2018年4月25日水曜日

存在の分類図の訂正

第19章 道を実践する人 を読み進めるうちに、ブログ記事

(1)「真理のことば」における存在の分類 ver.1(作業順序の予定)


(2)真理のことば 第6章 賢い人(元データと判定・解釈・考察と書き換え)


に掲載した存在の分類図を変更したほうが良いと感じましたので、訂正を加え、これらの記事中の図を差し替えました。本記事の最後に、差し替え前後の図を載せます。

 大まかな変更点は、
1、基準にした“第26章 バラモン”内の詩388は、かなり書き換えが必要ですので、参考にしないことにしました。

2、<道の人>=<道を実践する人>と考えましたが、<道の人>=<修行僧> と捉えるほうが、第19章 道を実践する人を読んで、適切だという結論に至りました(詳細は、今後掲載する記事「19章 道を実践する人(元データと判定・解釈・考察と書き換え)」を参照してください。)。

です。


 これにより、“賢い人”が、在家的か出家的かで、それぞれ、“道を実践する人”と“出家者”に分類されます。
 このように考えると、非常にスムーズにお釈迦様が、誰にご教示した詩なのかなどが掴みやすいです。
 どうしても、現状の仏教が在家ではなく、出家者への教えが中心となって、仏教の中の在家の存在自体がボヤけてしまうのです。お釈迦様は、在家と出家に上下はつけてらっしゃらなかったと思いますし、数では圧倒的に多いい在家を中心に考えてらしたのではないかと思うのです。この分類が頭に入ると、お釈迦様は、生活の上で守らなければならない戒律は両者で異なり、在家に対する教えが生き生きと伝わってきます。逆に、出家者や修行僧への厳しい眼差しを向けるのも在家の役割となさっている節があります。在家の賢者に対する教えが、“第19章 道を実践する人”に記されています。次回は、この記事をアップしたいと思います。


 

2018年4月19日木曜日

第5, 6, 7章 愚かな人, 賢い人, 真人 書換え詩一覧 その3

訂正履歴 
・詩186(第6章 賢い人)と詩181(第7章 真人)を加える。(180605)
136[296]を第10章 暴力より5 愚かな人 詩番号69の後へ移動 (181005)
・詩143+144[299]を第10章 暴力より第6章 賢い人 の最後に移動 (181005)


()は中村元氏の詩番号、 [  ]は残した詩のシリアル番号
第5章 愚かな人、第6章 賢い人、第7章 真人 

書換え詩一覧

5章 愚かな人
(60)[51]
 眠れない人には夜は長く、疲れた人には一里の道は遠い。
正しい真理を知らない愚かな者どもには、生死の道のりは長い。
(61)[52]
 旅に出て、もしも自分よりもすぐれた者か、または自分にひとしい者に出会わなかったら、むしろきっぱりと独りで行け。
愚かな者を道伴(づ)れにしてはならぬ。 
(62)[53]
 「わたしたちには子がある。わたしには財がある。」と思って愚かな者は悩む。
しかしすでに自己が自分のものではない。 ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか。 
(63)[54]
 もしも愚者がみずから愚であると考えれば、すなわち賢者である。
愚者でありながら、しかもみずから賢者だと思う者こそ、「愚者」だと言われる。
(64)[55]
 愚かな者は生涯賢者に仕えても、真理を知ることが無い。匙が汁の味を知ることができないように。
(65)[56]
 聡明な人は瞬時(またたき)のあいだ賢者に仕えても、ただちに真理を知る。_舌が汁の味をただちに知るように。
(66)[57]
 あさはかな愚人どもは、自己に対して仇敵(かたき)に対するようにふるまう。悪い行いをして、苦い果実(このみ)をむすぶ。 
(67)[58]
 もしも或る行為をした後に、それを後悔して、顔に涙を流して泣きながら、その報いを受けるならば、その行為をしたことは善くない。
(68)[59]
 もしも或る行為をしたのちに、それを後悔しないで、嬉しく喜んで、その報いを受けるならば、その行為をしたことは善い。
(69)[60]
 愚かな者は、悪いことを行っても、その報いの現れないあいだは、それを蜜のように思いなす。しかし、その罪の報いの現れたときには、苦悩を受ける。
(136)[296] 第10章 暴力より移動より5 愚かな人 詩番号69の後に移動
 愚かな者は、悪い行いをしておきながら、気がつかない。しかし浅はかな愚者は自分自身のしたことによって悩まされる。
(70)[61]
 愚かなものは、真理をわきまえた人の功徳と同じように、断食行により功徳が得られると考える。
 しかし、愚者の行う断食行に功徳はない。
(71)[62]
 悪事をしても、その業は、しぼり立ての牛乳のように、すぐに固まることはない。(徐々に固まって熟する)その業は、灰に覆われた火のように、(徐々に)燃えて悩ましながら、愚者につきまとう。
(72)[63]
 愚かな者に念慮(おもい)が生じても、ついにかれには不利なことになってしまう。その念慮は彼の好運(しあわせ)を滅ぼし、かれの頭を打ち砕く。
(73)[64]
 愚かな者は、実にそぐわぬ虚しい尊敬を得ようと願うであろう。修行僧らのあいだでは上位を得ようとし、僧房にあっては権勢を得ようとし、他人の家に行っては供養を得ようと願うであろう。
(74)[65]
「これは、わたしのしたことである。在家の人々も出家した修行者たちも、ともにこのことを知れよ。およそなすべきこととなすべからざることとについては、私の意に従え」_愚かな者はこのように思う。こうして欲求と高慢(たかぶり)とがたかまる。
(75)[66]
一つは利得に達する道であり、他の一つは安らぎにいたる道である。ブッダの弟子である修行僧はこのことわりを知って、栄誉を喜ぶな。孤独の境地に励め。

