2017年5月31日水曜日

第2章 はげみ(元データと判定・解釈・考察と書き換え)

詩番号 21、22

***(元データ)*************
21)
つとめ励むのは不死の境地である。怠りなまけるのは死の境涯である。
つとめ励む人々は死ぬことがない。怠りなまける人々は、死者のごとくである。

22)
このことをはっきりと知って、つとめはげみを能(よ)く知る人々は、つとめはげみを喜び、聖者たちの境地を楽しむ。

***(判定)*************
D

***(コメント)*************
“つとめ励む”を“怠らない”に置き換える。
仏教独特の壮大な(まやかし的な)生死感ではなく、生きていても、明るく生き生きしているか、もしくは、ゾンビのようかといった感じの死や死者という捉え方でいいのでしょう。

***(書換え詩)*************
21)
怠らないことは、明るく生き生きとした生活に通じる。怠りなまけることは、ゾンビに通じる。
怠らない人々は明るく生き生きとしている。怠りなまける人々はゾンビのごとくである。

23)
このようにはっきりと知って、怠らないことをよく知る人々は、怠らないことを喜び、聖者たちの明るく生き生きした生活を楽しむ。


詩番号 23、24

***(元データ)*************
23)
(道に)思いをこらし、堪え忍ぶことつよく、つねに健(たけ)く奮励する、思慮ある人々は、安らぎに達する。
これは無上の幸せである。

24)
こころはふるいたち、思いつつましく、行いは清く、気をつけて行動し、みずから制し、法(のり)にしたがって生き、つとめ励む人は、名声が高まる。

***(判定)*************
D

***(コメント)*************
 安らぎは涅槃(ニルヴァーナ)と訳されますが、現在の仏教では、これは現世での富裕や生活の安定までも含まれているかのような教えになっています。
 しかし、これは、罪穢れだらけの現在の現世を正しく教えていません。実際は、現世での富裕や生活の安定は、罪穢れを溜めることによって得られるような場合が非常に多いのです。
 もちろん非常に少数派ではあるが、正しく光の道を歩んで裕福な人たちやしかるべき地位についている人たちもいるのですが、それは現世に光の仕組みを残すためであって、彼らが有り余るほど、桁違いに財産や権限を持つなどはありません。また、罪穢れが少ない人々は、この世の中の最下層に置かれることが圧倒的に多いですが、しかし、そのような人々は、暗くジトジトと人生を送っていることもまずありません。
 以上のような現状を鑑みて、23)と24)の詩を書き変えました。

***(書換え詩)*************
23)
これは(自分の歩んでいる道は)光へ通じる道であるか、絶えず考え、忍耐強く、健やか(合理的)な努力を怠らない。そのような思慮深い人々は、煩悩や穢れが一切消失する。これが無上の幸せである。

24)
怠らないことにより心が奮起し、思いつつましく、行いは清く、気をつけて行動し、みずから制し、法(のり)にしたがって生きる人は、名声が高まる。


詩番号 25

***(元データ)*************
25)
思慮ある人は、奮い立ち、つとめ励み、自制・克己によって、激流も押し流すことのできない島をつくれ。

***(判定)*************
D

***(コメント)*************
【克己;こっき】自分の欲望や邪念にうちかつこと。
「〜することによって‥‥する」の順序を、(私の経験を考えて)矛盾ないように入れ替えました。

***(書換え詩)*************
25)
思慮ある人は、怠らないことで得られる自制心と勇気により、克己し(自己の欲望や邪念に打ち勝ち)、激流も押し流すことのできない島(自己の拠り所)を作れ。


詩番号 26、27

***(元データ)*************
26)
智慧乏しき愚かな人々は放逸にふける。
しかし心ある人は、最上の財宝(たから)をまもるように、つとめ励むのをまもる。

27)
放逸にふけるな。愛欲と歓楽に親しむな。おこたることなく思念をこらす者は、大いなる楽しみを得る。

***(判定)*************
D

***(コメント)*************
【克己;こっき】自分の欲望や邪念にうちかつこと。
「〜することによって‥‥する」の順序を矛盾ないように入れ替えました。

***(書換え詩)*************
26)
智慧乏しき愚かな人々は怠り怠ける。しかし、心ある人は、怠らないことを最上の宝として生活をする。

27)
怠るな。愛欲と歓楽に親しむな。さらに正しく思念をこらす者は、大いなる楽しみを得る。

詩番号28、29、30 


***(元データ)*************
28)
賢者が精励修行によって怠惰を退けるときには、智慧の高閣(たかどの)に登り、自らは憂い無くして(他の)憂いある愚人どもを見下ろす。
____山上にいる人が地上の人々を見下ろすように。

29)
怠りなまけている人々の中で、ひとりつとめはげみ、眠っている人々の中で、ひとりよく目覚めている思慮ある人は、疾くはしる馬が、足のろの馬を抜いて駆けるようなものである。

