2018年7月19日木曜日

第21章 さまざまなこと(元データと判定・解釈・考察と書き換え)

訂正履歴・記事
・タイトルの章番号が間違えていました。誤)22章→正)21章(20180919)
・第16章愛するものから詩217を詩303の前に移動しました。赤字対応(20181022)

第21章 さまざまなこと

詩番号 290~293

***(元データ)*************
290)つまらぬ快楽を捨てることによって、広大なる楽しみを見ることができるのなら、心ある人は広大な楽しみをのぞんで、つまらぬ快楽を捨てよ。

291)他人を苦しめることによって自分の快楽を求める人は、怨みの絆にまつわれて、怨みから免れることができない。

292)なすべきことを、なおざりにし、なすべからざることをなす、遊びたわむれ放逸なる者どもには、汚れが増す。

293)常に身体(の本性)を思いつづけて、為すべからざることを為さず、為すべきことを常に為して、心がけて、みずから気をつけている人々には、もろもろの汚れがなくなる。
***(判定)*************
290)B
291)A
292)A
293)A
***(コメント)*************
290)「心ある人」は「賢い人」、「見る」は「得る」に置き換えましょう。

291)「快楽を求める人は」は「快楽を求める人は愚かな人であって」と書き換えます。

292)「放逸なる者ども」は「放逸なる愚かな者ども」と書き換えます。

293)「自ら気をつけている人々」は「自ら気をつけている賢い人々」と書き換えます。汚れをなくす具体的な実践方法を示す貴重な詩です。
***(書換え詩)*************
290)つまらぬ快楽を捨てることによって、広大なる楽しみを見ることができるのなら、賢い人は広大な楽しみをのぞんで、つまらぬ快楽を捨てよ。

291)他人を苦しめることによって自分の快楽を求める人は愚かな人であって、怨みの絆にまつわれて、怨みから免れることができない。

292)なすべきことを、なおざりにし、なすべからざることをなす、遊びたわむれ放逸なる愚かな者どもには、汚れが増す。

293)常に身体(の本性)を思い続けて、為すべからざることを為さず、為すべきことを常に為して、心がけて、自ら気をつけている賢い人々には、もろもろの汚れがなくなる。


詩番号 294、295

***(元データ)*************
294) (「妄愛」という)母と(「われありという慢心」である)父とを滅ぼし、(永久に存在するという見解と滅びて無くなるという見解という)二人の武家の王を滅ぼし、(主観的機官と客観的対象とあわせて十二の領域である)国土と(「喜び貪り」という)従臣とを滅ぼして、バラモンは汚れなしに赴く。

295) (「妄愛」という)母と(「われありという慢心」である)父とを滅ぼし、(永久に存在するという見解と滅びて無くなるという見解という)二人の、学問を誇るバラモン王を滅ぼし、第五には(「疑い」という)虎を滅ぼして、バラモンは汚れなしに赴く。
***(判定)*************
294)D
295)D
***(コメント)*************
 この二つの詩は、中村氏の注釈が非常に多いのですが、そのすべてがブッダゴーサの注釈を日本語で紹介しています。また、後代に出来上がる仏教教義を彷彿させる内容です。これらの事から考えても、両詩は、お釈迦様が起因ではなく、ブッダゴーサが起因ではないかと、私は考えています。両方の詩ともに、似たことが書いてありますが、残念ながら整合が取れず、さっぱり意味不明です。もし仮に、ブッダゴーサがこの詩を作ったとして、この整合の取れない二つの詩を残したのであれば、なぜ、みすみす、少し考えれば、「頭おかしいじゃない?」とわかる、この二つの詩を並べておいたのでしょうか?この二つの詩の作られた目的が定かではありませんが、我々一般人にはわからない暗号ではないかと、私は推察します。
 (…)の部分を取って、文章のスキームを見てみましょう。
母と父とを滅ぼし、二人の武家の王を滅ぼし、12の国土と従臣とを滅ぼして、バラモンは汚れなしに赴く。
母と父とを滅ぼし、二人の学問を誇るバラモン王を滅ぼし、第五には虎を滅ぼして、バラモンは汚れなしに赴く。

