2018年9月28日金曜日

第17章 怒り(元データと判定・解釈・考察と書き換え)

訂正・変更履歴
詩番号227の詩を「すこしく」を「すこしだけ」と書換え。赤字で対応(20181004)

第17章 怒り
詩番号 221
***(元データ)*************
221)
怒りを捨てよ。慢心を除き去れ。いかなる束縛をも超越せよ。名称と形態とにこだわらず、無一物となった者は、苦悩に追われることがない。
***(判定)*************
D

***(コメント)*************
 怒りは全てが悪いことではないのです。それに振り回されてはなりませんが、怒りを捨てる、や、殺すでは、悪人のやりたい放題です。
 この詩をわざわざ直して残すほどの情報量でもないので、削除します。

***(書換え詩)*************
221)削除


詩番号 222
***(元データ)*************
222)走る車をおさえるようにむらむらと起る怒りをおさえる人___かれをわれは<御者>とよぶ。他の人はただ手綱を手にしているだけである。(<御者>とよぶにはふさわしくない。)

***(判定)*************
A

***(コメント)*************
 間違いなく、お釈迦様のお口から出たお言葉でしょう。
 怒りを制御することは、人間が自己を治めるための一つの重要課題です。個々の怒りの元を、考察し正しく認識することは、その人にとって大切な課題です。決して、全ての怒りを無条件で捨てることが大切なのではなく、それを制御することが大切だという教えです。
***(書換え詩)*************
222)書き換え不要


詩番号 223
***(元データ)*************
223)怒らないことによって怒りにうち勝て。善いことによって悪いことにうち勝て。わかち合うことによって物惜しみにうち勝て。真実によって虚言の人にうち勝て。

***(判定)*************
A

***(コメント)*************
 怒ることは必要ですから、その部分が整合が取れるように書き換えます。
 打ち勝てるかどうかは、その時の天の運みたいなところがあり、たかが人間が勝ちにこだわると、痛い目にあうので、「打ち勝つ」を「立ち向かう」と表現を変えます。
***(書換え詩)*************
223)
怒りを制すことによって怒りに、
善いことによって悪いことに、
わかち合うことによって物惜しみに、
真実によって虚言の人にう立ち向かわなくてはならない。



詩番号 224
***(元データ)*************
224)真実を語れ。怒るな。請われたならば、乏しいなかから与えよ。これらの三つの事によって(死後には天の)神々のもとに至り得るであろう。

***(判定)*************
D

***(コメント)*************
 時と場合によって、語って良い真実も、語ってはまずい真実もあるのですが、真実なら全部語らなくてはならないと誤解を生じる詩句になっています。
 怒りを制し、怒るべきことは怒らなくてはなりません。
 詩中の3つを守ったなら、死後に神々のもとに至り得る保証をお釈迦様がお与えになるとは考えられません。お釈迦様の教えは、死後に神々の元や天国に行くためのものではなく、生きている間に、自分と人類を含めた生類に尽力し、自らが進化するための道筋を示されているのです。

 この詩の中で、否定できない部分は、「請われたならば、乏しいなかから与えよ。」ですが、これは分かち合いの教えです。これに関する詩は別立てに詩177(第13章 世の中)、詩242(第18章 汚れ)にあります。

 以上から、この詩は削除します。
***(書換え詩)*************
224)削除


詩番号 225
***(元データ)*************
225)
 生きものを殺すことなく、つねに身をつつしんでいる聖者は、不死の境地(くに)におもむく。そこに至れば、憂えることがない。

***(判定)*************
D

***(コメント)*************
 肉体は滅んでも、魂はなかなか滅ばないというのが、お釈迦様の教えです(第14章 ブッダ 181 詩参照。)。基本的に、魂は不死なのです。さらに、不死の境地が何を意味するのかはっきりしません。
 生き物を殺すとは、不当に殺すことはいけないけれど、正当性があれば仕方ないと言わざるおえません。もちろん、怒りの章にあるのですから、怒りに任せて生き物を殺してはならないということなのかもしれませんが、この部分も意味がはっきりしません。

 憂えることがないという部分も、よく意味がわかりません。

 以上から、全体的に意味がわからなくなり過ぎているので、この詩は削除します。
***(書換え詩)*************
225)削除


詩番号 226
***(元データ)*************
226)
 ひとがつねに目ざめていて、昼も夜もつとめ学び、ニルヴァーナを得ようとめざしているならば、もろもろの汚れは消え失せる。

