2018年3月16日金曜日

第6章 賢い人(元データと判定・解釈・考察と書き換え)2018/3/23 赤字訂正

訂正・変更履歴
詩番号 143、144を第10章暴力から移動しました。(180925)

第6章 賢い人(元データと判定・解釈・考察と書き換え)
http://longtext.blogspot.jp/2018/03/blog-post_9.html今後の予定を記しましたので参考にしてください。


 紹介している中村元氏著の「真理のことば」は、小乗仏教のカテゴリーで、スリランカで口伝されていた仏典を、ブッダゴーサと言うバラモンが編纂してまとめ、変更を禁じたものが土台となっているようです。

 中村元氏は、ブッダゴーサのまとめた「真理のことば」に、漢訳バージョンをはじめ、多様な「真理のことば」を参考に注釈を記されました。



 この章で一番大切なことは、“賢い人”として守るべき約束や態度、そしてどういった境地を目指すべきかを読み取ることです。私が考えている賢い人の立ち位置は、http://longtext.blogspot.jp/2018/03/blog-post_9.html で紹介した下図に示されています。この図を前提に、以後、
“第5章 愚かな人”
“第6章 賢い人”
“第7章 真人”
“第14章 ブッダ”
“第19章 道を実践する人”
“第25章 修行僧”
“第26章 バラモン”
の順に精読を進めて行きます。なお、順番の妥当性は、まだ判別できてなく、私の考え安さを優先しています。そのため、章の順序の考察は、最後になって再度行いたいと思います。




 “賢い人”は、分類領域としては広いと考えています。彼らの最終目標は、真人を目指すということになると考えています。この章の詩の順序は、内容の分類ではなく、発達の順を追って記されていると私は考えています。ですから、一読すると、議論があちこちに飛んでいる感じを受けますが、詩の順番を入れ替えていません。

 “第4章 花にちなんで”で記した“怠らずに励む”→“努め励む”→“学び努める”、“賢い人”の中の修行のステップとして、大切です。しかし、この章では、別の観点である “さとりのよすが” を紹介しているので、その詳細を以下に記します。

さとりのよすがとは、

(1) 択法:教えの中から真実なるものを選び取り偽りのものを捨てること
(2) 精進:一心に努力すること
(3) 喜:真実の教えを実行する喜びに住すること
(4) 軽安(きょうあん):心身を軽やかに快適にすること
(5) 捨:対象への捉われを捨てること
(6) 定:心を集中して乱さなこと
(7) 念:おも(念)いを平らかにすること

とまとめられています。この7項目は、非常に適切だと感じています。これらを気をつけつつ生活を送ることによって、“賢い人”というカテゴリーの人は、“真人”へと移行できる、そしてその具体的教えとして、各詩があると思います。

 “さとりのよすが”は、“八正道”とかなりオーバーラップがあります。“八正道”は、お釈迦様の入滅後かなりの時代が降った時に作られた概念で、宗教独特の難解さがあり、わかったようなわからないようなはぐらかされた気分になります。“さとりのよすが”は、お釈迦様の存命中にすでに言葉として存在しておりました。また、その当時すでにこの7つにまとめられたのではないかと考えています。
 お釈迦様が“怠らずに励む”→“努め励む”→“学び努める”という具体的な言葉で一般の人達に教えを述べられたことが多いと思いますが、“さとりのよすが” も非常に明確なので、修行者への教えとしてお使いになられたと思います。


詩番号 76〜78


***(元データ)*************
76)(おのが)罪過(つみとが)を指し示し過ちを告げてくれる聡明な人に会ったならば、その賢い人につき従え_隠してある財宝のありかを告げてくれる人につき従うように。そのような人につき従うならば、善いことがあり、悪いことは無い。

77)(他人を)訓戒せよ、教えさとせ。宜しくないことから(他人を)遠ざけよ。そうすればその人は善人に愛せられ、悪人からは疎まれる。

78)悪い友と交わるな。卑しい人と交わるな。善い友と交われ。尊い人と交われ。

***(判定)*************
76)A
77)D
78)A

***(コメント)*************
76)書き換え不要。
77)「訓戒せよ、教えさとせ。宜しくないことから遠ざけよ。」の部分は、極めて道徳的であり、この様なことをお釈迦様がお説教なさったとは考えにくいので、削除します。また、後半の主語の“この人”は、“賢者”と置き換える。
78)書き換え不要。この教えが“賢い人”に入っているのを考えると、この文章の主語は“賢い人”だと思いますが、どちらかと言えば、広く全般的に伝えていると思います。