 何だか、相当やばそうな暗号もどきが出てきました。
 バラモンになるには、母と父を滅ぼすことが、第一条件なのでしょうかね。尊属殺人みたいなものですね。
 殺人とまではいかなくとも、子供にとって毒になる親が話題にのぼりますが、親にとって毒になる子供もいるんです。お互いの力を削ぐ波動を持っているという感じなので、双方がお互いに毒になるのです。ただ、先に毒になるのは親の方でしょう。オギャーと生まれた何もできない赤ちゃんや幼稚園児が、現実問題として、大きく親の毒になるとは考えにくいです。
 もちろん、その子どもを授かる因縁が親にはありますし、それを乗り越えるためのパワーや知恵は適時与えられる約束はあったのでしょう。普通なら、乳幼児から幼年にかけて、母親が自分に与えられている力を子どもに精一杯注げば、うまく乗り越えられることになっていましたが、ここ30年は子育て場の悪化が猛スピードで進んで、母親が子供に力を注げなくなってきていて、失敗子育てが増えてしまったと言わざる終えないのです。1980年代中盤までは、お母さんになる人たちも、女性は子育てと家事が大事だという当たり前の価値を持っている人たちがほとんどだったし、世間でも、世話を焼いてくれる優しい雰囲気や、なんとかお母さんを励まそうという雰囲気もあったので、多少難しい子でも、それなりにきちんと大人になっていきました。しかし、その後、個人至上主義と一緒に女性の自立(?)のような薄気味悪い思想で、みんながバラバラ、母子ですらバラバラなんです。
 実は、50代以上の方々は、行儀の悪さを見ればわかりますが、彼らは、他人のことより自分の快適な生活に価値を重く置く自己至上主義人間が多いのです。自分さえ良ければいいというその身勝手な行動が、この悲惨な子育て場を創出したのですが、そんなことは夢にも思わず、反省するどころか、若い人たちの労力をどうしたら自分のために搾り取れるかにご熱心で、本当に呆れます。ちなみに、現40代だって、自己至上主義人間なら、だんだん年を取っていったら、このように変化していくのです。
 だから、お母さんもダメ、環境(お父さんはもはや環境です。)もダメで、なかなか子育てが上手にコンプリートできない状況を拡大し続けて、現在ではトドメ状態なんですよ。こんな現状なのに、現在がもしべビーブームなら、地球の低次元化に拍車がかかるのです。現地球では、若い子が増えても、この連中のいいカモになるだけですし、人間として円満に成長できる環境もないので、あの行儀の悪い老人を再生してしまうだけなのです。なので、今はできる限り、不妊が進むことを私は祈らざる終えません。一方で、好き同士で結婚して、子どもを授かるということは人生においては、本当に最高の時なのですが、結婚しても、これが果たされないことを他人に祈る自分も、どうかしていると思います。しかし、人として生を受けて当たり前の幸せが甘受できないほど地球の不浄が増大しているので、仕方ありません。若い世代と行儀の悪い老人世代(実は、悪い洗脳を受けた人たちなのですが、)を引き離して、若い世代に正しい事を教えて、その上で彼らがどういう価値、信念を持って地球で暮らすかに、今後の地球が存続し得るかがかかっていると思います。

 私が子育てして、周囲を観察した限りでは、子どもの成長にしたがって子どもの力が増しますから、最終的には子どもが親を潰す形になるのです。その前に、親が子どもを死に至らしめるケースもあるでしょうが、大抵は、親は年を取るに従って子どもを精神的に放棄し、自分は廃人的になります。
 
 話を戻しましょう。仏魔の試験に合格したバラモンに、仏魔が我々人間の住む12の領土(12支族の国)と人間
を守る王や従臣、そして、神様を表す虎の順で滅亡させる命令を出している、そんな感じの詩です。
 ブッダゴーサは仏魔の化身なんですね。それを逐一、記述してくださる中村元氏です。これは、すごい文献です。
 お釈迦様が活躍なさった当時は、実は、魔がヴェータに入り込み、バラモンは魔の手先に成り下がっていたのです。その見返りに、よいしょされて優遇され莫大な富を貯めていました。これを示す記述は“ブッダのことば第二小なる章7バラモンにふさわしいこと”(https://www.youtube.com/watch?v=WkuwXGyE9Ck 22:57あたりより。ただし、まだ、考察していないので、全てを鵜呑みにしないでください。)に書かれていますが、教えを述べられたお釈迦様に対して、「大富豪であるバラモンたちは、師に言った」と記述があります。大富豪のバラモンって、笑っちゃうよね。普通は読み過ごしちゃうけれど、気づくと笑っちゃいます。しかも、彼らは自分たちで、お釈迦様に「在俗信者として受け入れてください。」って懇願するんです。自分たちの財を投げ打つ出家なんて真っ平御免なんでしょうね。本当に大爆笑!
 ♪どんなに上手に隠れても、卑しい考え丸見えよ♪
 このバラモンたちは、学問を誇るバラモン王のお釈迦様を滅ぼしに来た、仏魔バラモンなんでしょうね。
 日本の僧侶、お坊さんも、このような解釈を、お経に関してなさったことはないでしょうが、今一度、よく自分の宗派の教えや仕事を見つめ直し、人間の良識を超えるものに関しては、距離を置く必要がある時期だと思います。僧職などを辞める必要はないのですが、自分が所属する宗派の現在のトップは仏魔バラモンである可能性が非常に高いことを鑑みて、
・おかしなことを檀家さんに喋ってないか?
・おかしなポスターをお寺に貼っていないか?
・お参りに来た人やお寺に助けを求めた人に親切にしているか?
・ご自分の良識と照らし合わせて、有益だと思ったならば行動する、有害だと思ったなら出来うる範囲でスルーしているか
を見直す必要があるのでしょう。トップクラスは何とも言えませんが、だいたいのご住職さんは、親切な方が多いと思うのです。
 でも、よく考えたら、これは会社勤めも同じですね。
 残念ながら、断固、戦う足場を持ち戦えるのは、本当の行者(修行僧)ですが、このような人たちは、すでに真人級になっているので、我々一般人とは、かなり違うと思われます。その代わり、教えや戒律で制限が多いのです。
 