6章 賢い人
(76)[67]
(おのが)罪過(つみとが)を指し示し過ちを告げてくれる聡明な人に会ったならば、その賢い人につき従え_隠してある財宝のありかを告げてくれる人につき従うように。そのような人につき従うならば、善いことがあり、悪いことは無い。
(77)[68]
 賢い人は善人に愛せられ、悪人からは疎まれる。
(78)[69]
 悪い友と交わるな。卑しい人と交わるな。善い友と交われ。尊い人と交われ。
(79)[70]
 真理を喜ぶ人は、心きよらかに澄んで、安らかに臥す。
 賢い人は、聖者(真人やブッダ)の説きたまうた真理を、常に楽しめる。
(80)[71]
 水道をつくる人は水をみちびき、矢をつくる人は矢を矯め、大工は木材を矯める様に、賢者は自己を整えよ。
(81)[72]
 一つの岩の塊りが風に揺るがないように、賢者は非難と賞賛とに動じてはならない。
(82)[73]
 清らかな、澄んだ、深い、静かな湖のように、賢者は真理を聞いて、こころ清らかとなる。
(83)[74]
 高尚な人々は、どこにいても、執着すること無く、快楽を欲してしゃべることも無い。しかるに、賢者は、楽しいことに遭(あ)っても、動じてはならない。
(84)[75]
 自分のためにも、他人のためにも、子を望んではならぬ。財をも国をも望んではならぬ。
邪なしかたによって自己の繁栄を願うてはならぬ。(道にかなった)行いあり、明かな知慧があり、真理にしたがっておれ。
(85)[76]
 人々は多いが、安らぎに達する人々は少ない。他の(多くの)人々は輪廻転生をさまよっている。
(86)[77]
 真理が正しく説かれたときに、真理にしたがう人々は、渡りがたい輪廻転生を超えて、安らぎにいたるであろう。
(87)[78]
 賢者は、悪いことがらを捨てて、善いことがらを行え。楽しみ難いことではあるが、孤独(ひとりい)のうちにも、喜びを求めよ。
(186)[79] 第14章 ブッダより移動
 たとえ貨幣の雨を降らすとも、欲望の満足されることはない。「快楽の味は短くて苦痛である」と知るのが賢い人である。
(88)[80]
 賢者は欲楽を捨てて、無一物となろうとも、心の汚れを去って、おのれを浄めよ。
(89)[81]
 覚りのよすがに心を正しくおさめ、執着なく貪りを捨てるのを喜び、煩悩を滅ぼし尽くして輝けば、現世において全く束縛から解きほごされる。
(143, 144)[299] 第10章 暴力より移動第6章 賢い人 の最後に移動)
 自ら恥じて自己を制し、良い馬が鞭を気にかけないように、世の非難を気にかけない人が、この世に誰か居るだろうか?
 賢い人よ、鞭をあてられた良い馬のように勢いよく努め励めよ。
 正しい信仰・戒しめ、はげみ、精神統一や禅定により思念をこらし、真理を確かに知り、この少なからぬ苦しみを除けよ。そして、知慧と行いを完成させよ。

