2017年6月19日月曜日

 魂と脳と守護霊(ver 2017.6.19 )

1.取り組み始めた理由

私がマシューさんに、「人間の魂と身体、また、守護霊と言われる方との関係をはっきりとさせてみてはどうですか?自分と自分の先祖のことについても、あなたは先祖と自分を切り離して考えているところがありますが、それは甚大な誤解なのですよ。」と言われて、一年以上が経つのです。
 それを受けて、人間の魂と身体の関係がはっきりしてくると、自分と先祖、身体を持たないバックアップしている存在との関係がわかるようになるかなと思って取り組み始めた課題です。
 自分にとって、心身ともに健康でいるための有益な情報ではないかと思ったのです。さらに、重大な病気で苦しんでいる方々にとっても有益ではないかと考えていたのです。

2. 最近の現状

でも、私自身は「えらい課題に手を出してしまった。」と、最近はかなり後悔気味でした。ハードルが高くて、なかなか、超えられないのです。誰も答えが出せないのを良い事に、似て非なるような説が飛び交う論題で、それらを参考にしたとしても、最後の部分は自分の中で答えを出さないといけないという結論まではたどり着いていたのです。そうなると、辛いので、「私がどう言ったって、証拠は出せないし、テキトーで終わらせても良いかな」、いや、はっきり言ってしまえば、「なかったことに。」なんて思っていますが、マシューさんはきっとアメリカ上空でこのネットを見ていると思うと…。「まだ宿題、終わってないよ!」って、お声が聞こえる私であります。

 さらに、今、直面しているもう1つの課題、“真理のことば 第3章 心”が、私に
「逃げるな!」
と釘を刺しているようでもあります。そして、部下に目を光らす、師匠達の目は、私の気のせいではない(汗)。

 この章の考察を完了するには、どうしても前述のハードルを超えないければならないのです。お釈迦様も観音様も応援してくださり、再度、浅草寺に参拝すべき用事を作ってくださり、おみくじで、

“有達宜更変、重山利政逢”というお言葉でご鞭撻くださいました。

 達成するためには、変じ改めるべし、山(いろいろな情報)を重ね合わせて、正しいもの(お釈迦様の教えとマシューさんからの宿題の解)との出会いをする時期です。よく、情報を細かく調べて吟味し、熟考し、自分の間違いは改めたら良いというご助言だと解釈しております。
 最大限の努力で臨む所存です。


3. 魂=心と守護神は別物(従来の私説に訂正あり

ここで、“魂と脳と守護霊”という私の記した今までの議論を整理します。
 前回(https://twitter.com/cncn1549/status/857837920991928320)、本守護神+正副守護神の導入まではこぎ着けました。これは、正解に近づく方向へ大きく向けたと思うのですが、しかし、ここで重大な間違いがありました。正副守護神は本守護神より自分に近いけれど、やはり自分ではないということなのです。そこの部分で、故意ではないのですが、結局は嘘になっていたのです。
 今回はあらたに、題名で使った“魂”を自分と考えます。ここで言う“魂”とは、本守護神、正副守護神の下に位置する自分です。
 そして、日頃よく使う“心”が、また果てしなく捉えがたいものなのですが、私の文章では“魂=心”として話を進めていきます
 一方、“真理のことば 第3章 心”では、訳者の中村元氏が注釈で、漢訳版で“心意品”と記されている題名を“心”と意訳したことを記されています。中村氏は、別の箇所でも、漢訳では“意”と表記されている部分を“心”と意訳しています。
 “意”というと認識できる意識(顕在意識)を思い浮かべてしまいます。それはまんざら間違えではなく、“意”を心の音と漢字の成り立ち通りに捉えてたら、音がある心、つまり顕在意識となるのです。一方、中国人は心を潜在意識と捉えたのだと思います。ですから、題名は“心意品”となっているのでしょう。漢訳は、あまりにも的確な訳出が多く、脱帽の連発です。
 しかし、ここではあえて、潜在意識も含めたもの、つまり、“心=顕在意識+潜在意識”と定義します。そうなると、“魂=心”でも構わないと、私は感じています。しかし、古来日本人は、わざわざ定義しなくても、心は顕在部分と潜在部分の集合体と感じていたのではないかと推測しています。“心意”と書かれるより、“やまと言葉”の“心”を使いたかった、中村氏の訳出も、日本人としては私は非常に賛同できます。


