2018年4月13日金曜日

第7章 真人(元データと判定・解釈・考察と書き換え)

訂正履歴
・赤字部分は2018/4/19訂正(同4/13初版)
・詩181)を第14章ブッダから第7章真人の詩94の後に移動。

詩番号 90

***(元データ)*************
90)すでに(人生の)旅路を終え、憂いをはなれ、あらゆることがらにくつろいで、あらゆる束縛の絆をのがれた人には、悩みは存在しない。
***(判定)*************
90)A
***(コメント)*************
90)真人(=ブッダ)の一つの性質を謳っている詩。
***(書換え詩)*************
90)書き換え不要


詩番号 91

***(元データ)*************
91)こころをとどめている人々は努めはげむ。かれらは住居を楽しまない。白鳥が立ち去るように、かれらはあの家、この家を捨てる。
***(判定)*************
91)D
***(コメント)*************
 中村氏により、住居=執著であるという注釈がなされています。私は、出家礼賛は、人を正しい方向には導かないと考えていますので、ストレートに住居や家を執著と置き換え、文章を整えます。
***(書換え詩)*************
91)心をとどめている人々は努めはげむ。かれらは執著を遠ざける。彼らは、あの執著、この執著を捨てる。


詩番号 92、93

***(元データ)*************
92)財を蓄えることなく、食べ物についてその本性を知り、その人々の解脱の境地は空にして無相であるならば、かれらの行く路(足跡)は知り難い。__空飛ぶ鳥の迹の知りがたいように。

93)その人の汚れは消え失せ、食べ物をむさぼらず、その人の解脱の境地は空にして無相であるならば、かれの足跡は知り難い。_空飛ぶ鳥の迹の知り難いように。
***(判定)*************
92)D
93)D
***(コメント)*************
 自分の持つ  “(自分の持つ)金品に対する欲”、“食欲”、“情欲”、“怒り”に対して、自分の心から距離を置いて客観性を保ち、迷妄(迷い)を捨てた時に、その人は空になると考えましょう。空を持続した時が空の体現とします。さらに、自分が持つ願望から離れた時に始めて無相になると考えています。無相の持続を、無相の体現と呼びましょう。
 自分が持った願や怒り諸欲ですら正しいことは多々あるのです。正しい場合、それらを捨ててはダメで、その時は思い通りにいかなくても、温存する必要があるのです。捨てるという行為は、自暴自棄につながりやすいのです。ですから、距離をおいて冷静に状況を見る必要があるということを表現したほうが、人間がより良い方向に向かえると思っています。
 さらに、無相を体現することによって、その人の汚れ(悪い想念やカルマ)が消滅していくと思います。カルマが消滅するということの大前提は、カルマの清算ですから、無相が体現されたからと言ってすぐに素晴らしい状態が待っているわけではないのです。すでにその人が持ってしまっている悪い想念やカルマを消滅させるには時間が必要ですから、しばらくは、ひたすら忍耐という辛い時間が待っています。しかし、この無相を保つことで、悪いカルマや想念を再生産せずに済みますから、徐々に量が減ってきて、楽な状態へと移行していきます。

 “財を蓄えることなく”については、中村氏が“修行僧は、三衣一針と座具と水さし袋以外は所有が許されない”という戒律で具現化していると注を入れていらっしゃいます。私は、お釈迦様が出家を推奨なさったとは考えにくいという立場から、そんなに粗末に暮らすことを勧めたのではなく、必要以上もしくは必要な財でも、執着を持って、策を弄して、蓄えるようなことを、嗜(たしな)められていると思います。

 “食の本性”については、中村氏の注釈によると、
(1)食する人が、乳粥を乳粥であると認識するように、食したものを正しく認識すること
(2)食物が好ましいものではないとして、食物を超越すること
(3)食物を食べる時には、それに対する欲望を除き去ること
となっています。食事は嬉しいもので、エネルギーがみなぎってくるのがわかるし、食べたいという欲求の言いなりにならないようにする必要があるとは思いますが、その食欲を全面的に否定するのはやはり不自然です。ですから、仏教の食事についての教えは改ざんがなされていると思います。日月神示は食べものについて、とても色々な助言があり、仏教の教えに対して当たらずとも遠からずですし、分かりやすいので、ここで参考に載せます(https://ameblo.jp/hifumijuku/entry-12275946719.html さんより)。
「悪い食物、悪く食べるから、悪くなるのぢゃ」
「食いて生くべきもので人殺すとは何事ぞ」
「そなたは、食べ物は自分でないと思うているが、食べるとすぐ自分となるではないか」
「口から入るもの気つけよ、いくさ(戦)起こるのぢゃ」
「腹八分、二分は先ずささげよ。運ひらけるぞ。病治るぞ。」
「人は思うておるより少しの食べ物で生きられる。食べるということはその生命をいただくことじゃ。」
「腹一杯食べてはならん、死にゆく道ぞ、二分を先づ神にささげよ。流行病は邪霊集団のしわざ、今にわからん病、世界中の病はげしくなるぞ。」
「食物、食べ過ぎるから病になるのぢゃ。不運となるのぢゃ。口から出るもの、入るもの気つけよ。」
「臣民一日に二度食べるのざぞ、朝は日の神様に供へてから頂けよ、夜は月の神様に捧げてから頂けよ、それがまことの益人ぞ。」
「日本には、五穀、海のもの、野のもの、山のもの、皆 人民の食いて生くべき物、作らしてあるのぢゃぞ。日本人には肉類禁物ぢゃぞ。」
「獣の喰ひ物くふ時には一度神に献げてからにせよ、神から頂けよ、さうすれば神の喰べ物となって、何たべても大じょうぶになるのぞ、何もかも神に献げてからと申してあることの道理よく分りたであろがな」

