2021年3月29日月曜日

無明

 【1】六汚れ 

  1. 執着 執着すること。しかし、執着対象の、良し悪しは区別しません。
  2.  怒ること(妬むこと)。正当な怒りも不当な怒りも含まれます。
  3.  奢ること
  4. 悪見 悪い教えや考えを持ち、信じること
  5. 疑惑 真理を疑うこと
  6. 無明 : 以下参照 

*執着と怒に関しては、全く悪とは考えず、正当なものへの執着や怒りは良しとします。ただ、正当な執着や怒りであっても、そ れらに支配されずに、意を離し制する必要があると考えます。 他方、慢,悪見,疑惑,無明については、悪(影)と捉えます。 

 【2】無明 

 前回の説明に付け足すことが増えました。前回の説明の要約は以下の通りです。 「無明とは、人間が根本的に持っている無知のことである。人生における人間の苦しみは、すべてこの無明から始まることをブッ ダは、瞑想の中から発見した。人は、その無明というものを取り払うことで、心安らかに生きていける。」(http://www.st.rim.or.jp/~success/mumyou_ye.html さんより)

 無明 (avija) という言葉は、お釈迦様が初めて使われたのかどうか? はわかりませんが、このようなものが存在するとは、私も最近は切に感じています。慢,悪見,疑惑がなくなってくると、この無明の存在がどうやら感じられて、これが何であるのか理解できるようになってくるものだと思います。以下に あえて、説明を試みます。

 この無明は、他の5つの分類項目が悪い方向に働くと増幅され、この5項目の悪い 作用を増幅させる元であると考えています。ただ、無明は随煩悩の働きによっても増 すようです。 正精進によって、努力して自力で六汚れは減らすことはできるのですが、最後にわ ずかに無明が残ると言われ、私は、この最後の無明は 上位の存在(本守護神様)に よって取り払われ、み仏(ブッダ)や真人となるのではないか、これにより 上位の存 在とも直接つながるので 自分が何をなすべきか 直接のご指導ご鞭撻が受けられるた めに 非常に高い能力を発揮することが可能になるのでは? と考えています。 

 しかし、この無明が取れてしまうと、魂が、荒波や激流だらけのこの世の中に、真 の意味で直接つながるので、魂がそれに耐えうる強さを持っているか否かが、無明を 取り外す判断基準だと思います。無明を、外してもらえるように正精進するのが私た ち人間の務め・課題ではあるのですが、まだ直接、この世の中では修行できない普通 の魂の保護バリアとしての役割もあると感じています。つまり、無明が、最大の汚れ であると同時に、この世を渡るための魂の保護バリアであるという二面性があると、 私は考えています。

 現在、当方は無明は 副守護神様 つまり悪魔の自分(先祖)ではないかと考えていま す。副守護神様も私たち同様に私たちの生で修行をなさり気づきを得て進化をなさっ てらっしゃり、副守護神様が持つ悪魔性を減らすには、私たちの日々の生き方が非常 に重要になる、でもやはり自分なので最後まで残ってしまう悪になるのではないかと 考えています。無明以外の六汚れ(五つの汚れ)は、無明(副守護神様)を潤す物な のだと考えています。それらが多い時には、心が無明である副守護神様を感じることができないのでしょう。

真理のことば、法句経 第5詩

真理のことば、法句経 第5詩;G136 (F005, A, O005, OS1)
 

中村元氏の訳

実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息(や)むことがない。

怨みを捨ててこそ息(や)む。これは永遠の真理である。


荻原雲来氏訳の訳

世の中に怨は怨にて息むべきやう無し。無怨にて息む、此の法易はることなし。


立花俊道氏訳の訳

此の世に於て怨は怨を以てしては終に解くべからず、愛を以てぞ解くべき、これ永劫不易の法なり。


月夜の龍の訳

この世においては、怨みによって怨みに報いても、怨みが息(や)むことはない。怨みを離れ 愛をもってこそ 怨みが息(や)む。これは永遠の真理である。


前回の月夜の龍の訳

実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息(や)むことがない。

怨みを離れてこそ息(や)む。これは永遠の真理である。 


(コメント)