4. 魂の居場所についての訂正(従来の私説に訂正あり

魂(=心)は、どこにいるのか?という事を考えていて、前回、私は脳に居ると書いたのですが、どうやらこれも間違えのようです。その後、参考文献が2つも出てきたので、私がそれは間違えだと考えるに至りました。

 参考文献の1つ目は、古代インド人は心は心臓にいると考えていたということです。この根拠となる記述は、“真理のことば 第3章 心 第37詩”の注です。以下、この注を記します。

**(注)***
胸の奥の洞窟;(略)古ウパニシャド以来、アートマン(心)は心臓の内にある空処に住すると考えられていた。それを受けている。
*******

 参考文献の2つ目は、マシュー君のメッセージを掲載してらっしゃる森田玄さんのブログ(http://moritagen.blogspot.jp)
2017/5/4の記事の一部が参考になりますので、ご紹介します。

************
「心(ハート)に聞きなさい」と昔からあらゆる文化で言われてますが、ではどうしたら聞こえるのか、その方法が具体的に示されたことはありません。

英語ではハート(心)と心臓は同じ言葉(Heart)ですが、日本語は心と心臓は別です。でも、どうして昔の人は「心の臓器」と呼んだのでしょう?

過去20年間の心臓神経学の発達によって、心臓には「心臓脳」と呼ばれる脳と同じ神経節ネットワークがあること、心臓と脳が常にコミュニケーションしていること、そして心臓から脳に送られる情報量は脳から心臓に送られるものより100倍以上も多いなどが発見されています。

単なる血液の循環ポンプだと思われていた心臓が、脳と全身の機能だけでなく、人間の感情、認知、行動、反応、能力に決定的な影響を与えていることが科学的に実証されています。
***********

 以上、2つの文献と、身体の各部分から放出されるエネルギー量の感覚測定値(図(https://twitter.com/cncn1549/status/857837920991928320)参照)から、魂(=心)は、主に心臓にいると考えた方が適切だと感じています。

5. 魂と脳と守護霊の考察

守護神さん達から心に働きかける場所が主に下っ腹(丹田)ということは変更がありません。守護神さん達は、守護するときに下っ腹あたりにいらっしゃるということでしょうか。私はそう思っております。
 以上から、守護神が心にも働きかけるとき、また、魂が守護神と相談したいときは、下っ腹に心を集中させたりするのだと思います。脳(器官)と心臓(魂)の連絡は神経細胞が介しているようですが、下っ腹と心臓の間は、両端が魂なので、別の情報伝達手法なのでしょう。

 次に、我々が日常過ごすために行っている、“情報から行動への指令パターン”を考えてみます。

 最も多い“情報から行動への指令パターン”は、外部の状況を体の各器官が察知した情報(音、映像など)を、神経を通って脳に運び、脳で情報処理され、魂の顕在意識に送られるというものでしょう。
 この情報に応じた最適な物理的反応は、守護神たちの魂へのアドバイス(基本は潜在意識に送られるようです)や過去の経験など潜在意識にある情報を、魂が潜在意識から顕在意識へと送り、それから魂が最適な反応を割り出し、脳に命じて、脳が身体の隅々に命じます。これらが、潜在意識のみで行われる場合もあるでしょう(身体の不調に関する対応など)。

 身体の器官・末端の細胞が発する情報は何も外界の音や映像などの5感情報だけではなく、守護神からの働きかけの情報もあるようです。その情報は、身体のすべての部分で受け取ることができ、その情報は魂の潜在意識の領域に伝わることが圧倒的に多いようです。それらを潜在意識から顕在意識に変換する作業を担っているのも魂です。身体の各器官を通して得られた守護神さんからの情報は、一度、潜在意識に情報を運んで、そこで過去の経験などのデータとともに情報処理して顕在意識に運び、そこから脳へ神経で伝達して、身体の器官へと命を下すという方式で身体の動きが制御されていると思います。時間がかかっても正確な行動がとれるのでしょう。

 ただ、潜在意識を介さずに直接に顕在意識に情報が届くのも例外的にあると思います。怖くてドキドキするとか、もう嬉しくて心臓がバクバクするような時は、守護神、魂、他の霊体の身体の細部からの情報が、顕在意識に直接  届けられた場合です。論理的なバックアップがなく、何だか感じるというものです。虫の知らせもこの類だと思います。