***(書換え詩)*************
294)削除
295)削除


詩番号 296~301

***(元データ)*************
296)ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて、昼も夜も常に仏を念じている。

297) ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて、昼も夜も常に法を念じている。

298)ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて、昼も夜も常にサンガ(修行者のつどい)を念じている。

299)ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて、昼も夜も常に身体(の真相)を念じている。

300)ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて、その心は昼も夜も不傷害を楽しんでいる。

301)ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて、その心は昼も夜も瞑想を楽しんでいる。
***(判定)*************
全てD
***(コメント)*************
 各詩の、パーリ語の直訳を下に記します。
296)彼らにとって昼も夜も常にブッダを念じているなら常にゴータマの弟子はよく目覚めて、目覚める(http://76263383.at.webry.info/201211/article_26.htmlさんより)
297)彼らにとって昼も夜も常に法に向いて念じているなら常にゴータマの弟子はよく目覚めて、目覚める(http://76263383.at.webry.info/201212/article_1.htmlさんより)
298)彼らにとって昼も夜も常に僧に向いて念じているなら常にゴータマの弟子はよく目覚めて、目覚める(http://76263383.at.webry.info/201212/article_2.htmlさんより)
299)彼らにとって昼も夜も常に身体に向いて念じているなら常にゴータマの弟子はよく目覚めて、目覚める(http://76263383.at.webry.info/201212/article_3.htmlさんより)
300)彼らにとって昼も夜も常に不害の心を楽しむならば常にゴータマの弟子はよく目覚めて、目覚める(http://76263383.at.webry.info/201212/article_4.htmlさんより)
301)彼らにとって昼も夜も常に瞑想の心を楽しむならば常にゴータマの弟子はよく目覚めて、目覚める(http://76263383.at.webry.info/201212/article_5.htmlさんより)

 中村氏の訳出が「AだからBです。」としたら、パーリ語では、「BだからAです。」なのです。これは、訳出ミスです。
 「昼も夜も常に」についてですが、「昼も夜も起きている間は常に」と置き換えます。“ブッダのことば”では、寝ている間は、意識がないので、免除されていますので、これに準じます。
 「念ずる」は、念と定のセットでないと行為として完結しないので、「念ずる」を「念定(禅定)する」と表現を変えます。
 以下に、各詩で引っかかった場所を個別に記します。
298)は、僧に対して念定(禅定)をするということは、この僧が仏魔僧か、正しい僧なのかをいつも見極めなさいということです。僧だからといって、簡単に信じてはならないという教えです。
299)は、第11章 老いること で歌われている詩の内容を、いつも心に留めて、“身体に向いて念じている”としています。
300)不害は、暴力のことです。正当性がある場合は武力、不当な場合は暴力としましたので、不害は暴力と置き換えます。

以上を考慮して、詩を整えて書き換えます。
これらは、第25章甲 仏弟子の最後に振り分けましょう。
***(書換え詩)*************
296)
ゴータマの弟子は昼も夜も起きている間は、常にブッダについて念定(禅定)すべきである。
これにより、彼らは、覚醒するか、もしくは、常によく覚醒しているのである。
297)
ゴータマの弟子は昼も夜も起きている間は、常に法について念定(禅定)すべきである。
これにより、彼らは、覚醒するか、もしくは、常によく覚醒しているのである。
298)
ゴータマの弟子は昼も夜も起きている間は、常に僧に対して念定(禅定)すべきである。
これにより、彼らは、覚醒するか、もしくは、常によく覚醒しているのである。
299)
ゴータマの弟子は昼も夜も起きている間は、常に身体について念定(禅定)すべきである。
これにより、彼らは、覚醒するか、もしくは、常によく覚醒しているのである。
300)
ゴータマの弟子は昼も夜も起きている間は、常に武力と暴力について念定(禅定)すべきである。
これにより、彼らは、覚醒するか、もしくは、常によく覚醒しているのである。
301)
ゴータマの弟子は昼も夜も起きている間は、念定(禅定)を楽しむべきである。
これにより、彼らは、覚醒するか、もしくは、常によく覚醒しているのである。