7章 真人
(90)[82]
 すでに(人生の)旅路を終え、憂いをはなれ、あらゆることがらにくつろいで、あらゆる束縛の絆をのがれた人には、悩みは存在しない。
(91)[83]
 心をとどめている人々は努めはげむ。かれらは執著を遠ざける。彼らは、あの執著、この執著を捨てる。
(92)+(93)[84]
 財を蓄えることなく、食べ物についてその本性を知り、情欲・迷妄・怒りから離れ空を体現し、自らの願への執着をなくし無相を体現する。
 無相を体現した人は、汚れが消え失せ、彼の生活の道は、凡夫のうかがい知れないものとなる。
(94)[85]
 御者が馬をよく馴らしたように、おのが感官を静め、高ぶりをすて、汚れのなくなった_このような境地にある人を神々でさえも羨む。
(181)[86]
 正しいさとりを開き、念いに耽り、瞑想に専中している心ある人々は世間から離れた静けさを楽しむ。神々でさえもかれを羨む。
(95)[87]
 大地のように慎み深く、整った門のように分別を保ち、汚れた泥がない深い湖のように清らかな、そのような境地にある人には、もはや生死の世は絶たれている。
(96)[88]
 無相の体現によって解脱して、やすらいに帰した人_そのような人の心は静かである。ことばも静かである。行いも静かである。
(97)[89]
 作られたもの_既存の信仰や神を軽信することなく、作られざるもの_法を知り、生死の絆が絶たれ、善悪の計らい、もろもろの欲求から離れた人、彼こそ実に最上の人、真人である。
(99)[90]
 真人は人のいない荒れ地でも楽しい。世人の楽しまないところにおいて、愛著なき真人は楽しむであろう。かれらは快楽を求めないからである。
(98)[91]
 村にせよ、荒れ地にせよ、低地にせよ、平地にせよ、真人の住む土地は楽しい。

2018年4月13日金曜日

第7章 真人(元データと判定・解釈・考察と書き換え)

訂正履歴
・赤字部分は2018/4/19訂正(同4/13初版)
・詩181)を第14章ブッダから第7章真人の詩94の後に移動。

詩番号 90

***(元データ)*************
90)すでに(人生の)旅路を終え、憂いをはなれ、あらゆることがらにくつろいで、あらゆる束縛の絆をのがれた人には、悩みは存在しない。
***(判定)*************
90)A
***(コメント)*************
90)真人(=ブッダ)の一つの性質を謳っている詩。
***(書換え詩)*************
90)書き換え不要


詩番号 91

***(元データ)*************
91)こころをとどめている人々は努めはげむ。かれらは住居を楽しまない。白鳥が立ち去るように、かれらはあの家、この家を捨てる。
***(判定)*************
91)D
***(コメント)*************
 中村氏により、住居=執著であるという注釈がなされています。私は、出家礼賛は、人を正しい方向には導かないと考えていますので、ストレートに住居や家を執著と置き換え、文章を整えます。
***(書換え詩)*************
91)心をとどめている人々は努めはげむ。かれらは執著を遠ざける。彼らは、あの執著、この執著を捨てる。


詩番号 92、93

***(元データ)*************
92)財を蓄えることなく、食べ物についてその本性を知り、その人々の解脱の境地は空にして無相であるならば、かれらの行く路(足跡)は知り難い。__空飛ぶ鳥の迹の知りがたいように。

93)その人の汚れは消え失せ、食べ物をむさぼらず、その人の解脱の境地は空にして無相であるならば、かれの足跡は知り難い。_空飛ぶ鳥の迹の知り難いように。
***(判定)*************
92)D
93)D
***(コメント)*************
 自分の持つ  “(自分の持つ)金品に対する欲”、“食欲”、“情欲”、“怒り”に対して、自分の心から距離を置いて客観性を保ち、迷妄(迷い)を捨てた時に、その人は空になると考えましょう。空を持続した時が空の体現とします。さらに、自分が持つ願望から離れた時に始めて無相になると考えています。無相の持続を、無相の体現と呼びましょう。
 自分が持った願や怒り諸欲ですら正しいことは多々あるのです。正しい場合、それらを捨ててはダメで、その時は思い通りにいかなくても、温存する必要があるのです。捨てるという行為は、自暴自棄につながりやすいのです。ですから、距離をおいて冷静に状況を見る必要があるということを表現したほうが、人間がより良い方向に向かえると思っています。
 さらに、無相を体現することによって、その人の汚れ(悪い想念やカルマ)が消滅していくと思います。カルマが消滅するということの大前提は、カルマの清算ですから、無相が体現されたからと言ってすぐに素晴らしい状態が待っているわけではないのです。すでにその人が持ってしまっている悪い想念やカルマを消滅させるには時間が必要ですから、しばらくは、ひたすら忍耐という辛い時間が待っています。しかし、この無相を保つことで、悪いカルマや想念を再生産せずに済みますから、徐々に量が減ってきて、楽な状態へと移行していきます。