***(判定)*************
D
***(コメント)*************
 努め励むことは人が目覚める(覚醒する)ための第一段階の修行です。
 ですから、この教えは展開が逆です。
 ひらがなを漢字へ書き換えます。
 この章“怒り”にあるのは、不適当なので、第6章賢い人 詩86の後に挿入します。
 この詩の教えと類似の教えが、第15章 楽しみ 詩205です。
***(書換え詩)*************
226)
 人が、ニルヴァーナを得ようとめざし、常に目ざめていているように昼も夜も努め学ぶならば、もろもろの汚れは消え失せる。


詩番号 227〜230
***(元データ)*************
227) アトゥラよ。これは昔にも言うことであり、いまに始まることでもない。沈黙している者も非難され、多く語る者も非難され、すこしく語る者も非難される。世に非難されない者はいない。

228) ただ誹られるだけの人、またただ褒められるだけの人は、過去にもいなかったし、未来にもいないであろう、現在にもいない。

229)もしも心ある人が日に日に考察して、「この人は賢明であり、行いに欠点がなく、知慧と徳行とを身にそなえている」といって称讃するならば、

230)その人を誰が非難し得るだろうか? かれはジャンブーナダ河から得られる黄金でつくった金貨のようなものである。神々もかれを称讃する。梵天でさえもかれを称讃する。
***(判定)*************
全てA
***(コメント)*************
 アトゥラとはお釈迦様の在俗信者です。しかし彼には500人も信者がいました。
 全員揃って、レーヴァタ長老のところに行って教えを聞こうとしましたが、この長老は1人静かに瞑想を行っていたために、何も説いてくれません。
 次に彼らは、サーリプッタ長老のところに行きますが、難解なアビダルマに関する議論をやたらに聞かされただけで、彼は憤ります。
 そして次に、アーナンダ長老のところに行きますが、ここではほんのちょっとの教えを説かれるだけでした。
 ついに祇園精舎にいらっしゃるお釈迦様のところに行き着いた時の、アトゥラの怒りは頂点だと想像してみることは簡単です。そして、アトゥラが、怒りに任せて、3名の長老のことをお釈迦様に申し立てたのでしょう。その時に、お釈迦様がアトゥラ達に説いた教えがこの4つの詩です(中村氏の注釈より)。

 ついこみ上げる怒りなどの一時的な感情で、いろいろな評価・避難(・礼賛)が起こるのが、この世の中だから、ただ誹られるだけの人、また、ただ褒められるだけの人なんていないのだと教えてくださります。だから、世の中の評価・避難・礼賛を安易に信じたり、その流れに乗って「自らが無責任な批評を繰り返すことはおやめなさい。」とアトゥラに教えているのが、詩227,228なのです。

 さらに、世の中で信じて良い評価もあることを説いてらっしゃいます。それは、賢い人々や真人が時間をかけて熟考した評価だとおっしゃっています。各自もこのように簡単に人を批判・礼賛せず、熟考して評価しなさいという教えが、詩229, 230です。お釈迦様ご自身は、先の3長老に対して、賞賛の気持ちがおありだという旨も、ここで暗に宣言なさっています。

 以上から、この詩が、怒りの章にあるのは、怒りを抱えた人に説いた詩だからだと、私は考えています。

 ト書きとして、以下の文章を追加しましょう。

  アトゥラたちは、お釈迦様に帰依した三人の長老に教えを請い求めましたが、十分に納得出来る教えを示されませんでした。彼らは不満を抱いて、ついに、お釈迦様の元を訪ね、今までの経緯を述べて、教えを請いました。そのアトゥラたちにお釈迦様は、次のように語られました。

***(書換え詩)*************
 アトゥラたちは、お釈迦様に帰依した三人の長老に教えを請い求めましたが、十分に納得出来る教えを示されませんでした。彼らは不満を抱いて、ついに、お釈迦様の元を訪ね、今までの経緯を述べて、教えを請いました。そのアトゥラたちにお釈迦様は、次のように語られました。

227) アトゥラよ。これは昔にも言うことであり、いまに始まることでもない。沈黙している者も非難され、多く語る者も非難され、すこしだけ語る者も非難される。世に非難されない者はいない。

