・第11章 暴力 詩番号136を詩番号69の後に挿入。(180925)
この章は、とても戒めになるので、よく読誦しました。基本的に、書き換えが必要ない詩句が多いと思います。
“真理をわきまえる”と言うことは、覚醒者になるということです。
仏道は、愚かな凡夫から修行者そして覚醒者になるための教えと言えます。仏道を修めて、覚醒者になり神道へ進んだ人にとっては、(詩75のコメントで説明したのを参照ください。)外の教えという表現になることもあるでしょう。“真理のことば”は、人間、そして人もどき、悪魔に与えられた教えと考えています。
詩番号 60〜69
***(元データ)*************
60)
眠れない人には夜は長く、疲れた人には一里の道は遠い。
正しい真理を知らない愚かな者どもには、生死の道のりは長い。
61)
旅に出て、もしも自分よりもすぐれた者か、または自分にひとしい者に出会わなかったら、むしろきっぱりと独りで行け。
愚かな者を道伴(づ)れにしてはならぬ。
62)
「わたしたちには子がある。わたしには財がある。」と思って愚かな者は悩む。
しかしすでに自己が自分のものではない。 ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか。
63)
もしも愚者がみずから愚であると考えれば、すなわち賢者である。
愚者でありながら、しかもみずから賢者だと思う者こそ、「愚者」だと言われる。
64)
愚かな者は生涯賢者に仕えても、真理を知ることが無い。匙が汁の味を知ることができないように。
65)
聡明な人は瞬時(またたき)のあいだ賢者に仕えても、ただちに真理を知る。___舌が汁の味をただちに知るように。
66)
あさはかな愚人どもは、自己に対して仇敵(かたき)に対するようにふるまう。悪い行いをして、苦い果実(このみ)をむすぶ。
67)
もしも或る行為をした後に、それを後悔して、顔に涙を流して泣きながら、その報いを受けるならば、その行為をしたことは善くない。
68)
もしも或る行為をしたのちに、それを後悔しないで、嬉しく喜んで、その報いを受けるならば、その行為をしたことは善い。
69)
愚かな者は、悪いことを行っても、その報いの現れないあいだは、それを蜜のように思いなす。しかし、その罪の報いの現れたときには、苦悩を受ける。
***(判定)*************
A
***(コメント)*************
王族、貴族の血縁の上層部では、私たち人間とは違う輪廻転生なので、この血縁間でぐるぐる同じ魂が生まれて来ます。ですから、この魂は前世の記憶もあり、知識や技術を1から習得する必要がありません。さらに、教育課程も私たち人間が受ける教育課程と異なっていて、本当のことに近いことを教える教育課程を有します。しかし、全ての魂がこのようであるわけでなく、ほんの一部でしょう。ですから、私たち人間と同じように、前世で学んだことや記憶は消去されている存在がほとんどですが、我々庶民よりもかなり優遇されて育ちます。私たちが知り得ない存在や社会があることを知って、この教えを読んでみましょう。
こういう場で育った人たちは、優遇されていた状況を認識するとき、自分の財産にも子供にもこだわり、全てが自分のものでいてほしいと切に願うのです。しかし、これはすでに悪魔の罠にハマってしまっている証しなのです。その執着ゆえに、価値の低いものを価値あるものと基準を置いて、正しい認識や思考ができなくなるのです。幼い頃のリセット状態の自分を思い出したら、今、自分が価値を置いているものに、子供時分の自分が何ら大した価値を置いていなかったことに気づくはずです。転生による記憶のリセットは、大人である自分たちの現在の思考、言動、行動が、いかにおかしいかを知る手がかりになるので、とても重要なのです。もう、思い出せないほど、歪んでしまっていたら、話は別で、その人の魂は、すでに人もどきや悪魔に成り下がっていると考えられます。
罠にかかってしまった彼らの魂も、この教えを素直に聞き入れ、反省し、改めれば人間になることができます。
したがって、「真理のことば」は、人間だけでなく、人もどきや悪魔にも与えられた教えということになります。
***(書換え詩)*************
60)〜69):書き換え不要
詩番号 136
***(元データ)*************
136)
しかし愚かな者は、悪い行ないをしておきながら、気がつかない。浅はかな愚者は自分自身のしたことによって悩まされる。_火に焼きこがされた人のように。
***(判定)*************
136)A
***(コメント)*************
136)
第11章 暴力から第5章 愚かな人 へ移動。
“しかし”で、詩が始まるのは変ですから、文章の意味が通じるように書き換えます。
比喩部分は不要なので削除します。
***(書換え詩)*************
136)
愚かな者は、悪い行ないをしておきながら、気がつかない。しかし浅はかな愚者は自分自身のしたことによって悩まされる。