 “財を蓄えることなく”については、中村氏が“修行僧は、三衣一針と座具と水さし袋以外は所有が許されない”という戒律で具現化していると注を入れていらっしゃいます。私は、お釈迦様が出家を推奨なさったとは考えにくいという立場から、そんなに粗末に暮らすことを勧めたのではなく、必要以上もしくは必要な財でも、執着を持って、策を弄して、蓄えるようなことを、嗜(たしな)められていると思います。

 “食の本性”については、中村氏の注釈によると、
(1)食する人が、乳粥を乳粥であると認識するように、食したものを正しく認識すること
(2)食物が好ましいものではないとして、食物を超越すること
(3)食物を食べる時には、それに対する欲望を除き去ること
となっています。食事は嬉しいもので、エネルギーがみなぎってくるのがわかるし、食べたいという欲求の言いなりにならないようにする必要があるとは思いますが、その食欲を全面的に否定するのはやはり不自然です。ですから、仏教の食事についての教えは改ざんがなされていると思います。日月神示は食べものについて、とても色々な助言があり、仏教の教えに対して当たらずとも遠からずですし、分かりやすいので、ここで参考に載せます(https://ameblo.jp/hifumijuku/entry-12275946719.html さんより)。
「悪い食物、悪く食べるから、悪くなるのぢゃ」
「食いて生くべきもので人殺すとは何事ぞ」
「そなたは、食べ物は自分でないと思うているが、食べるとすぐ自分となるではないか」
「口から入るもの気つけよ、いくさ(戦)起こるのぢゃ」
「腹八分、二分は先ずささげよ。運ひらけるぞ。病治るぞ。」
「人は思うておるより少しの食べ物で生きられる。食べるということはその生命をいただくことじゃ。」
「腹一杯食べてはならん、死にゆく道ぞ、二分を先づ神にささげよ。流行病は邪霊集団のしわざ、今にわからん病、世界中の病はげしくなるぞ。」
「食物、食べ過ぎるから病になるのぢゃ。不運となるのぢゃ。口から出るもの、入るもの気つけよ。」
「臣民一日に二度食べるのざぞ、朝は日の神様に供へてから頂けよ、夜は月の神様に捧げてから頂けよ、それがまことの益人ぞ。」
「日本には、五穀、海のもの、野のもの、山のもの、皆 人民の食いて生くべき物、作らしてあるのぢゃぞ。日本人には肉類禁物ぢゃぞ。」
「獣の喰ひ物くふ時には一度神に献げてからにせよ、神から頂けよ、さうすれば神の喰べ物となって、何たべても大じょうぶになるのぞ、何もかも神に献げてからと申してあることの道理よく分りたであろがな」

 解脱については、普通の人間が所持しえない力を有するようになった時を解脱というのだと私は捉えています。力とは魔術とは限らず、特別な才能だったりもします。しかし、これは悪神からのお力添えの時もあり、それでも解脱と言えます。今回は、解脱という言葉は、詩から削除しておきます。
 普通の人が生活を送るようには、解脱者の生活は送られませんし、それを情報が開示されていない普通の人が想像することは難しいと思います。
 この二つの詩は、オーバーラップが多いので、一つにまとめます。

***(書換え詩)*************
92)+93)
 財を蓄えることなく、食べ物についてその本性を知り、情欲・迷妄・怒りから離れ空を体現し、自らの願への執着をなくし無相を体現する。
 無相を体現した人は、汚れが消え失せ、彼の生活の道は、凡夫のうかがい知れないものとなる。