227228)〜230)書き換え不要


詩番号 231〜234
***(元データ)*************
231) 身体がむらむらするのを、まもり落ち着けよ。身体について慎んでおれ。身体による悪い行いを捨てて、身体によって善行を行なえ。

232) ことばがむらむらするのを、まもり落ち着けよ。ことばについて慎んでおれ。語(コトバ)による悪い行いを捨てて、語によって善行を行なえ。

233)心がむらむらするのを、まもり落ち着けよ。心について慎んでおれ。心による悪い行いを捨てて、心によって善行を行なえ。

234)落ち着いて思慮ある人は身をつつしみ、ことばをつつしみ、心をつつしむ。このようにかれらは実によく己れをまもっている。
***(判定)*************
B
***(コメント)*************
 「護身悪行」、「護口悪行」、「護意悪行」の三つのことを表した詩だそうですが、漢文だと、細かい部分がわかりません。これらは、怒りにだけに関係するとは思えませんが、詩註のむらむらという表現は怒りを表していると思われます。よって、これらの詩は、この章に置かれているのでしょう。
 原始仏教では怒りは不運だと捉えているようです(詩番号251)。この不運に襲われた時には、より一層、「護身悪行」、「護口悪行」、「護意悪行」に注意を払わなければならないということを教えてらっしゃるのでしょう。
 
 “捨てよ”は“やめよ”に書き換えます。
 「善行を行え」という部分は不要ですので、削除します。

 また、“つつしむ”という訳は、「悪の汚れに侵されないように自分を守る」という原義の意訳として中村氏は使ったそうです。

***(書換え詩)*************
231) 身体がむらむらするのを、まもり落ち着けよ。身体について慎んでおれ。身体による悪い行いをやめよ。

232) 言葉がむらむらするのを、まもり落ち着けよ。言葉について慎んでおれ。言葉による悪い行いをやめよ。

233)心がむらむらするのを、まもり落ち着けよ。心について慎んでおれ。心による悪い行いをやめよ。

234)落ち着いて思慮ある人は、いかなる時でも、身を慎み、ことばを慎み、心を慎しむ。このように彼らは実によく己れをまもっている。

(第17章 怒り 終わり)

2018年9月26日水曜日

第15章 楽しみ 書換え詩一覧 その10

訂正・変更履歴
第16章 愛するもの から詩(219)[355] 、(220)[356]を詩(199)の後に移動(181022)

書換え詩一覧  (その10) 第15章 楽しみ


(197)[266]
 怨みをいだいている人々の間にあって怨むこと無く、我らは大いに楽しく生きよう。怨みをもっている人々の間にあって怨むこと無く、我らは暮らしていこう。

(198)[267]
 悩める人々の間にあって、悩み無く、大いに楽しく生きよう。悩める人々の間にあって、悩み無く暮そう。

(199)[268]
 貪っている人々の間にあって、患い無く、大いに楽しく生きよう。貪っている人々の間にあって、貪らないで暮らそう。

(219)[355] 第16章 愛するもの から [219][220]の順に移動
 久しく旅に出ていた人が遠方から無事に帰って来たならば、親戚・友人・親友たちは彼が帰って来たのを祝う

(220)[356]

 そのように善いことをしてこの世からあの世に行った人を善業が迎え受ける。──親族が愛する人が帰って来たのを迎え受けるように。


(200)[削除]
(201)[削除]

(202)[269]
 愛欲に等しい火は存在しない。ばくちに負けるとしても、増悪に等しい不運は存在しない。
 このかりそめの身に等しい苦しみは存在しない。安らぎにまさる楽しみは存在しない。

(203)[270]
 飢えは最大の病いであり、形成せられる存在(わが身)は最もひどい苦しみである。このことわりをあるがままに知ったならば、ニルヴァーナという最上の楽しみがある。

(204)[271]
 健康は最高の利得であり、満足は最上の宝であり、信頼は最高の親族であり、ニルヴァーナは最上の安楽である。

(205)[272]
 常に真理の味を味わっているならば、さらに重ねて、孤独の味と心の安らいを味わう禅定を繰り返せば、恐れも罪過もなくなっていく。

(206)[273]
 もろもろの賢い人に会うのは善いことである。かれらと共に住むのは常に楽しい。愚かなる者どもに会わないならば、心は常に楽しいであろう。

(207)[274]
 愚人とともに歩む人は長い道のりにわたって憂いがある。愚人と共に住むのは、常に辛いことである。_仇敵と共に住むように。賢い人と共に住むのは楽しい。_親族に出会うように。