 脳を通さずに、守護神や魂は体の各器官へ物理的対応を指示することもあるでしょう。“反射”と言われる反応(これは、熱いものに触れて、すぐに手を離し、その後に熱いと感じる)や“火事場のバカ力”と言われるものがこれらに属するのでしょう。こちらも緊急性が高い時です。

 最後に、心臓死より脳死が先というのは、魂が駆動部である脳のスイッチを切るからでしょう。そして、心臓のスイッチは守護神さん達が切るのです。なんだか悲しくなってきました。

6. 後記

脳も身体の一つの器官ですから、私が感じた身体から放出されるエネルギーが他の器官よりは多いにしても大差なく感じられたのです。これは、頭が一番大きなエネルギーを出していると思っていたので、とても意外でした。ただ、頭は、神経細胞の密度も高く魂と常に、そして、直接連絡を取っていますから、他の器官よりはエネルギー放出量は大きめというのも、整合のとれた論理結果です。しかし、心臓はさらに一桁以上多いエネルギーです。紙の人型を使って、指で感知してみてください。心臓だけは分かる方も多いと思います。

 さらに、これまでの自分の調べてきたことと、感じたことをまとめて思ったのですが、どんな論理的思考も、潜在意識の大きなタンクがなければできないということなのです。思考を司っているのは潜在意識であろうということは、私にとっては驚愕の事実です。なぜならば、日常的に使われる“頭を使う”という表現を疑ったことはなく、信じきっていたからです。
 また、色々な精神障害についても、この考察を通して、2通りがあるのではないかと思い始めました。認知、または他の理由での言語障害は、脳の障害ではないかと。一方、認知でも精神的な病でも、軽度な行動障害(徘徊や摂食等)は脳の障害の域、極度なものは、心の歪みが現れたものではないかと確信に近いものが生まれました。

 顕在意識と脳によって身体の器官を使って魂の情報が体現されるのですが、“守護神>魂>脳”という厳然とした関係があるために、脳は魂を制御できないのです。ただし、外部と魂との通路も脳です。この理屈から行けば、魂を封印する、もしくは攻撃する糸口は、脳です。               (合掌)

追伸)
 ようやくまとまりました。二次近似以上の近似解が得られた気分です。
 今後は、愛情に満ちた優しい正しい行動ができなくなる原因、脳の働きを狂わせることや、魂を弱らせること、守護神を変えてしまうことなどを考えています。 

2017年6月9日金曜日

第1章 ひと組ずつ(元データと判定・解釈・考察と書き換え)

真理のことば 第1章 ひと組ずつ

元データを判定し、解釈・考察を行い、書き換えました。

詩番号 1、2 

***(元データ)*************
1)
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも、汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人に付き従う。
---車をひく(牛)の足跡に車輪がついてゆくように。

2)
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人に付き従う---影がそのからだから離れないように。
***(判定)*************
A

***(コメント)*************
これでひと組、対。
***(書換え詩)*************
そのまま

詩番号 3、4 

***(元データ)*************
3)
彼はわれを罵った。彼はわれを害した。彼はわれにうち勝った。彼はわれから強奪した。」という思いを抱く人には、怨みはついに息むことがない。

4)
彼はわれを罵った。彼はわれを害した。彼はわれにうち勝った。彼はわれから強奪した。」という思いを抱かない人には、ついに怨みが息む。
***(判定)*************
A

***(コメント)*************
これでひと組、対。
***(書換え詩)*************
そのまま


詩番号 5 

***(元データ)*************
5)
実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。
怨みを捨ててこそ息む。これは永遠の真理である。"
***(判定)*************
A

***(コメント)*************
これでひと組。
この詩句は大好きです。
***(書換え詩)*************
そのまま

詩番号 6

***(元データ)*************
6)
「われらは、ここにあって死ぬはずのものである。」と覚悟をしょう。
---このことわりを他の人々は知ってはいない。しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。