詩番号 302~305

***(元データ)*************
302)出家の生活は困難であり、それを楽しむことは難しい。在家の生活も困難であり、家に住むのも難しい。心を同じくしない人々と共に住むのも難しい。(修行僧が何かを求めて)旅に出て行くと、苦しみに遇う。だから旅に出るな。また苦しみに遇うな。
217)
 徳行と見識とをそなえ、法にしたがって生き、真実を語り、自分のなすべきことを行なう人は、人々から愛される

303)信仰あり、徳行そなわり、名声と繁栄を受けている人は、いかなる地方におもむこうとも、そこで尊ばれる。

304)善き人々は遠くにいても輝く、──雪を頂く高山のように。
善からぬ人々は近くにいても見えない、──夜陰に放たれた矢のように。

305)ひとり坐し、ひとり臥し、ひとり歩み、なおざりになることなく、わが身をととのえて、林のなかでひとり楽しめ。
***(判定)*************
302)D
217)A
303)A
304)A
305)B
***(コメント)*************
302)
 出家と在家で、詩がごちゃごちゃに編成されているので並べ直します。
 出家者や修行僧はこの世の利益を求めて策を弄することは一切禁止されていますが、これが正しく伝わるように書き換えます。
 また、お釈迦様ご自身が旅でご自分の教えを広められたのですから、決して「旅に出るな」とおっしゃるはずがないので、旅に関する記述は削除します。

217)第21章 さまざまなこと 詩303の前に第16章 愛するものから移動。
303)なし
304)なし
305)「林の中で一人楽しめ」は、「林の中で一人であっても楽しめ」に書き換えます。修行僧、出家者は、外に出て行って、真理を在家に教えるのが仕事ですから、辛いことが多くても、外に出なくてはなりません。
***(書換え詩)*************
302)
在家の生活は困難であり、家に住むのも難しい。なぜならば、心を同じくしない人々と共に住むのは難しいからである。
出家の生活は困難であり、それを楽しむことは難しい。出家者が策を弄して利益を求めると、苦しみに遇う。だから、出家者は、策を弄して利益を求めてはいけない。


217)書換え不要

303)書き換え不要

304)書き換え不要

305)ひとり坐し、ひとり臥し、ひとり歩み、なおざりになることなく、わが身を治めて、林のなかでひとりでも楽しめ。

(第21章 さまざまなこと 終わり)

2018年7月12日木曜日

第8章 千という数にちなんで(元データと判定・解釈・考察と書き換え)

訂正履歴)
・詩番号 103~105 解釈を著しく間違えましたので、判定、コメント、書き換え詩のを全面的に訂正しました。申し訳ありません。取り消し線と赤字にて訂正(20180914)
詩番号 106、107 書き換え詩が、ちぐはぐ だったので書き換えました。一部コメントも訂正します。取り消し線と赤字にて訂正(20180914)
詩番号 106 解釈を変えましたので、詩自体が不明という判定になり、元データの詩を温存することにしました。取り消し線と赤字にて訂正(20180914)
・詩番号 103~105 コメントに「戦い」についての補足をつけ、それに付随して書き換え詩に多少の変更を加えました。青字部分(20180918)

第8章 千という数にちなんで

 漢字にすべき箇所は、漢字にしましたが、漢字変換した表記を一つ一つにはしませんでした。

詩番号 100~102
***(元データ)*************
100)無益な語句を千たび語るよりも、聞いて心の静まる有益な語句を一つ聞く方が優れている。

101)無益な語句よりなる詩が千もあっても、聞いて心の静まる詩を一つ聞く方が優れている。

102)無益な語句よりなる詩を百も唱えるよりも、聞いて心の静まる詩を一つ聞く方が優れている。
***(判定)*************
100)A
101)A
102)A
***(コメント)*************
100)~103)なし
***(書換え詩)*************
100)~102)書換え不要


詩番号 103~105
***(元データ)*************
103)戦場において百万人に勝つよりも、唯だ一つの自己に克つ者こそ、じつに最上の勝利者である。
104)、105)自己にうち克つ事は、他の人々に勝つ事よりも優れている。つねに行ないをつつしみ、自己をととのえている人、──このような人の克ち得た勝利を敗北に転ずる事は、神も、ガンダルヴァ(天の伎楽神)も、悪魔も、梵天もなす事ができない。
***(判定)*************
103)B

104)、105)B
すべてD
***(コメント)*************
103)~105)
 自己にうち克つ事は、他の人々に勝つ事よりも優れているし、さらには、戦場において百万人に勝つよりも優れていて、最上の勝利者です。少し文章の順番を整えましょう。
 「自己を整える」といよりは、「自己を治める」という表現の方が的確だと思うので、他の箇所でも直したように、ここでも置き換えます。
 自己にうち克つ事は、他の人々に勝つ事とは別の事象です。自己にうち克つ事の定義を、常に行ないをつつしみ、自己を治めることとすれば、これができた人は勝利者であることは間違いありません。これは、戦いが強い弱いとは関係ありませんから、男女でも関係ありません。

