2018年5月28日月曜日

第25甲章 仏弟子(元データと判定・解釈・考察と書き換え)

訂正履歴)
192)について、“削除から190)へ移動 と記述変更

第25甲 章 仏弟子:仏弟子の集いへ向けて

 お釈迦様の旗のもと、集団生活を送る修行僧に向けられた教えと考えました。個人で修行するよりは、より戒律の重視があるのは当然で、集団生活を送る上での注意点が目立ちます。修行僧に分類して、そちらに含めてもいい内容ではないかとも思いますが、お釈迦様の元に集った修行僧(仏弟子)に向けておっしゃっている教えではないかと、私が強く感じたものを集めました。章番号と名称は、暫定的に、第25甲 章 仏弟子としておきます。また、副題として、仏弟子の集いへ向けてを追記します。

 ブッダとバラモンの線引きについての考察で、仏弟子へ分類した、詩181と186は、コメントを記述した段階で、それぞれ、第7章 真人(詩94の後)と第6章 賢い人(詩87の後)に編入したほうがベターだと判断しました。ただし、詩の考察は、この記事で行いました(最後)。第7章 真人第6章 賢い人の既存の記事に、これらの詩を、今後、挿入する予定です。

 また、仏弟子の章に残した10詩の、並び順は、183、185,184,187,194,188〜192となり、予定を変更しました。

詩番号 183、185

***(元データ)*************
183)すべて悪しきことをなさず、善いことを行ない、自己の心を浄めること、──これが諸の仏の教えである。
185)罵らず、害わず、戒律に関しておのれを守り、食事に関して(適当な)量を知り、淋しいところにひとり臥し、坐し、心に関することにつとめはげむ。──これがもろもろのブッダの教えである。
***(判定)*************
183)A
185)B
***(コメント)*************
183)自己と心の関係は、修行僧の詩380)を参照してください。
185)文章の意味がわからないので、主語を足して、文章を整えます。
***(書換え詩)*************
183)書換え不要 
185)他人を罵らず、害(がい)せず、自分は戒律を守り、食事に関して(適当な)量を知り、淋しいところにひとり臥し、坐し、心に関することにつとめはげむ。──これがもろもろのブッダの教えである。


詩番号 184

***(元データ)*************
184) 忍耐・堪忍は最上の苦行である。ニルヴァーナは最高のものであると、もろもろのブッダは説きたまう。他人を害する人は出家者ではない。他人を悩ます人は<道の人>ではない。
***(判定)*************
B
***(コメント)*************
ニルヴァーナにはカッコで安らぎをつけて、<道の人>は<修行僧>とします。
***(書換え詩)*************
184)忍耐・堪忍は最上の苦行である。ニルヴァーナ(安らぎ)は最高のものであると、もろもろのブッダは説きたまう。他人を害する人は出家者ではない。他人を悩ます人は<修行僧>ではない。


詩番号 187

***(元データ)*************
187)天上の快楽にさえもこころ楽しまない。正しく覚った人(=仏)の弟子は妄執の消滅を楽しむ。
***(判定)*************
A
***(コメント)*************
 天上とは、天国だと思っています。かなり、霊格の高い存在が集うあの世で、そこに存在するものすべてが一級品です。しかし、三界(修行僧 詩370参照)からは出られていない場所での、楽しみ(天人の音楽etc.)が天上の快楽なのでしょう。
***(書換え詩)*************
187)書換え不要


詩番号 194

***(元データ)*************
194)もろもろのみ仏の現われたまうのは楽しい。正しい教えを説くのは楽しい。つどいが和合しているのは楽しい。和合している人々がいそしむのは楽しい。
***(判定)*************
A
***(コメント)*************
これは、完全に仏弟子組織へ説いている教えです。
***(書換え詩)*************
194)書換え不要


