブッダはつねに威力もて昼夜に輝く。
***(判定)*************
A
***(コメント)*************
ブッダ < バラモンです。ここを履き違えてはいけないと言う詩です。
***(書換え詩)*************
387) 書換え不要
詩番号 406、383、399
***(元データ)*************
406)敵意ある者どもの間にあって敵意なく、暴力を用いる者どもの間にあって心おだやかに、執著する者どもの間にあって執著しない人、──その人を我は<バラモン>と呼ぶ。
383)バラモンよ。流れを断て。勇敢であれ。諸の欲望を去れ。諸の現象の消滅を知って、作られざるもの(ニルヴァーナ)を知る者であれ。
399)罪がないのに罵られ、なぐられ、拘禁されるのを堪え忍び、忍耐の力あり、心の猛き人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
***(判定)*************
406)A
383)B
399)A
***(コメント)*************
406)“暴力を用いるものの間にあって、暴力を用いず” ではなく、“心おだやかに”が本当の教えなのです。不動明王様や仁王様が、とてつもない武力を持って対応することは、暴力で欲望を満たすことを目的とする行為に対しての対抗手段なのです。言葉遊びのようですが、暴力ではなく武力なのです。暴力に対抗できるのは、武力なのです。
383)第7章 真人の詩97のコメント参照。“作られざるもの(ニルヴァーナ)”を“作られざるもの_法”と置き換えます。
399)コメントなし
***(書換え詩)*************
406) 書換え不要
383)バラモンよ。流れを断て。勇敢であれ。諸の欲望を去れ。諸の現象の消滅を知って、作られざるもの_法を知る者であれ。
399) 罪がないのに罵られ、なぐられ、拘禁されるのを堪え忍び、忍耐の力あり、心の猛き人、──その人をわれは<バラモン>と呼ぶ
詩番号 415,416
***(元データ)*************415)この世の欲望を断ち切り、出家して遍歴し、欲望の生活の尽きた人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
416)この世の愛執を断ち切り、出家して遍歴し、愛執の生存の尽きた人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
***(判定)*************
2詩ともB
***(コメント)*************
遍歴とは、「広く諸国をめぐり歩くこと。また、さまざまな経験をすること。」だそうです。定義のない様々な言葉を導入すると、ニュアンスの転換が起きて、魔が入り込むので、この言葉を使うのはやめます。バラモンの前には、修行僧があるので、「出家して修行し」という言い方に変えます。ただし、「在家で修行する」人が圧倒的に多いです。
愛執の生存とは、欲望にとらわれて心が束縛されている状態で生きることです。これをクリアしても、カルマが残っていると輪廻転生外には出ません。バラモンは修行僧の延長線上であって、出家修行で欲望の生活、愛執の生存が尽きたら、バラモンになるのでしょう。他にも色々な、条件があり、この後に出てきます。
しかし、輪廻転生外の魂も、この世に生まれてきます。その際は、自己のカルマの清算がない人生でスタートし、この世の中のために尽力するのが目的で生まれてくるのです。
***(書換え詩)*************
415)この世の欲望を断ち切り、出家して修行し、欲望の生活の尽きた人、──その人を我は<バラモン>と呼ぶ。
416)この世の愛執を断ち切り、出家して修行し、愛執の生存の尽きた人、──その人を我は<バラモン>と呼ぶ。
詩番号 389
***(元データ)*************
389)バラモンを打つな。バラモンはかれ(=打つ人)にたいして怒りを放つな。バラモンを打つものには禍がある。しかし(打たれて)怒る者にはさらに禍がある。
***(判定)*************
A
***(コメント)*************
前出の詩406のように、暴力を用いるものの間にあって心おだやかにするのが、バラモンの務めですから、怒りを放ってはいけないのです。しかし、正当な怒りは持ち、適時、解決しなくてはなりません。ただし、あくまでも行動の軸は、理性であるということなのです。これは、大変難しいですが、これができる人がある一定数いないと、この世の中は治りません。だから、今は世界中がぐちゃぐちゃなのですよね。バラモンへの教えはそういった意味では、リーダーになる人たちにも役立つ教えなのです。