***(判定)*************
D

***(コメント)*************
これでひと組。
“死ぬはず”を“死んでいる”としたら、私には理解できます。塵穢れの多いこの三次元社会では、正しく覚醒した人は死人と同様に扱われると認識しなくてはなりません。その結果、この世でのご利益を求めないという精神が必要になります。自分自身で、この世に対して自分は死人同様と思い成せば、つまらない争いに巻き込まれないか、もしくは被害最小限という教えです。争いに巻き込まれるのは、カルマの精算時や試練中は致し方ないですが、主張すべき事ややるべき事は正しい手続きや言葉で行い、その結果には執着しないとなれば、無益な闘争が自分自身に取って静まるのだというのが、この教えの境地だと思われます。
***(書換え詩)*************
6)
「我らは、ここにいながら、なおかつ死んでいるもの。」と覚悟をしょう。
この覚悟を普通の人々は知ってはいない。しかし、{この}覚悟を実践する人は、その人にとって{常住する}争いがしずまるのである。

詩番号 7、8

***(元データ)*************
7)
この世のものを浄らかだと思いなして暮らし、(眼などの)感官を抑制せず、食事の節度を知らず、怠けて勤めない者は、悪魔にうちひしがれる。−−−弱い樹木が風に倒されるように。

8)
この世のものを不浄であると思いなして暮らし、(眼などの)感官をよく抑制し、食事の節度を知り、信念あり、勤めはげむ者は、悪魔にうちひしがれない。−−−岩山が風にゆるがないように。 

***(判定)*************
 D

***(コメント)*************
これでひと組。
7)の“怠けて勤めない”を“怠り怠ける”と置き換える。
8)の“勤め励む”を“怠り怠けない”と置き換える。
***(書換え詩)*************
7)
この世のものを浄らかだと思いなして暮らし、(眼などの)感官を抑制せず、食事の節度を知らず、怠り怠ける者は、悪魔にうちひしがれる。
−−−弱い樹木が風に倒されるように。

8)
この世のものを不浄であると思いなして暮らし、(眼などの)感官をよく抑制し、食事の節度を知り、信念あり、怠り怠けない者は、悪魔にうちひしがれない。
−−−岩山が風にゆるがないように。

詩番号 9、10

***(元データ)*************
9)
けがれた汚物を除いていないのに、黄褐色の法衣をまとおうと欲する人は、自制がなく真実もないのであるから、黄褐色の法衣はふさわしくない。

10)
けがれた汚物を除いていて、戒律を守ることに専念している人は、自制と真実とをそなえているから、黄褐色の法衣をまとうのにふさわしい。 

***(判定)*************
E(後代の付け足しと思われます。)
削除

***(コメント)*************
 法衣を纏う条件ですが、釈尊は法衣を規定したのか疑わしいものです。教団の偽修行僧への注意喚起でしょうか。確かに生きている人から発せられるオーラで一番気持ちいいのは黄色(レモン色、金?)ですよ。だから、黄色の法衣を上位の修行僧が好んだのかしら?もはや、わかりませんが、戒律を守るとか、法衣の規定は、お釈迦様が勧められたとは思えません。お釈迦様の教えが、仏教という宗教へ誘われた時に、教団が付け足した詩文と、私は認識致しましたので削除としました。
 ちなみに、神様が造られた決め事を法(則)とすれば、戒律は神様より下位の存在(含 人間)が作ったものだと考えています。法律は漢字から言っても経験から言っても両者の中間でしょうか。苦しいところですが、社会人としては守らないと、社会が成り立たないという感じですね。
***(書換え詩)*************
 9)削除
10)削除

詩番号 11、 12

***(元データ)*************
11)
まことではないものを、まことであると見なし、まことであるものを、まことではないと見なす人々は、あやまった思いにとらわれて、ついに真実(まこと)に達しない。
12)
まことであるものを、まことであると知り、まことではないものを、まことではないと見なす人は、正しい思いにしたがって、ついに真実に達する。

***(判定)*************
A

***(コメント)*************
その通りです。敬礼!
法句経(玄奘三蔵さんの訳)では、“まこと”は“真利”となっているそうです。漢訳の字は、なかなかイキで、実感しやすいです。
ただ、中村氏は“まこと”を選んだので、それに沿わせていただきます。
***(書換え詩)*************
そのまま

詩番号 13 、14

***(元データ)*************
13)
屋根を粗雑に葺いてある家には雨が漏れ入るように、心を修養していないならば、情欲が心に侵入する。
14)
屋根をよく葺いてある家には雨の漏れ入ることがないように、心をよく修養してあるならば、情欲の侵入することがない。 