  1. 「捨てて」ではなく、「離れて」にしました。
  2. 立花俊道氏訳の法句経(ダンマパダ)では、「恨みがないこと」を転じて「愛により」と訳し、その大胆さと的確さに息を呑みました。


2021年3月24日水曜日

再考「真理のことば」書き換えの途中経過 の続報

 再考「真理のことば」書き換えの途中経過 の続報

詩番号

G246 (F333, B, O393, OS26) 、

G247 (F334, A, O307, OS22)、

G248(F335, B, O394, OS26)、

G249 (F336, C, O395, OS26)、

G250 (F337, C, O396, OS26) 

[[ @ GS 19 修行僧 ]]

について現在行っている書き換え詩が決定しましたので掲載いたします。


 最新バージョンの詩番号接頭文字をG(前回はF)にする予定です。


G246

氏姓と生れによって修行僧となるのではない。

真理と理法とをまもり 涅槃(悟りによる解脱)に入りし修行僧が、真の修行僧であり バラモンとは言わない。 

G247

袈裟を頭から纒っていても、性質(タチ)が悪く、つつしみのないバラモンが多い。かれら悪人は、悪いふるまいによって、悪いところに生まれる。

G248

愚かなバラモンよ。身なりだけ整えて、何になるのだ。汝は内に密林(=汚れ)を蔵して、外側だけを飾る。

G249

また バラモンは 粗末な身なりで 痩せて 血管があらわれていようとも 寂しい場所で一人で瞑想に専念するとも言われている。

G250

しかし、(バラモン女の)胎から生れ(バラモンの)母から生れた人をバラモンと呼ぶのである。この人が「【君よ】といって呼びかける者」でも、「執着にとらわれている者」でもバラモンである。

 執着を離れ制す修行僧、─ その人を吾は 真の修行僧と呼び、バラモンとは呼ばない。

2021年3月9日火曜日

真理のことば 13節 世の中 174詩と175詩 

 詩番号 G050 (F052, C, O174, OS13) 、

            G051 (F053, C, O175, OS13)   [[ @ GS 5 世の中 ]]

 元詩(O番号)→ 一次変更詩(F番号)→ 最新変更(G番号)の順で変更しています。

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最新変更(G050) 
 この世の中は暗黒である。ここではっきりと理(コトワリ)の実相を見分ける人は少ない。 — 網から脱れた鳥が少ないように。

最新変更(G051) 
 渡鳥は日中に往来を繰り返し、通力によって動く者は虚空の道を回り、正しい心を持つ真人は悪魔とその軍勢にうち勝って 因縁からむこの世から放(はな)れ ブッダとなる。
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元詩(O174)
 この世の中は暗黒である。ここではっきりと (ことわりを) 見分ける人は少ない。網から脱れた鳥のように、天に至る人は少ない。


元詩 (O175)
 白鳥は太陽の道を行き、神通力による者は虚空(そら)を行き、心ある人々は、悪魔とその軍勢にうち勝って世界から連れ去られる。
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一次変更詩(F052) 
 この世の中は暗黒である。ここではっきりと理(コトワリ)と実相を見分ける人は少ない。しかし、これらを見分けたならば、悪魔とその軍勢にうち勝つ。あたかも、網から脱れた鳥のように。