詩番号 70
***(元データ)*************
70)
愚かなものは、たとい毎月(苦行者の風習にならって一月に一度だけ)茅草の端につけて(極く少量の)食べ物を摂るようなことをしても、(その功徳は)真理をわきまえた人々の16分の1にも及ばない。
***(判定)*************
B
***(コメント)*************
日月神示の日月の巻 第03帖 (176)にも、下記のように修行についての教えがあります。
此の神示 声立てて読みて下されと申してあろがな。臣民ばかりに聞かすのでないぞ。守護神殿、神々様にも聞かすのぞ、声出して読みてさへおればよくなるのざぞよ。じゃと申して、仕事休むでないぞ。仕事は行であるから務め務めた上にも精出して呉れよ。それがまことの行であるぞ。滝に打たれ断食する様な行は幽界(がいこく)の行ぞ。神の国のお土踏み、神国の光いきして、神国から生れる食物(たべもの)頂きて、神国のおん仕事してゐる臣民には行は要らぬのざぞ。此の事よく心得よ。十月十九日、一二 。
(http://18.pro.tok2.com/~solht0920070/sunmoon/123_06_sunmon/sunmon_06_176.htm より)
マハトマ ガンジーは断食をしていましたが、これは願掛けだと思います。断食して、ふにゃふにゃな一日を過ごしたら、時間泥棒になってしまい(ダイエットで経験ある方もいらっしゃるかと思います。)、最も避けなければいけない愚行となります。このような他利的でない苦行のご利益を盲目的に信じ、こだわっている人々を見て、お釈迦様は愚かな者と断じてらっしゃるのでしょう。ですから、愚者の断食行には功徳がなく、真理をわきまえた人の絶大な功徳とは比べられないのです。
以上の点から、メッセージを整理しましょう。
***(書換え詩)*************
70)
愚かなものは、真理をわきまえた人の功徳と同じように、断食行により功徳が得られると考える。
しかし、愚者の行う断食行に功徳はない。
詩番号 71〜74
***(元データ)*************
71)
悪事をしても、その業は、しぼり立ての牛乳のように、すぐに固まることはない。(徐々に固まって熟する)その業は、灰に覆われた火のように、(徐々に)燃えて悩ましながら、愚者につきまとう。
72)
愚かな者に念慮(おもい)が生じても、ついにかれには不利なことになってしまう。その念慮は彼の好運(しあわせ)を滅ぼし、かれの頭を打ち砕く。
73)
愚かな者は、実にそぐわぬ虚しい尊敬を得ようと願うであろう。修行僧らのあいだでは上位を得ようとし、僧房にあっては権勢を得ようとし、他人の家に行っては供養を得ようと願うであろう。
74)
「これは、わたしのしたことである。在家の人々も出家した修行者たちも、ともにこのことを知れよ。およそなすべきこととなすべからざることとについては、私の意に従え」____愚かな者はこのように思う。こうして欲求と高慢(たかぶり)とがたかまる。
***(判定)*************
A
***(コメント)*************
71)
人間であれば、カルマの清算は割合にすぐにやってきます。私なんて、本当にすぐにきますので、さっきはこんな事をしたからこう言う目にあうんだなってわかるのです。ぷんぷん怒れば、自動車事故だったり、違反切符だったりと。
しかし、詩 62)のコメントに記した通り、人もどきのような存在やそれに近い人にはカルマ清算がすぐに来ません。悪魔の守護のためかも知れません。ですから、人もどきやこれに近い人たちはカルマの清算ができずに溜まっていく一方なのです。これを日月神示では、借銭と言っています。アセンションは完全な借銭なき世の中にする(神の世にする)と言うのですから、今まで溜まったカルマは否が応でも清算させられます。できなければ、魂は廃棄物処理再生センターへと送られます。もう、猶予はあまりありません。残されたわずかな時間でも、頑張って清算する意思があれば、道は開けるでしょう。と言うのも、時間軸が曖昧になって来ているからです。個人によって残された時間も違って来ているはずです。
***(書換え詩)*************
71)〜74):書き換え不要
詩番号 75
***(元データ)*************
75)
一つは利得に達する道であり、他の一つは安らぎにいたる道である。ブッダの弟子である修行僧はこのことわりを知って、栄誉を喜ぶな。孤独の境地に励め。
***(判定)*************
A
***(コメント)*************
これを守り自分を修養する過程が、仏道です。この次のステップでは、利得に達する道と安らぎに達する道が一本化されます。その段階に到達した存在は、修行僧ではなく、覚醒者ということになります。ただし、魂がこなす課題は、さらに難しくなるはずです。
***(書換え詩)*************
書き換え不要