(208)[275]
 よく気をつけていて、明らかに知慧あり、学ぶところ多く、忍耐づよく、真理を護る、そのような立派な真人・ブッダに親しめよ。



(第15章 楽しみ 終わり)

2018年9月22日土曜日

第10章 暴力 (元データと判定・解釈・考察と書き換え)

訂正・変更履歴
・詩135)のコメント欄の146を148に訂正(180925)
第10章 暴力
暴力と言う言葉の説明のために、ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説(https://kotobank.jp/word/暴力-132521 )を引用します。
-----------------------------
 (1) 政治学的には,物理的強制力の行使一般をいう。
 (2) 法学的には,不当ないし不法な方法による物理的強制力の使用をいう。

 (1) の政治学的および社会学的意味における暴力の概念には,単に法的考察によって定義される不当不法な力の行使をいうのではなく,いわゆる革命集団による国家秩序の暴力的転覆 (武装蜂起) や暴力団による腕力などの行使から,国家が合法的かつ正当的に所有する軍隊や警察のいわゆる実力行使までも内包されるのが普通である。

 (2) の法学的見地の暴力は,法によって許容されない力の行使をいう。したがって軍隊や警察の実力行使は,それが法に依拠しているかぎり,正当化され暴力とは呼称されない。また正当防衛のような場合,個人による実力の行使であっても,それは法の許容内と考えられ,暴力とは呼称されない。
-----------------------------

 法学的見地の暴力の意味が、この章で使われる暴力の意味です。そして、本来使われるべき意味です。政治学的・社会学的見地の暴力の捉え方をすると、正当性のある武力が否定されてしまうので、非常に不当で危険な言葉の使われ方となります。

 次に、私が考える暴力と正当な武力(腕力)行使を記します。

 ある問題が起こるとしましょう。この問題の当事者たちは、この問題を解決するために、この問題の原因と経緯をまずは調べなくてはなりません。この原因と経緯をはっきりさせる目的は、発端となったきっかけや経緯で、過失であれ故意であれ、どの当事者に非があったのかをはっきりさせる必要があるのです。そして、ここまで来て、ようやく話し合いによって非がある当事者に改善を促します。ここまでの段階までで、この非のある当事者に武力を一方的に使うと暴力と認定されても仕方ありません。火を見るより明らかって時もあるのですが。
 しかし、正当な話し合いをしたにも関わらず、その当事者が改善を行わなければ、武力を用いて滅ぼす、もしくは、制圧する事を暴力と定義することは不当な定義で、悪魔のものです。

 正当な話し合いだったかどうかを認定するのが、大変ですが、これは多少でも関わった人たちが、自分の利害に関係なくとも、各自で、なるべく正しく判断するように心がけなければなりません。というのも、自分が、何時、このような事態に落ちるかわかりません。世の中は、そのような相互保証で成り立っているのです。もし、この時に、みんなが知らん顔をしたら、不当行為が勝ってしまうのです。そうして、世の中が悪魔の支配になっていくのです。「他人のことに関わると、厄介な上に、自分が変な勢力から攻撃されるから嫌だ」という人々の姿勢が世の中を圧巻した、ここ30年で、散々、味わった悪夢です。

 以上から、この章では、暴力を不当ないし不法な方法による物理的強制力の使用という意味で使用します。

 真理のことばは、分類を含めて順序がかなり乱されていると思います。これだけで、人間の頭は混乱して、正しく状況が掴めなくなります。私も、これを書いている時に、頭が混乱して爆発しそうになりますが、分類を考えて順番を考えていくと、こんがらがった糸が解けるように、情報が頭の中を流れます。日月神示では、
「何事も順正しくやりて下されよ、神は順であるぞ、順乱れた所には神の能(はたらき)現はれんぞ。」
と教えています。
 人間が世の中の乱れを収めるためにできる事は、本当にほとんどないのが現状です。唯一できることがあるとすれば、悪魔によって乱された順番を気づいた場所から正していくことでしょう。そこで、私も真理のことばの解釈を始めたのです。
 この章は、特に、分類と順番が乱れています。詩135を11章(老いること)、詩136を5章(愚かな人)、詩141、142を25章(修行僧)、詩143、144を6章(賢い人)に分類しました。また、詩137+140)と詩145を削除としました。