***(書換え詩)*************

76)書き換え不要
77)賢い人は善人に愛せられ、悪人からは疎まれる。
78)書き換え不要

詩番号 79〜83

***(元データ)*************
79)真理を喜ぶ人は、心きよらかに澄んで、安らかに臥す。聖者の説きたまうた真理を、賢者はつねに楽しむ。

80)水道をつくる人は水をみちびき、矢をつくる人は矢を矯め、大工は木材を矯め、賢者は自己をととのえる。

81)一つの岩の塊りが風に揺るがないように、賢者は非難と賞賛とに動じない。

82)深い湖が、澄んで、清らかであるように、賢者は真理を聞いて、こころ清らかである。

83)高尚な人々は、どこにいても、執着することが無い。快楽を欲してしゃべることが無い。楽しいことに遭(あ)っても、賢者は動ずる色がない。

***(判定)*************
79)A
80)B
81)B
82)B
83)B

***(コメント)*************
 真理を聞く事に関する詩(82、79)、賢い人が動じてはならない戒の詩(81、83)とまとめたいとも思いましたが、“賢い人”は発達の段階を下から上への順に向かうための順番を示していると考えられるので、基本的には順番を遵守する事にします(順番を入れ替えた方が良いかどうかは、まだ迷い中です。)。賢い人のお手本は、真人です。
***(書換え詩)*************

79)真理を喜ぶ人は、心きよらかに澄んで、安らかに臥す。
  聖者の説きたまうた真理を、常に楽しめるようになるのが賢い人である。
  賢い人は、聖者(真人やブッダ)の説きたまうた真理を、常に楽しめる。

80)水道をつくる人は水をみちびき、矢をつくる人は矢を矯め、大工は木材を矯める様に、賢者は自己を整えよ。

81)一つの岩の塊りが風に揺るがないように、賢者は非難と賞賛とに動じてはならない。

82)清らかな、澄んだ、深い、静かな湖のように、賢者は真理を聞いて、こころ清らかとなる。

83)賢者は、楽しいことに遭(あ)っても、動じてはならない。なぜならば、聖者(真人)は、どこにいても、執着すること無く、快楽を欲してしゃべることもないのだから。

詩番号 84


***(元データ)*************
84)自分のためにも、他人のためにも、子を望んではならぬ。財をも国をも望んではならぬ。
邪なしかたによって自己の繁栄を願うてはならぬ。(道にかなった)行いあり、明かな知慧があり、真理にしたがっておれ。

***(判定)*************
84)A

***(コメント)*************
84)私は、この詩が大好きです。
***(書換え詩)*************

84)書き換え不要

詩番号 186

***(元データ)*************
186)たとえ貨幣の雨を降らすとも、欲望の満足されることはない。「快楽の味は短くて苦痛である」としるのが賢者である。
***(判定)*************
A
***(コメント)*************
これは 第6章賢い人 詩87の後に挿入します。
***(書換え詩)*************
186)たとえ貨幣の雨を降らすとも、欲望の満足されることはない。「快楽の味は短くて苦痛である」と知るのが賢い人である。