 解脱については、普通の人間が所持しえない力を有するようになった時を解脱というのだと私は捉えています。力とは魔術とは限らず、特別な才能だったりもします。しかし、これは悪神からのお力添えの時もあり、それでも解脱と言えます。今回は、解脱という言葉は、詩から削除しておきます。
 普通の人が生活を送るようには、解脱者の生活は送られませんし、それを情報が開示されていない普通の人が想像することは難しいと思います。
 この二つの詩は、オーバーラップが多いので、一つにまとめます。

***(書換え詩)*************
92)+93)
 財を蓄えることなく、食べ物についてその本性を知り、情欲・迷妄・怒りから離れ空を体現し、自らの願への執着をなくし無相を体現する。
 無相を体現した人は、汚れが消え失せ、彼の生活の道は、凡夫のうかがい知れないものとなる。


詩番号 94~96

***(元データ)*************
94)御者が馬をよく馴らしたように、おのが感官を静め、高ぶりをすて、汚れのなくなった_このような境地にある人を神々でさえも羨む。

95)大地のように逆らうことなく、門のしまりのように慎み深く、(深い)湖は汚れた泥がないように、_そのような境地にある人には、もはや生死の世は絶たれている。

96)正しい智慧によって解脱して、やすらいに帰した人_そのような人の心は静かである。ことばも静かである。行いも静かである。
***(判定)*************
94)A
95)A
96)A
***(コメント)*************
95)大地と門の比喩が意味不明ですから、私が書き換えます。
 大地は、生きとし生けるものすべてに恩恵を与えていても、いつも静かに自分を主張するということがありませんので、慎しみ深いのは大地と考えます。
 門は閉めたり開けたりすることで、人の出入りを監視しますので、正しい分別を持つということを比喩していると考えます。

96)解脱に関しては、詩93の定義を使用しました。

***(書換え詩)*************
94)書き換え不要

95)大地のように慎み深く、整った門のように分別を保ち、汚れた泥がない深い湖のように清らかな、そのような境地にある人には、もはや生死の世は絶たれている。

96)無相の体現によって解脱して、やすらいに帰した人_そのような人の心は静かである。ことばも静かである。行いも静かである。

詩番号 181

***(元データ)*************
181)正しいさとりを開き、念いに耽り、瞑想に専中している心ある人々は世間から離れた静けさを楽しむ。神々でさえもかれを羨む。
***(判定)*************
A
***(コメント)*************
第14章ブッダから第7章真人の詩94の後に移動。
***(書換え詩)*************


181)書換え不要

詩番号 97

***(元データ)*************
97)何ものかを信ずることなく、作られざるもの(ニルヴァーナ)を知り、生死の絆を断ち、(善悪をなすに)よしなく、欲求を捨て去った人_かれこそ実に最上の人である。
***(判定)*************
97)D
***(コメント)*************
97)作られざるものとは、神々や人々が作ったものではなく、この世の元から厳然と存在しているもので、誰も変更できない法や法則のことと考えています。
 “何ものかを信ずることなく”は、次の“作られざるもの”と対応した句ですから、“何ものか=作られたもの”となるでしょう。これらは既に作られたものですから、既存の宗教、信仰や教え、教育ということになります。これらへの軽信を警戒せよという教えでしょう。しかし、ここで誤解は禁物ですが、世の中の既存のものでも、信じる価値があるものは必ずあります。そして、それらが土台となって、信じてはいけないものが作られています。ですから、判別が難しいのですが、最近では日本語が非常にあやふやだったり、よく報道や官庁の広報誌等で声高に言われているものは、怪しいと考えたほうが無難です。このようにいちいち考えるということは、いちいち択法するということに他なりません。そして、仏教における択法は、神道におけるサニワでしょう択法を繰り返し、作られざるもの(法や法則)を満たした自分の拠り所を大きくするということが、魂の成長でしょう
 信仰=神仏を信じることですので、宗教と同意語と捉えます。
 生死の絆は自分で絶つのではなく、自然と絶たれるものと考えます。
 捨てるという強い表現は避け、離れるという表現を使いました。
  
***(書換え詩)*************
)作られたもの_既存の信仰や神を軽信することなく、作られざるもの_法を知り、生死の絆が絶たれ、善悪の計らい、もろもろの欲求から離れた人、彼こそ実に最上の人、真人である。


詩番号 98、99

***(元データ)*************
98)村にせよ、林にせよ、低地にせよ、平地にせよ、聖者の住む土地は楽しい。

99)人のいない林は楽しい。世人の楽しまないところにおいて、愛著なき人々は楽しむであろう。かれらは快楽を求めないからである。
***(判定)*************
98)B
99)B
***(コメント)*************
 詩99は、真人の行動の特徴を記しているのですが、詩98は真人が存在した時の状況を記しています。また、詩番号90から97までは、全て真人の行動の特徴を元に詩が作られています。このことから、詩の並び順を、99→98へと変更した方が、流れが自然です。
 “聖者”を“真人”と書き換えておきます。
 また、インドには、日本で考える“林”というものが存在しないようで、ここでいう“林”は、“荒れた空き地”と、中村氏が注釈されているので、“林”を“荒れ地”と書き換えておきます。
***(書換え詩)*************
99)真人は人のいない荒れ地でも楽しい。世人の楽しまないところにおいて、愛著なき真人は楽しむであろう。かれらは快楽を求めないからである。

98)村にせよ、荒れ地にせよ、低地にせよ、平地にせよ、真人の住む土地は楽しい。