詩番号 129、130
***(元データ)*************
129)すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。已が身をひきくらべて、殺してはならぬ。殺させてはならぬ。

130)すべての者は暴力におびえ、すべての(生きもの)にとって生命は愛しい。已が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺させてはならぬ。
***(判定)*************
129)B
130)B

***(コメント)*************
 ひらがなを漢字に変換します。
“己が身にひきくらべて”を“(己への)この思いを忘れず、”と、訳を平易にします。

***(書換え詩)*************
129)
 全ての者は暴力におびえ、全ての者は死を恐れる。
(己への)この思いを忘れず、生きものを不当に殺してはならぬ。他者に不当に殺させてはならぬ。
130)
 全ての者は暴力におびえ、全ての(生きもの)にとって生命は愛しい。
(己への)この思いを忘れず、生きものを不当に殺してはならぬ。他者に不当に殺させてはならぬ。



詩番号 131、132
***(元データ)*************
131)
 生きとし生ける者は幸せをもとめている。もしも暴力によって生きものを害するならば、その人は自分の幸せをもとめていても、死後には幸せが得られない。

132)
 生きとし生ける者は幸せをもとめている。もしも暴力によって生きものを害しないならば、その人は自分の幸せをもとめているが、死後には幸せが得られる。


***(判定)*************
131)A
132)A

***(コメント)*************
 ひらがなを漢字に変換します。
 文章を直します。

***(書換え詩)*************
131)
 生きとし生ける者は幸せを求めている。もしも暴力によって生きものを害するならば、その人は自分の幸せを求めていても、死後には幸せが得られない。

132)
 生きとし生ける者は幸せを求めている。もしも暴力によって生きものを害さないならば、死後に、その人は自分の求めていた幸せが得られる。


詩番号 133、134
***(元データ)*************
133)
 荒々しいことばを言うな。言われた人々は汝に言い返すであろう。怒りを含んだことばは苦痛である。報復が汝の身に至るであろう。

134)
 壊れた鐘のように、声をあらげないならば、汝は安らぎに達している。汝はもはや怒り罵ることがないからである。
***(判定)*************
133)A
134)A

***(コメント)*************
  言葉の暴力について教えている詩です。
  特徴は、二人称に汝が使われています。
  ひらがなを漢字に直します。
***(書換え詩)*************
133)
 荒々しい言葉を言うな。言われた人々は汝に言い返すであろう。怒りを含んだ言葉は苦痛である。報復が汝の身に至るであろう。

134)
 壊れた鐘のように、声を荒げないならば、汝は安らぎに達している。汝はもはや怒り罵ることがないからである。


詩番号 135、136
***(元データ)*************
135)
 牛飼いが棒をもって牛どもを牧場に駆り立てるように、老いと死とは生きとし生けるものどもの寿命を駆り立てる。

136)
 しかし愚かな者は、悪い行ないをしておきながら、気がつかない。浅はかな愚者は自分自身のしたことによって悩まされる。_火に焼きこがされた人のように。

***(判定)*************
135)A
136)A

***(コメント)*************
135)
 第11章 老いること の詩番号146148の後に挿入します。

136)
 第5章 愚かな人 詩番号69の後に挿入します。
 “しかし”で、詩が始まるのは変ですから、文章の意味が通じるように書き換えます。
 比喩部分は不要なので削除します。

***(書換え詩)*************
135)書き換え不要

136)
 愚かな者は、悪い行ないをしておきながら、気がつかない。しかし浅はかな愚者は自分自身のしたことによって悩まされる。


詩番号 137、140
***(元データ)*************
137)+140)
 手むかうことなく罪咎の無い人々に害を加えるならば、次に挙げる十種の場合のうちのどれかに速やかに出会うであろう、
(1)激しい痛み、(2)老衰、(3)身体の傷害、(4)重い病い、(5)乱心、(6)国王からの災い、(7)恐ろしい告げ口、(8)親族の滅亡と、(9)財産の損失と、(10)その人の家を火が焼く。

 この愚かな者は、身やぶれてのちに、地獄に生まれる。

***(判定)*************
137)+140) E
***(コメント)*************
 第9章 悪 詩125)に近い内容の詩句です。
 詩番号の付き方も不明です。
 この詩に挙げられている10個の災いの根拠が不明なことや、“地獄に生まれる”といった表現がお釈迦様が使ったとは考えにくいこと、などから、この詩は、代替もありますし、削除することにします。

