2019年6月20日木曜日

再考「真理のことば」ver.1 での変更点


差し替えの手順(3方法のご紹介;3→2→1の順が推奨順です。)

  1. 再考 「真理のことば」について、訂正を行いました。ここをクリックすると変更版 再考「真理のことば」ver.1がPDFで得られます。
  2. ページの差し替えで済ませる方法もあります。再考 「真理のことば」ver.1のページ番号 2, 8, 9, 18, 22~ 25, 58, 73~76,  81~84の合計17枚を出力して、同じページ番号で差し替えることができます。 ただし、この方法ですと、付録の最初のページ番号84がダブってしまいます。しかし、以後の「第4部 付録」、「第5部 削除した詩」に関しては、変更を行っていませんので、再出力の必要性は低く、気になる方は49ページ以降からページを振り直してください。
  3. さらに、再考「真理のことば」ver.1の8〜9、24〜25、81~84ページ(計8枚)を出力して、旧 再考「真理のことば」と差し替え、84ページだけはダブってしまいますが、新しい84ページを古い84ページの前に入れてください。他の箇所は下記の変更内容に従って赤鉛筆で直していただくのが一番無駄がないと思います。


以下に変更の経緯と変更箇所を記します。

変更の経緯


 今回、あらたに、ブッダ=み仏ですが、ブッダとはその存在より上の霊格からの呼称、み仏( or 仏)は下の霊格からの呼称という約束事を導入いたしました。なぜならば、縦(霊格)の繋がりを正すことが重要だと、最近 強く認識したからです。
 以前は、章 FS19 真人、FS24 バラモン、FS25 ブッダにおいて、「その人を我は・・・と呼ぶ。」の、「我は」が誰なのかを、はっきり議論せずに分類を行ったのですが、この「我」が誰なのかを考えて詩を読むことがとても重要だと、今更、気づいてしまいました。その結果、系統的にまとめることができましたので、以下に記します。

• 「その人を我はブッダと呼ぶ」の場合、我=神
 (なぜなら、霊格は神>ブッダ、仏様なので、ブッダを規定できるのはブッダ、仏様より霊格の高い神しかできないと言う論理です。)

• 「その人を我は真人 (or  バラモン)と呼ぶ」の場合、我=ブッダ、仏様
 (同様に、霊格は、ブッダ、 仏 > 真人、バラモンとなるので、真人とバラモンに関しては仏様が規定できると言う論理です。)

 以上の解釈により、我=神 の関係となる詩は、お釈迦様を通して高次の存在(神)が語られた教えと考えます。 他方、これ以外の真理のことばの詩は、お釈迦様が与えている教えが主になっています。しかし、お釈迦様を通じて、このような高次の存在(主に 二人称で「汝」を使用)からの教えが伝えられている場合も見受けられることは、本文で議論しました。
(補足) 
 お釈迦様は、人間でこの世にお生まれになり人間としては最も進化したブッダ(仏)になられたと言うのが一般的な説です。実は、そのお釈迦様に語りかけられた神様とお釈迦様の関係は当方にはよくわかりません。華厳経では、お釈迦様は盧舎那仏様(神様)からのメッセンジャー(人間)と書かれています。ただ、当方では手に負えない議論であると同時に、多分、人間の分際では計り知れない領域となると考えております。
 しかし、幸いにも、この「再考 真理のことば」は、お釈迦様は人間で活動なさり、人間として正しく生きる教えを残してくださったと言う前提で、受け取り手の人間にとって何ら問題がない詩句のみですので、梵天様や盧舎那仏様など、お釈迦様にお働きかけた存在については、あまり考えないことにします。そして、やはり一般の人間はお釈迦様である仏様をお手本にその教えを一番大切にして生活を送り人生を歩むことにより霊格の向上が効率よく進むと理解するに至りました。ですから、日蓮上人は、「釈迦より私の方が優れているけれど、仏道ではお釈迦様を一番中心において拝しなさい。」とおっしゃられたのだと思います。ただ、だからと言って日蓮宗を私が薦めているわけではないのです。と言うのも、ほとんど知りませんので。やはり自分で読み込んだ、再考「真理のことば」が私としては責任を持ってお薦めできるのです。

変更内容

 カッコ内の数字は、前回の 再考「真理のことば」における訂正ページです。*マークは、差し替え手順3において必ず再出力される部分なので、各位での訂正は必要ない部分です。