 では、他の人々に勝つ場合、相手があってのことですが、その相手が真理から逸脱しているのか?それとも真理を護っているのかによって、戦うことの意味が違ってきます。これが大義名分のない戦いがダメだと言われるゆえんです。正義の旗印の下にいる人たちを相手に戦うのは外道ですし、外道(愚かな人)相手に戦うのは真理を護るためには必要な戦いなのです。戦いには、武力による戦い、そして言論による戦い、その他、諸々の戦いがあると考えています。
 戦いを分類せずに全てを暴力として忌みものとするのはよろしくない教えです。引っかかってしまいました(汗)。申し訳ありません。

 この3個の詩は一つの詩に書き換えます。

***(書換え詩)*************
103)常に行ないをつつしみ、自己を治めて、自己にうち克つ事は、他の人々に勝つ事よりも優れている。

104)さらに、戦場において百万人に勝つよりも、唯だ一つの自己に克つ者こそ、じつに最上の勝利者である。

105)自己に克った者の勝利を敗北に転ずる事は、神も、ガンダルヴァ(天の伎楽神)も、悪魔も、梵天もなす事ができない。

103)+104)+105)
 常に行ないをつつしみ、自己を正しく治めて、自己にうち克つ事はよい。
 自己に克った者の勝利を敗北に転ずる事は、神も、ガンダルヴァ(天の伎楽神)も、悪魔も、梵天もなす事ができない。唯だ一つの自己に克つ者は勝利者となる。

 この勝利者が、他の愚かな人々に勝ち、戦場において愚かな百万人に勝てば百万人の愚かな者どもを打ち破れば、その人は最上の勝利者となる。



詩番号 106~108
***(元データ)*************
106)百年のあいだ、月々千回ずつ祭祀(マツリ)を営む人がいて、またその人が自己を修養した人を一瞬間でも供養するならば、その供養する事の方が、百年祭祀を営むよりも優れている。

107)百年のあいだ、林の中で祭祀(マツリ)の火につかえる人がいて、またその人が自己を修養した人を一瞬間でも供養するならば、その供養する事の方が、百年祭祀を営むよりも優れている。

108)功徳を得ようとして、ひとがこの世で一年間神をまつり犠牲(イキニエ)をささげ、あるいは火にささげ物をしても、その全部をあわせても、(真正なる祭りの功徳の)四分の一にも及ばない。行ないの正しい人々を尊ぶ事の方が優れている。
***(判定)*************
106)D
107)D
108)A
***(コメント)*************
106)、107)供養は、尊ぶ気持ちを表現する時の行為の一つです。供養やお布施は、金品のやり取りで使われ事が多いのです。しかし、本来は違うという仏教関連者の皆様の主張も、私は痛いほどわかるのです。ただ、このような誤解を招きやすい言葉であり、自己を修養した人(ブッダ、真人)を尊ぶ心を大切に表現をしたいと思いますので、
「尊ぶ」>「供養する、お布施をする。」
という構造を明確に表現出来る詩に書き換えますします。二つを一つの詩に合体します。

108)中村氏の注釈によれば、「真正なる祭り」とは、行ないの正しい人々を尊ぶ事だそうです。お祭りとは、「飲めよ! 歌えよ!」ではなく、尊ぶべき存在(神様、仏様、お釈迦様、キリスト様)に対して、敬意を表す儀式なんですね。合点が行きます。その結果、平和な楽しい時間 ––それが、「飲めよ! 歌えよ!」だったりするのでしょうが、–– が人間に与えられるという事なのですね。
***(書換え詩)*************
106)百年の間、月々千回ずつ祭祀(マツリ)を営む人がいて、またその人が自己を修養した人(ブッダや真人)を尊び、一瞬間でも供養するなら、その方が、百年祭祀を営むよりも優れている。

107)百年の間、林の中で祭祀(マツリ)の火につかえる人がいて、またその人が自己を修養した人(ブッダや真人)を尊び、一瞬間でも供養するなら、その方が、百年祭祀を営むよりも優れている。

106)+107)
 百年の間、月々千回ずつ祭祀(マツリ)を営む人や、林の中で祭祀(マツリ)の火につかえる人がいる。もし、それらの人々が自己を修養した人(ブッダや真人)を尊び供養するなら、たとえその供養がつかの間であっても、ただ、百年祭祀を営むだけよりも優れている。自己を修養した人を尊び供養することは優れている。

108)功徳を得ようとして、人がこの世で、一年間、神をまつり、犠牲(イキニエ)をささげ、あるいは火にささげ物をしても、その全部をあわせても、行ないの正しい人々を尊ぶ真正なる祭りの方が、はるかに優れている。