***(書換え詩)*************
137)+140)削除


詩番号 141、142
***(元データ)*************
141)
 裸の行も、髻に結うのも、身が泥にまみれるのも、断食も、露地に臥すのも、塵や泥を身に塗るのも、蹲って動かないのも、_疑いを離れていない人を浄めることはできない。

142)
 身の装いはどうあろうとも、行ない静かに、心おさまり、身をととのえて、慎みぶかく、行ない正しく、生きとし生けるものに対して暴力を用いない人こそ、<バラモン>とも、<道の人>とも、また<托鉢遍歴僧>ともいうべきである。

***(判定)*************
141)A
142)D

***(コメント)*************
 この二つの詩は、この章にあるのは不適切です。第25章 修行僧 の一番初めに置くことにします。
 詩141)はジャイナ教の修行者が行っていた苦行に関する記述だそうです。
 詩142)に示された性質だけを満たすのでは、到底バラモンとは言えなず、また、階層構造上、“道の人”、また“托鉢遍歴僧”に満たされる良い性質は、“バラモン”にも備わっているはずなので、“<バラモン>とも、<道の人>とも、また<托鉢遍歴僧>ともいうべきである”と言う詩句は、“<修行僧>と言うべきである”に置き換えます。
 さらに、文章を整えます。
 お釈迦様は、従来の信仰(ヒンズー教やジャイナ教)の教えと苦行は全面的に否定なさいました。お釈迦様に帰依する修行僧への指針は、第25章 修行僧 に書かれているのです。

***(書換え詩)*************
141)書き換え不要

142)
 身の装いはどうあろうとも、行ない静かに、心を治め、身をととのえて、慎みぶかく、行ない正しく、生きとし生けるものに対して暴力を用いない人こそ、<修行僧>である。


詩番号 143、144
***(元データ)*************
143)
 みずから恥じて自己を制し、良い馬が鞭を気にかけないように、世の非難を気にかけない人が、この世に誰か居るだろうか?

144)
 鞭をあてられた良い馬のように勢いよく努め励めよ。信仰により、戒しめにより、はげみにより、精神統一により、真理を確かに知ることにより、知慧と行ないを完成した人々は、思念をこらし、この少なからぬ苦しみを除けよ。

***(判定)*************
143)A
144)D

***(コメント)*************
 知慧と行ないを完成した人々=真人、バラモンですから、この方々に教える教えは、この世にはないです。あるとすれば、「こうすれば真人やバラモンになれます。」とか、「こういう存在が真人やバラモンです。」という教えです。また、この詩は霊格の高い存在への教えだと思います。霊格が上がれば、在家へも出家へも同じ教えになって来ます。今回は、どちらにも対応できるように、賢い人への教えと捉えます。
 以上の考察から、「知慧と行ないを完成した人々は…この少なからぬ苦しみを除けよ。」ではなく、「賢い人は…この少なからぬ苦しみを除けよ。」とします。
 精神統一は在家言葉、禅定(瞑想)は出家言葉で、両者とも同じ行為と考えますので、“精神統一”を“精神統一や禅定”と書き換えます。
 二つの詩を一つに書き換えます。
 第6章 賢い人 の最後に置きます。
 ひらがなを漢字に書き換えます。
***(書換え詩)*************
143+144)
 自ら恥じて自己を制し、良い馬が鞭を気にかけないように、世の非難を気にかけない人が、この世に誰か居るだろうか?
 賢い人よ、鞭をあてられた良い馬のように勢いよく努め励めよ。
 正しい信仰・戒しめ、はげみ、精神統一や禅定により思念をこらし、真理を確かに知り、この少なからぬ苦しみを除けよ。そして、知慧と行ないを完成させよ。


詩番号 145
***(元データ)*************
145)
水道をつくる人は水をみちびき、矢をつくる人は矢を矯め、大工は木材を矯め、慎しみ深い人々は自己をととのえる。

***(判定)*************
145)E

***(コメント)*************
 第6章 詩80とほぼ同じで、慎み深い人が、賢い人と変わっているだけです。
 どうして暴力の章にあるのか?不明です。
 以上より、この詩は削除します。

***(書換え詩)*************
145)削除
(第10章 暴力 終わり)