 一次変更詩(F053)
 網から脱れた鳥のような真人は、あるものは白鳥のように太陽の道を行き、あるものは神通により虚空を行き、あるものはブッダとなる。
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(コメント)
  •  この2詩の難解な部分が、鳥の部分と神通でした。
  • 「鳥」はそのまま「普通の人や大衆」として比喩されていると思われます。
  • この詩の ver. 1 のコメントは頓珍漢でした。あらためて訂正してお詫びします。前回は一二三神示を引用しましたが、今回は取り下げます。
  • 荻原雲来氏訳の「法句経」では G051 詩の「白鳥」は「鵝鳥」と書かれています。これはガチョウではなく渡鳥の類とのことです。比喩としては、善悪が完全に正しく判断できない多くの普通の人間で、いつも 同じ失敗を繰り返して、この世の中を彷徨っているという感じです。
  • 「神通」を「通力」と変更しました。これはいわゆる超常的力(魔法)のことで、それを駆使できる存在(人間じゃない存在も多い) が、虚空道を進んでいるとしました。
  • 「虚空」は、「むなしい」という意味ですが、虚は「艮(うしとら)の金神様の偉大な」という意味で、空は真理となりますので、偉 大な真理という意味が裏にあります。「虚空の道」を、悪い目的のために使う存在は「虚しい道を進む者」であり、良い目的のために 使う存在は「偉大な道を進む者」となるのだと思われます。二面的な意味があるのだと思いますが、なんといっても人間の領域を超えているので、皆様も色々と考えてみてください
  • 「心ある人」は、「正しい心を持つ真人」とします。
  • 「世界から連れ去られる」は「ブッダになる」としましたが、今回は「因縁からみつく世界から放れブッダとなる」としました。

2021年3月2日火曜日

真理のことば 353詩

 詩番号 F347 (F347, A, O353, OS24)  [[ @ FS 25 ブッダ ]]

   我はすべてに打ち勝ち、すべてを知り、あらゆることがらに関して汚されていない。すべてを捨てて、愛欲は尽きたので、

   こころは解脱している。みずからさとったのであって、誰を(師と)呼ぼうか。(「その我とは何ぞや、釈迦よ、答えよ。」)


中村氏の元詩(24章 353詩)

  われはすべてに打ち勝ち、すべてを知り、あらゆることがらに関して汚されていない。すべてを捨てて、愛欲は尽きたので、こころは解 脱している。みずからさとったのであって、誰を(師と)呼ぼうか。


再考真理のことばver.1書換え詩

  我は全てに打ち勝ち、全てを知り、あらゆることがらに関して汚されていない。全ての執着を捨てて、汚れが尽き、心は解脱している。 自らさとったのであって、誰を(師と)呼ぼうか。


(コメント)

OS24 愛執 から移動。

  • 「すべてを捨てて、愛欲は尽きたので」→「全ての執着を捨てて、汚れが尽き」と書き換えます。
  • 最初に この詩文を反語用法「~であろうか? (いや、~でない。)」で書かれていると捉えていました。しかし、今となっては お釈迦様の 中の「我」が発した詩に対して( )内が本守護神様が正守護神に対して問いという形でお答えになっているのではないかと考えています。
  • この詩は全体的に傲慢な感じがします。 一度、真理を教示してくれた人を頼ることはダメでも師として敬愛の念を持つことが徳や誠というものです。
  • 色々な関係や出来事から悟るのであって、それを鑑みたときに「みずから悟る」という言葉は普通の人間にはない発想です。ひたすら感謝になるのではないでしょうか。
  • お釈迦様の教えは和を大切にする教えで、「勝敗を議論する」ことを完全に否定する教えです。

   これに対して、指導なさる本守護神様が、括弧内の問いかけで気づかせようとなさっています。

  さて、お釈迦様はどのようにお答えになったのでしょうか? 

  これが、皆様にとっても最終試験なのかもしれないです。


   ここまで書き進めさせていただいて、当方は 最終的な師は「法(真理)」であるのではないか?と思うようになりました。 「自燈明、法燈明」の言葉の捉え方なのですが、「法の灯りとは、おのずと(自然にそこに)ある灯(あか)りのようなものですよ。誰の近くにも自然とあるんですよ。」という意味であって、「自分を拠り所にしなさい。」つまり、「法=自分」という強烈に傲慢な意味になりかねない捉え方では、平和を誘うことなどできないと思い至るのです。

  お釈迦様のお答歌としては、当方は、 「吾は、全ての執着を捨てて、汚れが尽き、涅槃(悟りによる解脱)を得た。これからは法を頼りとし 生きとし生けるものを慈しみ 生きていこう。」

と 想像しています。