  1. FS16 詩 F204:「それが」→「それらが」、「それは」→「それらは」(18, 58)
  2. FS22 詩 F291,294:「仏」→「み仏」(22, 73)
  3. FS22 詩 F292,293:「ブッダ」→「み仏」(22, 73)
  4. FS22 詩 F301:「ゴータマの」→「仏」(23, 74)
  5. FS22 詩 F302:「ブッダの」→「仏」(23, 75)
  6. FS23 詩 F306:「ブッダ」→「み仏」(23, 76)
  7. FS23 詩 F309:「修行僧」→「バラモン」とし、FS24 詩 F341.1 として、F341 の後に移動(8*, 9*, 23, 24*, 76, 81*)
  8. FS24 詩 F340, 346:「かれをわれは」→「その人を我は」(24, 26, 81*, 82*)
  9. FS24 詩 F345:「われは」→「我は」(24, 82*)
  10. “再考「真理のことば」 ver.1 での変更点”(本章)を新設(2)



2019年2月8日金曜日

仏道における「空と相」

 「空と相」の議論は、度々、正しく語れずに失敗に終わっています。その度に正答に近づくのですが。今回の解釈は、しっくりと腑に落ちました。
 まずは、訂正するツイートは以下に示した2019年1/28のツイートです。







































 私も「この世の中は無相です。」なんて書いて、「この世には何もないよ」みたいなニュアンスを醸し出してしまいました。すみません。
 この世の中(3次元)は、私たちの修行の場ですから、とても価値のあるところです。ここで、自分の魂が十分学ぶために、時間を無駄にしてはならないのです。少なくともそういう心意気で臨みましょうというだけで、くれぐれも無理しないでください。身の丈にあった生活が一番なのです。そして、この世の中には実相があって、そこにはきちんとした物事や分別(個々の違い)があるということなのです。違いがないという教え自体が悪魔のささやきでした。ついつい、やられてしまいます。
 以下は、先のツイートの画像部分の文章を書き直したものです。

  詩番号  F257 (B084, D, O092+093, OS07)
  書換え詩
心の汚れが消え失せ解脱することは、空を体現してこの世の実相を認識することでもある。この解脱者たちの行く路(足跡)は知り難い。_空飛ぶ鳥の迹の知りがたいように。

元詩
 O092;財を蓄えることなく、食べ物についてその本性を知り、その人々の解脱の境地は空にして無相であるならば、かれらの行く 路(足跡)は知り難い。_空飛ぶ鳥の迹の知りがたいように。
 O093;その人の汚れは消え失せ、食べ物をむさぼらず、その人の解脱の境地は空にして無相であるならば、かれの足跡は知り難い。 _空飛ぶ鳥の迹の知り難いように。

***(コメント変;重要)*****************
 空と相について、説明を改めました。
 “「分別のない世界を一切空」と。”言うらしいのです。(http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-391.htm さんより)。

 私は、この説明は明らかに間違いであると思います。 実は、自分の色眼鏡を外す、言い換えれば、心の汚れを取り払ってこの世の中を見ることが、空の体現です。完全に取り払うこと は難しいですが、出来うる限り取り払う努力が必要です。この時、役に立つのが、禅定(瞑想)だとも思っています。その時に見 えてくる世界には、実は分別があるのです。はじめて体験すれば、空の中には物事も分別もあることがわかります。それらが、自分が色眼鏡で見ていた物事と分別とは違うということなのです。ですから、あえて私が空を一言で言えとなったら、「空とは、相を 取り払ったこの世の実相」になります。 

 では、相とは、何でしょうか?相とは、この世の形や現象です。この世の実相を覆うマトリックスのようなもので、空を体現す ることにより、色眼鏡を通して見えていた相が消えて、この世の中の物事も分別もある実相が見えてくる、これが「空の体現」で しょう。無相は「相を無くしてください。」という意味で、「有相を感じる。」という言い方でも良いでしょう。ですが、無相という と「何もかも無いと同じ」というイメージを持ってしまい、非常に危険です。
  解脱は、持続的に空を体現して、この世の実相と相を認識することに他なりません。これに従って、詩を書き換えました。 そして、空の体現と「食べ物を貪らず」や「食べ物の本性を知る」は同等のはずがありません。従って、この2句は削除します。 
 また、この教えは、在家と出家の両者に与えられているので、財は結果として溜まってしまうことまで禁じえません。突き詰め て言ってしまえば、「財を蓄えること=悪」と言う関係は間違いで、悪魔のトラップです。従って、これに関する句も削除します。 結果として、両詩はほとんど同様な詩句になるので、合体させます。