詩番号 188〜192

***(元データ)*************
188) 人々は恐怖にかられて、山々、林、園、樹木、霊樹など多くのものにたよろうとする。
189) しかしこれは安らかなよりどころではない。これは最上のよりどころではない。それらのよりどころによってはあらゆる苦悩から免れることはできない。
190)、191) さとれる者(=仏)と真理のことわり(=法)と聖者の集い(=僧)とに帰依する人は、正しい知慧をもって、四つの尊い真理を見る。──すなわち(1)苦しみと、(2)苦しみの成り立ちと、(3)苦しみの超克(チョウコク)と、(4)苦しみの終減(オワリ)におもむく八つの尊い道(八聖道)とを(見る)。
192)これは安らかなよりどころである。これは最上のよりどころである。このよりどころにたよっあらゆる苦悩から免れる。
***(判定)*************
A
***(コメント)*************
 構成された一連の詩は、
 冒頭の詩188)は既存の教え(主に、ヒンズー教、また、ジャイナ教)を暗に否定します。そして、その後の詩で、本当の教えは四諦という概念で説明できますよという流れです。
 少し大胆ですが、仏、法、僧への帰依については、私は全面的に否定的です。お釈迦様がご存命当時はなかったことが一般に知られています。私は僧侶へのお布施が全面的に悪いとは思いませんが、しかしそれはあくまでも任意である必要があるのです。しかし、原始仏典では、お布施を強要するに等しいお布施奨励の詩句が多すぎると感じています。
 はっきり言ってしまえば、三次元の体を持っている以上、諸行無常の法が優勢ですから、人であろうと人もどきであろうと化身化している仏や僧は、定在的な安全な拠り所にはなりません。その都度、きちんと考えてその時は帰依するくらいの姿勢で対応すべきですから、190)、191)の「 さとれる者(=仏)と真理のことわり(=法)と聖者の集い(=僧)とに帰依する人は、」という部分は削除します。その結果、詩を書きなおすと、詩192が不要となり削除されます。

 では、仏教の用語の確認を行っていきます。
 四諦とは、お釈迦様の概念では、ハイライトではないかと思うのですお釈迦様は、「この世の中は一切皆苦と捉えましょうと提起なさり、
①苦しみの原因(苦諦)、
②苦しみの現れ(集諦)、
③苦しみの消滅の原因(滅諦)、
④苦しみを消滅させる方法(道諦:これがまさに仏道で、悟りのよすがや、八正道、五根がこの部分の教えです!)

を考え抜いて、知慧でこの概念を得て、人類に紹介したのです。お釈迦様は、「悪いこともあれば、いいこともあるさ!」なんてお気楽なことはおっしゃらないのです。まあ、悪い連中に地球が支配されている時期にお釈迦様は活躍なさったのですから、まともな人は一切皆苦であると広言なさったのは、素晴らしいことだったと思います。

 中国の大乗仏教によって、四諦、八正道(今回の詩では八聖道と表記)、悟りのよすが(七覚支)、五根については、様々考察されているようですが、漢文が多く、煩雑です。また、お読みいただくと、第25章 修行僧 370詩で私が書いたコメント(A)とは異なるものもありますが、多数の解釈があって非常にややこしいです。
 そこで、私のような素人が、仏典のスキームを、自分の経験、日月神示や知識でつなげたものが(A)ですから、大乗仏教の解釈と違うというご意見が出ると思います。
 しかし、大乗仏典ですら、多数の解釈があるので、その中から、私の書き換え基準--読んでみて腑に落ちるという感覚--を大切にして書き直しコメントを入れています。惑わすことは極力排除するように進めていますが、お読みになっている方々も、私の書き換え詩やコメントに違和感を感じましたら、ご自分ならどんな解釈かな?っと考えて読んでみてください。案外、お釈迦様から、心に返信が来るかもしれません。

 ちなみに、玄奘三蔵様も、インドから仏典を持ち帰られた時に、時の唐の皇帝太宗には帰ったことも告げず、静かに漢訳を試みたようですが(皇帝から逃げたのかな?)、皇帝が知ることとなり、寺とお手伝いを当てがわれて(ほぼ軟禁状態?漢訳作業をなさったようです。既存の仏典には言葉にたくさんの魔が仕込まれている模様です!
 