詩番号 109
***(元データ)*************
109)つねに敬礼を守り、年長者を敬う人には、四種の事がらが増大する。──すなわち、寿命と美しさと楽しみと力とである。
***(判定)*************
109)D
***(コメント)*************
109)お釈迦様は、年長者かどうかは、人の判断の材料にはあまりしていません。人となりを判断する基準は、第5、6、7、19、25、26、14章で述べられています。
 亀の甲より年の功というところもありますが、年齢が行けば悪知恵も付きます。ただ、日本では、年長者は伝統的に敬われていたと思いますし、昔は、年齢と人徳のあつさにもそれなりに相関があったと思います。しかし、現代では、50歳以上の行儀の悪い人々もかなり見かけます。びっくりしてしまいますが、うるさいバイクで騒音を垂れ流しているライダーって、けっこうなお年の方もいます。若い人もいますが、同じかそれ以上の確立でおじさん方です。ですから、いつもきちんと自分で、人が自己を修養した人かどうかを判断する癖をつけないといけないのです。お釈迦様は、人が自己を修養した人(ブッダや真人)を常に敬うように教えてらっしゃいます。
 さらに、寿命と美しさと楽しみと力の4種ですが、三次元的な寿命や美しさ、楽しみや力の決定要因は、光と闇が拮抗するこの世では、神様からのものかもしれないですし、悪魔からのものかもしれません。ですから、この4種は、この世の私たちそのものではなく、私たちの魂が得る事ができるものでしょう。
***(書換え詩)*************
109)常に、人が自己を修養した人(ブッダや真人)に敬礼を守れば、魂の寿命と美しさと楽しみと力が増大する。


詩番号 110~112
***(元データ)*************
110)素行が悪く、心が乱れていて百年生きるよりは、徳行あり思い静かな人が一日生きる方が優れている。

111)愚かに迷い、心の乱れている人が百年生きるよりは、知慧あり思い静かな人が一日生きる方が優れている。

112)怠りなまけて、気力もなく百年生きるよりは、堅固につとめ励んで一日生きる方が優れている。
***(判定)*************
110)~112)A
***(コメント)*************
110)~112)なし
***(書換え詩)*************
110)~112)書換え不要


詩番号 113
***(元データ)*************
113)物事が興りまた消え失せることわりを見ないで百年生きるよりも、物事が興りまた消え失せることわりを見て一日生きる事の方が優れている。
***(判定)*************
113)B
***(コメント)*************
113)「物事が興りまた消え失せることわり」とは「物事が興りまた消え失せる因果」とします。「見る」を「見極める」とします。
***(書換え詩)*************
113)物事が興りまた消え失せる因果を見極めずに百年生きるよりも、この因果を見極めて一日生きる事の方が優れている。



詩番号 114、115
***(元データ)*************
114)不死(シナナイ)の境地を見ないで百年生きるよりも、不死の境地を見て一日生きる事の方が優れている。

115)最上の真理を見ないで百年生きるよりも、最上の真理を見て一日生きる方が優れている。
***(判定)*************
114)D
115)BE(不明)
***(コメント)*************
114)「不死」については、中村氏は注釈で非常に困惑しています。中村氏は、学者なので伝統を重んじて真面目に訳出してらしゃいます。お釈迦様は、魂は死なないという原理原則(不死)にお立ちですから、どの魂もよほどのことがない限り、不死なのです。もちろん、身体は死にますが、魂は不死という立場でお話しなさっています。ですが、この魂の不死と体の不死を分離して捉えることができる人ってそう多くないと思います。
 以上から、「不死の境地」というのは「魂の不死の境地」と置き換えてみます。また、「不死の境地を見る」ではなく、「不死の境地を理解する」と、現代風にします。

115)仏道の最高峰は真人、できれば、ブッダになる事ですから、仏道でいう最上の真理とは、ブッダになった後の真理を言うのだと思います。要するに、「最上の真理」とは、安らぎ、解脱のことです。でも、人間の私にはそれが涅槃(最上のやすらぎ)なのか、別のものか、よくわからないので、この詩はこのまま残します。
***(書換え詩)*************
114)魂の不死の境地を理解せず百年生きるよりも、これを理解して、一日生きる事の方が優れている。


115)ブッダの知る最上の真理である安らぎを見ないで百年生きるよりも、これを見て一日生きる方が優れている。
最上の真理を見ないで百年生きるよりも、最上の真理を見て一日生きる方が優れている。
(第8章 千という数にちなんで 終わり)

2018年7月3日火曜日

第12, 20, 13, 11章 自己, 道, 世の中, 老いること 書換え詩一覧 その8

訂正履歴
・第13章 世の中 167詩 引用ミス 取消線と赤字にて対応(180711)
・詩(135)[295]を第10章 暴力より第11章 老いること の詩番号148の後に移動 (181005)