***(書換え詩)*************
389)バラモンを打つな。バラモンは打つ人に対して怒りを放つな。バラモンを打つものには禍がある。しかし(打たれて)怒るバラモンにはさらに禍がある。
詩番号 393(+307)〜396
***(元データ)*************
393)螺髪を結んでいるからバラモンなのではない。氏姓によってバラモンなのでもない。生れによってバラモンなのでもない。真理と理法とをまもる人は、安楽である。かれこそ(真の)バラモンなのである。
307)袈裟を頭から纒っていても、性質(タチ)が悪く、つつしみのない者が多い。かれら悪人は、悪いふるまいによって、悪いところに(地獄)に生まれる。
394)愚者よ。螺髪を結うて何になるのだ。かもしかの皮をまとって何になるのだ。汝は内に密林(=汚れ)を蔵して、外側だけを飾る。
395)糞掃衣をまとい、痩せて、血管があらわれ、ひとり林の中にあって瞑想する人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
396)われは、(バラモン女の)胎から生れ(バラモンの)母から生れた人をバラモンと呼ぶのではない。かれは「<きみよ>といって呼びかける者」といわれる。かれは何か所有物の思いにとらわれている。無一物であって執著のない人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
***(判定)*************
393)B
307)A
307)A
394)B
395)D
396)D
***(コメント)*************
バラモンの身なりを決めてしまうと、もうそれを真似る愚かな者たちが現れるので、粗末な身なりだろうが、そこそこの身なりだろうが、行いや専念しなくてはならない瞑想を大切にしているのがバラモンの基準だという趣旨で各詩を変えていきます。
バラモンの体型についても、決め付けると、身なりと同じことがおきますので、こちらもニュアンスの変更をします。
実際に生きていく上で、無一物なんて無理ですから、“無一物であろうとも”と変更しておきます。
307)第22章悪いところ(地獄改め)から 詩393の後に配置します。(地獄)を削除します。
396)きみよと言って呼びかけるものとは、本来なら尊敬しなくてはならない人に“君よ”と呼びかけてしまう、この世(三次元)的な上下しか理解できず、霊格の区別が分からない、偉そうでバカなバラモンの見分け方を伝えています。
***(書換え詩)*************
393)身なりによってバラモンなのではない。氏姓によってバラモンなのでもない。生れによってバラモンなのでもない。真理と理法とをまもる人は、安楽である。その人こそ(真の)バラモンなのである。
307)
袈裟を頭から纒っていても、性質(タチ)が悪く、つつしみのない者が多い。かれら悪人は、悪いふるまいによって、悪いところに生まれる。
394)愚者よ。バラモンの身なりだけ整えて、何になるのだ。汝は内に密林(=汚れ)を蔵して、外側だけを飾る。
395)粗末な身なりで、痩せて、血管があらわれていようとも、寂しい場所で一人で瞑想に専念する人、─その人を我は<バラモン>と呼ぶ。
396)われは、(バラモン女の)胎から生れ(バラモンの)母から生れた人をバラモンと呼ぶのではない。この人は「<きみよ>といって呼びかける者」といわれる。かれは何か所有物の思いにとらわれている。無一物であっても執著のない人、──その人を我は<バラモン>と呼ぶ。
詩番号 404,405、409
***(元データ)*************
404)在家者・出家者のいずれとも交らず、住家がなくて遍歴し、欲の少ない人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
405)強くあるいは弱い生きものに対して暴力を加えることなく、殺さずまた殺させることのない人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
409)この世において、長かろうと短かろうと、微細であろうとも粗大であろうとも、浄かろうとも不浄であろうとも、すべて与えられていない物を取らない人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
***(判定)*************
404)D
405)D
409)A
