2017年11月24日金曜日

第4章 花にちなんで(元データと判定・解釈・考察と書き換え)2018/1/17 訂正

訂正履歴 
 2018/1/17訂正版(若干)
 2018/7/10訂正版(若干)

 これまでは、覚醒者と修行者を同等に扱いましたが、今後は、分別することにしました。何故ならば、覚醒者になるために修行している人が修行者と考える方が自然だと考えたからです。

 私は、覚醒者とは、お釈迦様のおっしゃる“目覚めた人、真人、ブッダ”ということだと認識しています。

 正しい真理を知って、うずく心を鎮め、護り、制す(治め)れば、信念が汚れることがなくなります(第3章 心 詩35、36で記述)。それと同時に、努力して、行いをその心に伴わせます。このステップを繰り返す(これが修行)ことにより、その人の行動規範が、“怠らずに励む”→“努め励む”→“学び努める”へとステップアップしていきます(詩番号44、45のコメント参照)。私の経験では、これにより、自然と善悪の計らいがなくなり始め、何も恐れることがなくなり始めます。この境地の究極にたどり着いた人が、目覚めた人(覚醒者)なのだと考えています。

 この章の“花”は、真理(真利善的)のこともあるし、五欲の対象の場合(悪的)もあります。“美”を1つ取っても、光からのものか、または、闇からのものか、なかなか見分けがつかない時ってあるじゃないですか?この章では、対象的なものを花と置き換えているのが、見事だと思います。ちなみに、五欲とは、コトバンクで調べると、「形体のある物質 (色) ,音声 (声) ,香り (香) ,味,触れてわかるもの (触) 」だそうです。


詩番号 44、45 

***(元データ)*************
44)
 だれがこの大地を征服するであろうか?
 だれが閻魔の世界と神々とともなるこの世界とを征服するであろうか?
 わざに巧みな人が花を摘むように、善く説かれた真理のことばを摘み集めるのはだれであろうか?
45)
 学びにつとめる人こそ、この大地を征服し、閻魔の世界と神々とともなるこの世界とを征服するであろう。
 わざに巧みな人が花を摘むように、学びつとめる人々こそ善く説かれた真理のことばを摘み集めるであろう。
***(判定)*************
A 
***(コメント)*************
 44)での問いかけに対する答えが45)です。

 “学びつとめる”は“学び努める”となると考えます。第二章「はげみ」で考察した“怠らずに励む”という土台が出来ていて、“学び努める”に移行すると考えています。発達には順序が大切です。いきなり“学び努める”から始めると、壁が高すぎて、逆に悪影響です。そういう意味では、
“怠らずに励む”→“努め励む”→“学び努める”
という感じで、人も向上に合わせて、表現を変えないといけないのだと思います。

 (番外編1)ちなみに、初めから高い目標を掲げさせて、人を壊すというのは、悪魔の常套手段です。自分の置かれた場所、やらなければならない事とやりたい事を区別し、冷静に見分けて分相応に対応しないと、悪魔の思う壺です。でも、これは結構難しいので、最初は、過小評価から始めて、徐々に上げて行き、自分の位置を見つけることによって、自分の立ち位置を自分で判断するのです。ですから、時間が必要で、焦りは禁物です。対象が大人であれば、自分でやって周囲の人たちに意見をもらうのですが、対象が子供であれば、親が見極めて本人に納得させる必要があります。このチェックポイントは意外にも重要です。ここで、間違えさせられて、悪魔にやられてしまう人が多いのです。しかし、私は状況も悪いので仕方もないと思っています(自分も子供もだいぶやられてきて、お手本にはなり得ないのです。)。アセンションではかなり是正されると思われます。ちなみに、今のステップが収まってきたら、次のステップに行ける勇気があるかも大切です。

 中村氏の注釈では、“大地”とは“自己”という見解もあると紹介されています。私はこの解釈で良いと思います。換言した“自己を征服する”というのは、「心を治める(鎮め、護り、制する)」と「行いを伴わせる」のステップを繰り返し、最低でも“学び務める”に到達していることが必要ではないかと解釈します。

 “閻魔の世界と神々とともなるこの世界”は、三千世界(あの世もこの世も全てミックス)の事だと思います。これを征服するとはスケールが大きすぎるのでしょうが、“学び努める”ところまで到達することによって、世の中の見え方が変わり、今は見えないものが見えるようになるとおっしゃりたいのだと思います。ちなみに、三次元のこの世界は時間は超えられませんが、色々な霊格の存在が行き交う擬似の三千世界かなと、個人的には捉えています。

 (番外編2)学ぶという言葉は、なかなか広い意味があります。普通に生きていくために生活する中で得られる経験により得られる知識や体験、技術なども学ぶに入れるのが主流です。それは否定できません。その上、さらに自分の意思でプラスαする部分も学ぶと言われています。後者の“学ぶ”が学問でしょう。普通に生きていく中で、人として正しく生きることができていることは非常に大切で、その土台がしっかりした人の“学問的学ぶ”を、この詩では求めているのだと思います。この土台がない人が、“学問的学ぶ”を行っても、閻魔の世界の住人に、てい良く使われてしまうだけです。
***(書換え詩)*************
44)
 書き換え不要
45)
 書き換え不要