詩番号 94~96

***(元データ)*************
94)御者が馬をよく馴らしたように、おのが感官を静め、高ぶりをすて、汚れのなくなった_このような境地にある人を神々でさえも羨む。

95)大地のように逆らうことなく、門のしまりのように慎み深く、(深い)湖は汚れた泥がないように、_そのような境地にある人には、もはや生死の世は絶たれている。

96)正しい智慧によって解脱して、やすらいに帰した人_そのような人の心は静かである。ことばも静かである。行いも静かである。
***(判定)*************
94)A
95)A
96)A
***(コメント)*************
95)大地と門の比喩が意味不明ですから、私が書き換えます。
 大地は、生きとし生けるものすべてに恩恵を与えていても、いつも静かに自分を主張するということがありませんので、慎しみ深いのは大地と考えます。
 門は閉めたり開けたりすることで、人の出入りを監視しますので、正しい分別を持つということを比喩していると考えます。

96)解脱に関しては、詩93の定義を使用しました。

***(書換え詩)*************
94)書き換え不要

95)大地のように慎み深く、整った門のように分別を保ち、汚れた泥がない深い湖のように清らかな、そのような境地にある人には、もはや生死の世は絶たれている。

96)無相の体現によって解脱して、やすらいに帰した人_そのような人の心は静かである。ことばも静かである。行いも静かである。

詩番号 181

***(元データ)*************
181)正しいさとりを開き、念いに耽り、瞑想に専中している心ある人々は世間から離れた静けさを楽しむ。神々でさえもかれを羨む。
***(判定)*************
A
***(コメント)*************
第14章ブッダから第7章真人の詩94の後に移動。
***(書換え詩)*************


181)書換え不要

詩番号 97

***(元データ)*************
97)何ものかを信ずることなく、作られざるもの(ニルヴァーナ)を知り、生死の絆を断ち、(善悪をなすに)よしなく、欲求を捨て去った人_かれこそ実に最上の人である。
***(判定)*************
97)D
***(コメント)*************
97)作られざるものとは、神々や人々が作ったものではなく、この世の元から厳然と存在しているもので、誰も変更できない法や法則のことと考えています。
 “何ものかを信ずることなく”は、次の“作られざるもの”と対応した句ですから、“何ものか=作られたもの”となるでしょう。これらは既に作られたものですから、既存の宗教、信仰や教え、教育ということになります。これらへの軽信を警戒せよという教えでしょう。しかし、ここで誤解は禁物ですが、世の中の既存のものでも、信じる価値があるものは必ずあります。そして、それらが土台となって、信じてはいけないものが作られています。ですから、判別が難しいのですが、最近では日本語が非常にあやふやだったり、よく報道や官庁の広報誌等で声高に言われているものは、怪しいと考えたほうが無難です。このようにいちいち考えるということは、いちいち択法するということに他なりません。そして、仏教における択法は、神道におけるサニワでしょう択法を繰り返し、作られざるもの(法や法則)を満たした自分の拠り所を大きくするということが、魂の成長でしょう
 信仰=神仏を信じることですので、宗教と同意語と捉えます。
 生死の絆は自分で絶つのではなく、自然と絶たれるものと考えます。
 捨てるという強い表現は避け、離れるという表現を使いました。
  
***(書換え詩)*************
)作られたもの_既存の信仰や神を軽信することなく、作られざるもの_法を知り、生死の絆が絶たれ、善悪の計らい、もろもろの欲求から離れた人、彼こそ実に最上の人、真人である。


詩番号 98、99

***(元データ)*************
98)村にせよ、林にせよ、低地にせよ、平地にせよ、聖者の住む土地は楽しい。

99)人のいない林は楽しい。世人の楽しまないところにおいて、愛著なき人々は楽しむであろう。かれらは快楽を求めないからである。
***(判定)*************
98)B
99)B
***(コメント)*************
 詩99は、真人の行動の特徴を記しているのですが、詩98は真人が存在した時の状況を記しています。また、詩番号90から97までは、全て真人の行動の特徴を元に詩が作られています。このことから、詩の並び順を、99→98へと変更した方が、流れが自然です。
 “聖者”を“真人”と書き換えておきます。
 また、インドには、日本で考える“林”というものが存在しないようで、ここでいう“林”は、“荒れた空き地”と、中村氏が注釈されているので、“林”を“荒れ地”と書き換えておきます。
***(書換え詩)*************
99)真人は人のいない荒れ地でも楽しい。世人の楽しまないところにおいて、愛著なき真人は楽しむであろう。かれらは快楽を求めないからである。

98)村にせよ、荒れ地にせよ、低地にせよ、平地にせよ、真人の住む土地は楽しい。