***(コメント)*************
404)「在家者・出家者のいずれとも交らず」だと、相互にとって、この世の修行の意味がないのです。この世の修行は、交わってこそです。必要以上に交わらないように心がけないと、執着が生まれてしまうことを諭しているのでしょう。
「住家がなくて遍歴し」は、“住家がない”と言うことにこだわりが生じてしまうので、「住居にこだわらずに修行し」と書き換えます。
405)暴力は、不当な武力と定義しました。全く、“生き物を殺さず殺させることのない”なんて無理ですから、無益にという言葉を付けておきます。
409) コメントなし
***(書換え詩)*************
404)在家者・出家者のいずれとも必要以上に交らず、住居にこだわらずに修行し、欲の少ない人、──その人を我は<バラモン>と呼ぶ。
405)強くあるいは弱い生きものに対して暴力を加えることなく、無益な殺生を行うことも、行わせることもない人、──その人を我は<バラモン>と呼ぶ。
409)書換え不要
詩番号 408
***(元データ)*************
408)粗野ならず、ことがらをはっきりと伝える真実のことばを発し、ことばによって何人の感情をも害することのない人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
***(判定)*************
B
***(コメント)*************
「何人の感情をも害することのない」も、感情に限ってしまえば、受け手側の事情もあるので、無理難題ですから、“感情をも”を心を”に、“害することのない”を“害する目的のない”と書き換えます。
***(書換え詩)*************
408)粗野ならず、ことがらをはっきりと伝える真実のことばを発し、ことばによって何人の心を害する目的のない人、──その人を我は<バラモン>と呼ぶ。
詩番号 388
***(元データ)*************
388)悪を取り除いたので<バラモン>(婆羅門)と呼ばれ、行ないが静かにやまっているので<道の人>(沙門)と呼ばれる。おのれの汚れを除いたので、そのゆえに<出家者>と呼ばれる。
***(判定)*************
D
***(コメント)*************
辞書で調べると、沙門とは修行僧のことです。つまり、修行僧を表す言葉として、沙門や道の人が使われているわけですが、これも、修行僧で統一します。バラモンや修行僧、出家者(賢い人になったら、出家者になれると私は主張します。)について、今までの、私の定義に従って、詩を書き換えます(第6章 賢い人の序文参考)。「悪を取り除いたので」は、“悪を為すことをやめた”(悪いカルマの生産の停止)と捉え、“悪を静めた”と表現します。
***(書換え詩)*************
388)悪を静め、瞑想を完成させたので<バラモン>(婆羅門)と呼ばれ、慎みが完成したので<修行僧>と呼ばれる。正しい教えのもとで出家し努め励むので、<出家者>と呼ばれる。
詩番号 401、407、402、410〜413
***(元データ)*************
401)蓮葉の上の露のように、錐の尖の芥子のように、緒の欲情に汚されない人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
407)芥子粒が錐(キリ)の尖端から落ちたように、愛著と憎悪と高ぶりと隠し立てとが脱落した人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
402)すでにこの世において自分の苦しみの滅びたことを知り、重荷をおろし、とらわれの無い人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
410)現世を望まず、来世をも望まず、欲求がなくて、とらわれの無い人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
411)こだわりあることなく、さとりおわって、疑惑なく、不死の底に達した人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
412)この世の禍福いずれにも執著することなく、憂いなく、汚れなく、清らかな人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
413)曇りのない月のように、清く、澄み、濁りがなく、歓楽の生活の尽きた人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