 書換え詩一覧 その8

第12章 自己、第20章 道、第13章 世の中、第11章 老いること


第12章 自己
(160)[178]
 魂(自己)こそ心(自分)の主である。他人がどうして心(自分)の主であろうか? 魂(自己)をよく整えたならば、得難き主を得る。

(157)[179]
 もしも人が魂(自己)を愛しいものと知るならば、魂(自己)をよく守れ。賢い人は、怠らずに励み、常につつしんで目ざめているようにせよ。

(161)[180]
 心が作り、心から生じ、心から起った悪が知慧悪しき人(魂)を打ちくだく。─金剛石が宝石を打ちくだくように。

(162)[181]
 愚かな人は、仇敵がかれの不幸を望むとおりのことを、魂(自己)に対してなす。─蔓草(ツルクサ)が沙羅の木にまといつくように。

(158)[182]
 先ず自己を正しく整え、次いで他人を教えよ。そうすれば賢明な人は、煩わされて悩むことが無いであろう。

(159)[183]
 他人に教えるとおりに、自分でも行なえ──。自己をよく整えた人こそ、他人を整えるであろう。自己は実に制し難い。
 
(164)[184]
 愚かにも、悪い見解にもとづいて、真理に従って生きるブッダ・真人たちの教えを罵るならば、その人は悪い報いが熟する。──カッタカという草は果実が熟すると自分自身が滅びてしまうように。

(163)[185]
 善からぬこと、自己のためにならぬことは、なし易い。ためになること、善いことは、実に極めてなし難い。

(165)[186]
 自ら悪をなすならば、自ら汚れ、自ら悪をなさないならば、自ら浄まる。浄いのも浄くないのも、各自のことがらである。人は他人を浄めることができない。

(166)[187]
たとい他人にとっていかに大事であろうとも、(自分ではない)他人の目的のために自己のつとめをすて去ってはならぬ。自己の目的を熟知して、自己のつとめに専念せよ。
(第12章 自己 終わり)

第20章 道

(273)[188]
人の道の中では、仏道が最もすぐれている。
人の道の真理の中では、四諦(苦・集・滅・道)が最上である。
もろもろの徳の中では、執着から離れることが最もすぐれている。
人々の内では、ブッダ(=眼ある人)が最もすぐれている。

(274)[189]
 これこそ道である。(真理を)見るはたらきを清めるためには、この他に道は無い。汝らはこの道を実践せよ。これこそ悪魔を迷わして(打ちひしぐ)ものである。

(275)[190]
 汝らがこの道を行くならば、苦しみをなくすことができるであろう。(棘が肉に刺さったので)矢を抜いて癒す方法を知って、わたくしは汝らにこの道を説いたのだ。

(276)[191]
 汝らは(みずから)つとめよ。もろもろの如来(=修行を完成した人)は(ただ)教えを説くだけである。心をおさめて、この道を歩む者どもは、悪魔の束縛から脱れるであろう。

(277)〜(279)[192]
「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)
「一切の形成されたものは苦しみである」(一切皆苦)
「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)
と明らかな知慧をもってこの世の全てを観るときに、人は苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。

(280)[193]
 起きるべき時に起きないで、若くて力があるのに怠りなまけていて、意志も思考も薄弱で、怠惰でものうい人は、明らかな知慧によって道を見出すことがない。

(281)[194]
 ことばを慎しみ、心を落ち着けて慎しみ、身に悪を為してはならない。これらの三つの行ないの路を浄くたもつならば、ブッダの説きたもうた道を克ち得るであろう。

(282)[195]
 実に心が統一されたならば、豊かな知慧が生じる。心が統一されないならば、豊かな知慧がほろびる。生じることとほろびることとの、この二種の道を知って、豊かな知慧が生ずるように自己をととのえよ。

(283)[196]
  一つの樹をを伐るのではなくて、(煩悩の)林を伐れ。危険は林から生じる。(煩悩の)林とその下生えとを切って、林(=煩悩)から脱れた者となれ。修行僧らよ。

(284)[197]
 たとい僅かであろうとも、男女の淫らな欲望が断たれないあいだは、その人の心は束縛されている。

(285)[198]
 自己の煩悩の執着を断ち切れ、─池の水の上に出て来た秋の蓮を手で断ち切るように。静かなやすらぎに至る道を選び進め。めでたく行きし人であるブッダは安らぎへの道を説きたもうた。

(286)[199]
 「わたしは雨期にはここに住もう。冬と夏とにはここに住もう」と愚者はこのようにくよくよと慮って、死が迫って来るのに気がつかない。

(287)[200]
 子どもや家畜のことに気を奪われて心がそれに執著している人を、死はさらって行く。──眠っている村を大洪水が押し流すように。

(288)[201]
 子も救うことができない。父も親戚もまた救うことができない。死に捉えられた者を、親族も救い得る能力がない。

(289)[202]
 心ある人はこの道理を知って、教えをまもり自らを清め、安らぎに至る仏道をすみやかに進め。
(第20章 道 終わり)