***(判定)*************
B

***(コメント)*************
 法句経では、“心”は“意”、“情欲”は“淫泆”と記してあるそうです。
情欲には、“異性の肉体に対する欲望”と“物をむさぼりそれに執着する心(仏教)”があるそうですが、三蔵法師様は、仏教的な意味ではなく、色情欲に特化して書かれている詩句と捉えたようです。私もそちらの方が曖昧にならなくていいと思います。色欲の過ちほど、重大な結果をもたらし、次元すら超えてしまうと感じるのです。食欲や名誉欲、金銭欲は、三次元的な範囲で収まる感じがしています。
 現在は、性的な交わりが比較的解放されていますが、それで苦しむのは、ご自身なのです。簡単に考えず、淫欲の交わりを実際には行わないということは、大切な自分を守ることなんだと思います。もっとも優先的に慎むべき欲は色欲ではないかと思います。次が名誉欲、金銭欲、食欲かな?!
***(書換え詩)*************
13)
屋根を粗雑に葺いてある家には雨が漏れ入るように、心を修養していないならば、色欲が心に侵入する。
14)
屋根をよく葺いてある家には雨の漏れ入ることがないように、心をよく修養してあるならば、色欲の侵入することがない。 

詩番号 15、16、17、18

***(元データ)*************
15)
悪いことをした人は、この世で憂え、来世でも憂え、ふたつのところで共に憂える。
彼は自分の行為が汚れているのを見て、憂え、悩む。

17)
善いことをした人は、この世で喜び、来世でも喜び、ふたつのところで共に喜ぶ。
彼は自分の行為が浄らかなのを見て、喜び、楽しむ。

18)
悪いことをなす者は、この世で悔いに悩み、来世でも悔いに悩み、ふたつのところで悔いに悩む。
「私は悪いことをしました。」といって悔いに悩み、苦難のところ(地獄など)におもむいて(罪のむくいを受けて)さらに悩む。

17)善いことをなす者は、この世で歓喜し、来世でも歓喜し、ふたつのところで共に歓喜する。
「私は善いことをしました。」といって歓喜し、幸あるところ(天の世界)におもむいて、さらに喜ぶ。

***(判定)*************
15)〜18)D 削除

***(コメント)*************
 お釈迦様は、来世を幸せに過ごすために仏法を説かれたのではありません。これが諸宗教の諸悪の根源;オネダリ信仰なのですよ!
 お釈迦様は、今が大切、今の心(意識)を整える方法、そして神様が創られた、そして神様の一部でもある、法(則)を、塵穢れに満ちた三次元を生きている人間に伝授されに、この世にいらしたのです。法というものは、人間にとって遠く離れたものではなく、正しく話を聞けば何となくでも理解できるものなのです。なぜなら、人間も法の一部だからです。それに対して、来世とか苦難のところとか、幸あるところという曖昧な言葉で連想される世界は、理解と言うより想像しかできないのです。曖昧な世界の描出、来世へのオネダリ系の詩句は削除します。
***(書換え詩)*************
15)〜18)削除

詩番号 19、20

***(元データ)*************
19)
たとえためになることを数多く語るにしても、それを実行しないならば、その人は怠っているのである。
---牛飼いが他人の牛を数えているように、かれは修行者の部類には入らない。 

20)
たとえためになることを少ししか語らないにしても、理法にしたがって実践し、情欲と怒りと迷妄を捨てて、正しく気をつけていて、心が解脱して、執着することの無い人は、修行者の部類に入る。
***(判定)*************
B

***(コメント)*************
この対詩は、修行者(覚醒者としても良い)の真偽の見分け方を教えています。
「牛」は、修行者の教えを聞き正しく生きようとする人間のこと。本当の在家信者と言うべき人たちのことだと思います。
「牛飼い」は修行者もしくは偽修行者。実行を伴わない偽修行者には、実は本当の在家信者はいない、彼らは、自分の信者だと思っていても、実は本当の在家信者は別のきちんとした修行者に導かれているのです!という意味でで解釈しました。
***(書換え詩)*************
19)
たとえためになることを数多く語るにしても、それを実行しないならば、その人は怠っているのである。
---牛飼いが他人の牛を数えているように、かれは偽修行者である。 

20)
たとえためになることを少ししか語らないにしても、理法にしたがって実践し、情欲と怒りと迷妄を捨てて、正しく気をつけていて、心が解脱して、執着することの無い人は、修行者である。