詩番号 85、86


***(元データ)*************
85)人々は多いが、彼岸(かなたのきし)に達する人々は少ない。他の(多くの)人々はこなたの岸の上でさまよっている。

86)真理が正しく説かれたときに、真理にしたがう人々は、渡りがたい死の領域を超えて、彼岸(かなたのきし)にいたるであろう。

***(判定)*************
85)B
86)B

***(コメント)*************
 彼岸とは、死の領域を超えた安らぎ(涅槃)の状態で、こなたの岸は死によって規定されている輪廻転生領域をさします。
***(書換え詩)*************

85)人々は多いが、安らぎに達する人々は少ない。他の(多くの)人々は輪廻転生をさまよっている。

86)真理が正しく説かれたときに、真理にしたがう人々は、渡りがたい輪廻転生を超えて、安らぎにいたるであろう。

詩番号 87、88、89


***(元データ)*************
87)賢者は、悪いことがらを捨てて、善いことがらを行え。家から出て、家の無い生活に入り、楽しみ難いことではあるが、孤独(ひとりい)のうちに、喜びを求めよ。

88)賢者は欲楽をすてて、無一物となり、心の汚れを去って、おのれを浄めよ。

89)覚りのよすがに心を正しくおさめ、執着なく貪りを捨てるのを喜び、煩悩を滅ぼし尽くして輝く人は、現世において全く束縛から解きほごされている。
***(判定)*************
87)D
88)D
89)A

***(コメント)*************
 87)と88)においては、“賢い人”に出家を勧める部分がありますが、出家を立場と考えれば、これが出来ればとても楽だと思いますが、必ずしも自分自身で決められることではないので、出家の勧めを弱める文章にします。
 89)は真人の領域です。“賢い人”の最終目標を示します。
***(書換え詩)*************

87)賢者は、悪いことがらを捨てて、善いことがらを行え。楽しみ難いことではあるが、孤独(ひとりい)のうちにも、喜びを求めよ。

88)賢者は欲楽を捨てて、無一物となろうとも、心の汚れを去って、おのれを浄めよ。

89)覚りのよすがに心を正しくおさめ、執着なく貪りを捨てるのを喜び、煩悩を滅ぼし尽くして輝けば、現世において全く束縛から解きほごされる。

詩番号 143、144
***(元データ)*************
143)
 みずから恥じて自己を制し、良い馬が鞭を気にかけないように、世の非難を気にかけない人が、この世に誰か居るだろうか?

144)
 鞭をあてられた良い馬のように勢いよく努め励めよ。信仰により、戒しめにより、はげみにより、精神統一により、真理を確かに知ることにより、知慧と行ないを完成した人々は、思念をこらし、この少なからぬ苦しみを除けよ。

***(判定)*************
143)A
144)D

***(コメント)*************
 第10章 暴力から移動しました。
 知慧と行ないを完成した人々=真人、バラモンですから、この方々に教える教えは、この世にはないです。あるとすれば、「こうすれば真人やバラモンになれます。」とか、「こういう存在が真人やバラモンです。」という教えです。また、この詩は霊格の高い存在への教えだと思います。霊格が上がれば、在家へも出家へも同じ教えになって来ます。今回は、どちらにも対応できるように、賢い人への教えと捉えます。
 以上の考察から、「知慧と行ないを完成した人々は…この少なからぬ苦しみを除けよ。」ではなく、「賢い人は…この少なからぬ苦しみを除けよ。」とします。
 精神統一は在家言葉、禅定(瞑想)は出家言葉で、両者とも同じ行為と考えますので、“精神統一”を“精神統一や禅定”と書き換えます。
 二つの詩を一つに書き換えます。
 第6章 賢い人 の最後に置きます。
 ひらがなを漢字に書き換えます。
***(書換え詩)*************
143+144)
 自ら恥じて自己を制し、良い馬が鞭を気にかけないように、世の非難を気にかけない人が、この世に誰か居るだろうか?
 賢い人よ、鞭をあてられた良い馬のように勢いよく努め励めよ。
 正しい信仰・戒しめ、はげみ、精神統一や禅定により思念をこらし、真理を確かに知り、この少なからぬ苦しみを除けよ。そして、知慧と行ないを完成させよ。

“賢い人”の章の後記

 “さとりのよすが”の(1)択法については、もう少し、早い段階で知っていたらと思います。また、これが広く流布されていたら、もう少し早い時期に仏典の改善作業が行われたと思います。ただ、各個人が択法を行って欲しいという光の意思があり、悪党の改ざんを放置した感じを受けています。改めて、私が考察し直していますが、これも全てが正しいとは限りませんので、読者の皆様も気をつけてください。私にとっては親の様に大切な仏教の教えに関することなので、私が携わる仕事だったと思います。今は、私の第一の命として取り組んでいます。