http://way-to-buddha.blogspot.jp/search?q=四諦 さんより一部コピペです。仏教がお好きな方は、ぜひ、お立ち寄りいただき、一度読んでみてください。コピペ引用は斜体明朝にします。

(*)私の場合、解脱は、この世の中では考えられないパワーを得られる状態で、善による解脱と悪による解脱と両者が存在すると考えていますが、仏教で言えば、解脱は普通は善による解脱しか定義しないと思います。読者の皆様は、そこをご注意ください。

*****コピペ引用開始 四諦(四聖諦、苦集滅道)[仏教の基礎知識(2)]***********
四諦とは、ブッダが説いた、四つの真理(苦、集、滅、道)のことである。
四諦は、四諦の法門、四聖諦とも呼ばれる。ここで「諦」とは「明らかにすること」、「真理」とでもいう意味で用いている。

○四諦(四聖諦)

① 苦諦(くたい)
② 集諦(じゅうたい)
③ 滅諦(めつたい)
④ 道諦(どうたい)

四諦の各々について、もう少し詳しく解説しておこう。ブッダは基本的に、人間のこういう人生の真相を認識していたがゆえに、苦を滅した状態(ニルヴァーナ)へと到る方法を説いたのである。

1.苦諦
苦諦とは、人生が苦であるということである。
苦とは、人生の真相、現実であり、ブッダの人生観の根本である。そして、これこそ人間の生存自身のもつ必然的な姿である。このような人間存在の苦を示すために、仏教では四苦を説き、さらには四苦八苦を説いている。

四苦とは、次のものである。
① 生(生きること)
② 老(老いること)
③ 病(病気になること)
④ 死(死ぬこと)

さらに四苦八苦という場合には、次のものを付け加える。
(省略)
2.集諦
集諦とは、さまざまな悪因を集めたことによって、苦が現れたものであるということである。
「集」とは招き集めることで、苦を招き集めるものが、煩悩であるというのである。(かき集めてばかりの私です。汗!どんまい!)

(省略)

3.滅諦
滅諦とは、苦のなくなった状態のことである。
苦の滅という状態が存在することであり、苦のなくなった状態とは、ニルヴァーナの境地であり、一切の煩悩から解放された境地であり、解脱といえる(*)

4.道諦
道諦とは、苦を滅した状態(ニルヴァーナ)を獲得する方法のことである。
つまり、ニルヴァーナへと到る実践的な修行体系を指している。これが仏道と呼ばれるものすなわちブッダの体得した解脱への道である。
(省略)
**********(コピペ引用終了)************
***(書換え詩)*************
188) 書換え不要
189) 書換え不要
190)四つの尊い真理が、安らかなよりどころであり、最上のよりどころであり、あらゆる苦悩から免れるよりどころである。
191)この四つの尊い真理とは、(1)苦しみと、(2)苦しみの成り立ちと、(3)苦しみの超克(チョウコク)と、(4)苦しみの終減(オワリ)におもむく八つの尊い道(八聖道)である。
192)削除 190)へ移動

詩番号 181

***(元データ)*************
181)正しいさとりを開き、念いに耽り、瞑想に専中している心ある人々は世間から離れた静けさを楽しむ。神々でさえもかれを羨む。
***(判定)*************
A
***(コメント)*************
これは 第7章真人 詩94の後に挿入します。
***(書換え詩)*************
181)書換え不要

詩番号 186

***(元データ)*************
186)たとえ貨幣の雨を降らすとも、欲望の満足されることはない。「快楽の味は短くて苦痛である」としるのが賢者である。
***(判定)*************
A
***(コメント)*************
これは 第6章賢い人 詩87の後に挿入します。
***(書換え詩)*************
186)たとえ貨幣の雨を降らすとも、欲望の満足されることはない。「快楽の味は短くて苦痛である」と知るのが賢い人である。