***(判定)*************
417)B
418)B
419)B
420)B
421)B
422)B
423)B
***(コメント)*************
読み進めた結果、ブッダに近いバラモンに対する戒律だと判断しましたので、第26章 バラモン 詩388)の後に挿入します(挿入後は、黄色のマーカーで記します。)。ブッダを目指すバラモンの戒律として、詩を書き換えます。
***(書換え詩)*************
401)<バラモン>は、蓮葉の上の露のように、先の錐(キリ)の尖(サキ)の芥子のように、緒の欲情に汚されてはならない。
407)<バラモン>は芥子粒が錐(キリ)の尖端から落ちたように、愛著と憎悪と高ぶりと隠し立てとが脱落 させなくてはならない しなくてはならない。
402)<バラモン>は、すでにこの世において自分の苦しみの滅びるように学び務め、重荷をおろし、とらわれを無くさなければならない。
410)<バラモン>は、現世を望まず、来世をも望まず、欲求がなくて、とらわれることがあってはならない。
411)<バラモン>は、こだわりあることなく、さとりおわって、疑惑なく、不死の底に達するよう、学び務めよ。
412)<バラモン>は、この世の禍福いずれにも執著せず、憂いなく、汚れなく、清らかになるよう、学び務めよ。
413)<バラモン>は、曇りのない月のように、清く、澄み、濁りがなく、歓楽の生活の尽きた人となるよう、学び務めよ。
詩番号 384
***(元データ)*************
384) バラモンが二つのことがら(=止と観)について彼岸に達した(=完全になった)ならば、かれはよく知る人であるので、かれの束縛はすべて消え失せるであろう。
***(判定)*************
B
***(コメント)*************
「止」とは禅定、「観」とは智慧と、延暦寺では教えられています。悟りのよすが・八正道・五根で当てはめると、「止が定と念、観が慧ということになります。要するに、智慧が湧くように瞑想もしくは禅定(念、定)を行い、智慧を得ましょうということです。瞑想の完成とは、瞑想により智慧が得られることとして、話を進めます。
***(書換え詩)*************
384)バラモンが、瞑想と智慧を得ることについて彼岸に達した(=瞑想を完成する)ならば、その人はよく知る人であるので、その人の束縛はすべて消え失せるであろう。
詩番号 400、385、386
***(元データ)*************
400)怒ることなく、つつしみあり、戒律を奉じ、欲を増すことなく、身をととのえ、最後の身体に達した人、──かれをわれは<バラモン>とよぶ。
385) 彼岸(カナタノキシ)もなく、此岸(コナタノキシ)もなく、彼岸・此岸なるものもなく、恐れもなく、束縛もない人、──かれをわれはバラモンと呼ぶ。
386) 静かに思い、塵垢(チリケガレ)なく、おちついて、為すべきことをなしとげ、煩悩を去り、最高の目的を達した人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
***(判定)*************
全てD
***(コメント)*************
この3つの詩は、バラモンでも、ブッダに近い人への教えと考えています。
400)“身をととのえ”の意味がはっきりしませんので、代わりに、バラモンとして大切な瞑想の完成を入れておきます。
最後の身体に達したということは、輪廻転生外に出るということなので、ブッダへの資格が得られたといことになります。
385)この世にいようとも、天界にいようとも、ニルヴァーナにいるとも、こだわりがなく、その場、その時で自分の使命に忠実に従えるように、恐れも束縛もないような人は、もはやバラモンではなく、ブッダの領域です。
386)“最高の目的”とは、輪廻転生外に出て、解脱することです。
“なすべきこと”とは、生まれてきて為さなくてはならない各個人の課題のことでしょう。
***(書換え詩)*************
400)怒ることなく、つつしみあり、戒律を奉じ、欲を増すことなく、瞑想を完成させ、最後の身体に達したバラモン、─その人をわれは<ブッダ>と呼ぶ。
385) 彼岸(カナタノキシ)もなく、此岸(コナタノキシ)もなく、彼岸・此岸なるものもなく、恐れもなく、束縛もないバラモン、─その人をわれは<ブッダ>と呼ぶ。
386) 静かに思い、塵垢(チリケガレ)なく、おちついて、為すべきことをなしとげ、煩悩を去り、輪廻転生を離れ解脱したバラモン、─その人をわれは<ブッダ>と呼ぶ。