第13章 世の中
(167)[203]
 心ある人はこの道理を知って、教えをまもり自らを清め、すみやかに安らぎに至る道を清くせよ。安らぎに至る清い道をすみやかに進め。
 下劣なしかたになじむな。怠けてふわふわと暮らすな。邪な見解をいだくな。世俗のわずらいをふやすな。

(168)[204]
 奮起てよ。怠けてはならぬ。道理に従った善い行いを実行せよ。道理に従って行なう人は、この世でも、あの世でも、安楽に臥す。

(169)[205]
 道理に従った善い行ないを実行せよ。道理に従わない悪い行ないを実行するな。道理に従って行なう人は、この世でも、あの世でも、安楽に臥す。

(170)[206]
 世の中は泡沫のごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ。世の中をこのように観ずる人は、死王もかれを見ることがない。

(171)[207]
 さあ、この世の中を見よ。王者の車のように美麗である。愚かな人はそこに耽溺(タンデキ)するが、賢い人はそれに執著しない。

(172)[208]
 以前は怠りなまけていた人でも、のちに怠りなまけることが無いなら、その人はこの世の中を照らす。─雲を離れた月のように。

(173)[209]
 以前には悪い行ないをした人でも、のちに善によってつぐなうならば、その人はこの世の中を照らす。─ 雲を離れた月のように。

(174)[210]
 この世の中は暗黒である。ここではっきりと(ことわりを)見分ける人は少ない。網から脱れた鳥のように、天に至る人は少ない。

(175)[211]
 白鳥は太陽の道を行き、神通力による者は虚空(ソラ)を行く。人々は、自己を正しく治め、悪魔とその軍勢にうち勝てば、世界から連れ去られる。

(176)[212]
 唯一無二の真理を逸脱し、偽りを語り、安らぎの世界を無視している人は、どんな悪でもなさないものは無い。

(177)[213]
 愚かな人々は分かちあうことをたたえない。しかし賢い人々は分かちあうことを喜ぶ。そして、それぞれが、自己にあいふさわしい来世に赴く。

(178)[214]
 大地の唯一の支配者となるよりも、天に至るよりも、全世界の主権者となるよりも、自己を治め、真人となるほうがすぐれている
(第13章 世の中 終わり)


第11章 老いること
(146)[215]
 何の笑いがあろうか。何の歓びがあろうか?──世間は常に燃え立っているのに──。汝らは暗黒に覆われている。どうして燈明を求めないのか?

(147)[216]
 見よ、粉飾された形体を!(それは)傷だらけの身体であって、いろいろのものが集まっただけである。病いに悩み、意欲ばかり多くて、堅固でなく、安住していない。

(148)[217]
 この容色は衰えはてた。病いの巣であり、脆くも滅びる。腐敗のかたまりで、やぶれてしまう。生命は死に帰着する。

(135)[295] 第10章 暴力より移動11章 老いること の詩番号148の後に移動
 牛飼いが棒をもって牛どもを牧場に駆り立てるように、老いと死とは生きとし生けるものどもの寿命を駆り立てる。

(149)[218]
  秋に投げすてられた瓢箪(ヒョウタン)のような、鳩の色のようなこの白い骨を見ては、なんの快さがあろうか?

(150)[219]
 骨で城がつくられ、それに肉と血とが塗ってあり、老いと死と高ぶりとごまかしとがおさめられている。

(151)[220]
 いとも麗しい国王の車も朽ちてしまう。身体もまた老いに近づく。しかし善い立派な人々の徳は老いることがない。善い立派な人々は互いに道理を説き聞かせる。

(152)[221]
 学ぶことの少ない人は、牛のように老いる。その人の肉は増えるが、その人の知慧は増えない。

(153)[222]
 わたくしは幾多の生涯にわたって生死の流れを無益に経めぐって来た、──家屋の作者(ツクリテ)をさがしもとめて──。あの生涯、この生涯とくりかえすのは苦しいことである。

(154)[223]
 家屋の作者よ! 汝の正体は見られてしまった。心は妄執を滅ぼし尽くし、体の形成作用を離れたので、汝(心)はもはや家屋を作ることはないであろう。汝の梁はすべて折れ、家の屋根は壊れてしまった。

(155)[224]
 若い時に、財を獲ることなく、清らかな行ないをまもらないならば、魚のいなくなった池にいる白鷺のように、痩せて滅びてしまう。

(156)[225]
 若い時に、財を獲ることなく、清らかな行ないをまもらないならば、壊れた弓のように横たわる。──昔のことばかり思い出して、頑なな心となる。
(第11章 老いること 終わり)