30)
マガヴァー(インドラ神)は、つとめ励んだので、神々の中での最高の者となった。
つとめはげむことを人々はほめたたえる。放逸なることは常に非難される。 

***(判定)*************
D

***(コメント)*************
“精励修行”や“つとめ励む”は使わず、“怠り怠けない”という言い方か、削除をしました。

“山上にいる人が地上の人々を見下ろすように(28)”や“疾くはしる馬が、足のろの馬を抜いて駆けるようなものである(29)”のような比喩は、実際にお釈迦様が仰ったのか、後代の付け足しか悩ましいのですが、比喩は、表現に光るものが多いので、私としてはお釈迦様のお言葉の場合が多いのではないかと思っています。

詩30について。具体的な神様のお名前については、誰でも仏道の修行半ばの人が認識できないようです。神様の名前は後から付いてくるという意見がありますが、私も賛成です。今の私では、“マガヴァー(インドラ神)”を認識できません。でも、削除するほど自信もないので、記述を残します。



***(書換え詩)*************
28)
人は怠惰を退ける修行により、智慧を得て、憂いをなくす。
山上にいる人が地上の人々を見下ろすように、その人は憂いを持つ他の多くの人々を、自分とは異なると、はっきりと見極める。

29)
怠りなまけている人々の中で、たとえ一人でも怠り怠けなければ、その人は、眠っている人々の中で、ひとりよく目覚めている思慮ある人となる。
疾く走る馬が、足のろの馬を抜いて駆けるようなものである。

30)
怠り怠けない事は常に褒め称えられる。放逸なることは常に非難される。
マガヴァー(インドラ神)は、怠り怠けなかったので、神々の中での最高の者となった。

詩番号 31、32 


***(元データ)*************
31)いそしむことを楽しみ放逸に恐れをいだく修行僧は、微細なものでも粗大なものでも全て心のわずらいを、焼きつくしながら歩む
____燃える火のように。


32)いそしむことを楽しみ、放逸に恐れをいだく修行僧は、堕落するはずはなく、すでにニルヴァーナの近くにいる。


***(判定)*************
D

***(コメント)*************
“はげみ”の章では、“怠らない”という修行によって得られるものは、
“楽しみ”、“安らぎ”、“憂ない境地”、“智慧”
だとおしゃっていると思います。
“怠らないという修行”は、思っているだけでダメで、実践してこそです。人間が怠ってはいけないものとは、日頃の生活で優先順位が高く、回避するとまずい仕事から、生まれながらに持つ自分の勤めや課題です。後者は思い出すまでが大変ですが、前者を不怠惰で正しくこなせば、後者は自ずと思い出されてきます。それらを、粛々と続けるのですからきついに決まっています。それで、人間は脇道にそれてしまうのです。時間を本来の自分が使うべき課題に使わないのであれば、力量的にも気分的にも楽なのですから。そんな人間の癖を指摘して諌めているのが、この“はげみ”の表す不怠惰の教えなのです。
さらにこの二つの詩は、怠らない修行の奨励の一歩先、「“いやいや”ではなく、“楽しむ”という気持ちを持って臨みなさい」と教えてらっしゃるのです。同じ仕事でも、嫌々やるのと、自分に与えられた仕事を嬉しい気持ちで取り組むのでは、周囲に与える影響が違うものです。周囲に与える影響まで責任を持つには、不怠惰の修行を楽しみ喜びながらすればいいということを教えてくださっています。
繰り返しますが、この二つの詩は不怠惰の修行の一歩先ですが、心に留めておいてもらえると私も嬉しいです。

***(書換え詩)*************
31)
怠り怠けない生活を楽しく嬉しく実践する人は、微細なものでも粗大なものでも心のわずらいを、焼きつくしながら生活する。

32)
怠り怠けない生活を楽しく嬉しく実践する人は、堕落するはずはなく、すでに安らぎ(ニルヴァーナ)の近くにいる。


“はげみ”の章の後記

励むという積極的な意味合いではなく、不怠惰(怠り怠けない)という意味で書き換えが必要でした。
 この章名は、結局は“不怠惰”と書き直す必要がありそうです。両者は同じと言えば同じとも言えるのですが、励むには、見返りや結果が付いて来て意味が完結しがちですし、積極的に苦行をすることにつながりがちです。“生まれながらに持つ自分の勤めや課題”は、一般に言われる苦行であることは、まずありません。一般に言われる苦行は、生まれながらに持つ自分の勤めや課題に対して脇道的な場合が多いのです。
 生活のための賃金労働は、生まれながらに持つ自分の勤めや課題に沿ったものが多いのですが、自己実現などを謳う賃金労働はこの脇道の場合が多いのです。自分の置かれている状況に目を向けて、じっくりと考えるという作業は苦しいものですが、それこそ不怠惰の境地で臨み、そこから適切な実践をしていくのが、本来、人間として命を頂いた目的であることを考えさせられました。

 また、怠り怠けない実践時は、イヤイヤだったりするものです。私は、半強制のボランティア活動なんてイヤイヤの境地でした。しかし、ここは一丁、やってやるか!と気合を入れると、周りから助け船も出てきます。そして、周りも元気になります。まあ、イヤイヤだって仕方ないんですよ、初めはそんなものだし、時期によってもそうなったりします。その時に、「今は仕方ないかもしれないけれど、本当は明るい心で取り組める方がベターなのよ!」って心に話しかけてあげてくださいね。
           2017.6.2 月夜の龍