詩番号 46 

***(元データ)*************
46)
 この身は泡沫のごとくであると知り、かげろうのようなはかない本性のものであると、さとったならば、悪魔の花の矢を断ち切って、死王に見られないところへ行くであろう。
***(判定)*************
D 
***(コメント)*************
 死王=悪魔とします。この身ははかないと知っている人はたくさんいるでしょう。これだけでは、自動的に悪魔の花の矢を断ち切って死王の見られないところへは行けないのは自明。ちょっと書き換えて、しっくりさせました。庶民や修行者への戒めでしょう。
 心を守るものが体。心と体とDNAを合わせたものが魂と考えています。
 “悪魔の花の矢”は五欲と考えて良いでしょう。
***(書換え詩)*************
46)
 この身は泡沫のごとくであると知り、かげろうのようなはかない本性のものであると、さとったならば、悪魔の花の矢を断ち切って、死王に見られないところへ行くよう心がけるべき。


詩番号 47 、48

***(元データ)*************
47)
 花を摘むのに夢中になっている人を、死がさらって行くように、眠っている村を、洪水が押し流して行くように。
48)
 花を摘むのに夢中になっている人が、未だ望みを果たさないうちに、死に神が彼を征服する。
***(判定)*************
B
***(コメント)*************
 庶民や修行者への戒めの詩です。
 この2つの詩の“花”は、“悪魔の花の矢”は五欲です。
 言葉尻を変えて、合体しましょう。
***(書換え詩)*************
 花を摘むのに夢中になっている人を、死がさらって行き、眠っている村を、洪水が押し流す。花を摘むのに夢中になっている人が、未だ望みを果たさないうちに、死神(悪魔)が彼を征服する。


詩番号 49 

***(元データ)*************
49)
 蜜蜂は(花の)色香を害(そこなわず)に、汁をとって、花から飛び去る。
 聖者が村に行くときは、そのようにせよ。
***(判定)*************
B
***(コメント)*************
 聖者は、覚醒者に当たるとも解釈できます。しかし、もはや覚醒者はこの教えを必要としないでしょう。ですから、聖者ではなく修行者へと記述を変更しました。修行者への戒めの詩です。この過ちは、実に犯しやすいです。
***(書換え詩)*************
49)
 蜜蜂は(花の)色香を害(そこなわず)に、汁をとって、花から飛び去る。
 修行者が村に行くときは、そのようにせよ。


詩番号 50 

***(元データ)*************
50)
 他人の過失を見るなかれ。他人のしたこととしなかったことを見るな。
 ただ自分のしたこととしなかったことだけを見よ。
***(判定)*************
D
***(コメント)*************
 他人は、先生ですから、良く観察しないとです。その上で、過失を責め立ててはいけないと言うことです。きっと、お釈迦様がおっしゃりたかったのは、下の書き換え詩だと思います。常識的にしました。
***(書換え詩)*************
50)
 他人のした事としなかった事を鑑みて、他人の過失を責めず、ただ学べ。
 自分のした事 としなかった事を省み、自己の過失は改よ。


詩番号 51 、52

***(元データ)*************
51)
 うるわしく、あでやかに咲く花でも、香りの無いものがあるように、善く説かれたことばでも、それを実行しない人には実りがない。

52)
 うるわしく、あでやかに咲く花で、しかも香りのあるものがあるように、善く説かれたことばも、それを実行する人には、実りがある。
***(判定)*************
A
***(コメント)*************
 真理のことばを生かすも殺すも、個々の人間の実行次第ということです。
***(書換え詩)*************
書き換え不要


詩番号 53 

***(元データ)*************
53)
 うず高い花を集めて多くの華鬘(はなかざり)をつくるように、人として生まれまた死ぬべきであるならば、多くの善いことをなせ。
***(判定)*************
A
***(コメント)*************
 その通りです。ちなみに、人として生まれてまたすぬべきであるならば、最低条件は悪いことをしないことです。
***(書換え詩)*************
書き換え不要


詩番号 54、55、56 

***(元データ)*************
54)
 花の香りは風に逆らっては進んで行かない。栴檀(せんだん)もタガラの花もジャスミンもみなそうである。
 しかし徳のある人の香りは、風に逆らっても進んで行く。徳のある人はすべての方向に薫る。

55)
 栴檀、タガラ、青蓮華、ヴァッシキー____これら香りのあるものどものうちでも、徳行の香りこそ最上である。

56)
 タガラ、栴檀の香りは微かであって、大したことはない。しかし徳行のある人々の香りは最上であって、天の神々にもとどく。
***(判定)*************
A
***(コメント)*************
 香りで嗅ぎ分けるのが大切なんですね。日月神示には、鼻と額での判断が正しいと書いてありました。私はその2つに気をつけていますが、まだ、実感はできていません。何となく霊格の高い人間が近くに来ると、子供の頃は私は心がソワソワしました。香りというか、強いて言えば、エネルギー波動が私の心に伝搬する感じです。オバマ元大統領は、TVでしか拝見してませんが、その一番の例です。
***(書換え詩)*************
書き換え不要


詩番号 57 

***(元データ)*************
57)
 徳行を完成し、つとめはげんで生活し、正しい智慧によって解脱した人々には、悪魔も近づくによし無し。
***(判定)*************
A
***(コメント)*************
 それでも、頑張って嫌がらせを画策するのが、連中の技だと思われますが、これは三次元の話でしょう。まだ、この詩の域まで到達してないので、私にはよくわかりませんが、三千世界ではきっと本当なんだと思います。
***(書換え詩)*************
書き換え不要


詩番号 58、59 

***(元データ)*************
58)
 大道に捨てられた塵芥(ちりあくた)の山堆(やまずみ)の中から香しく麗しい蓮華が生ずるように。

59)
 塵芥にも似た盲(めしい)た凡夫のあいだにあって、正しくめざめた人(ブッダ)の弟子は智慧をもって輝く。

***(判定)*************
B
***(コメント)*************
2つの対詩の関係を、構築し直し合体します。
***(書換え詩)*************
58)+59)
 大道に捨てられた塵芥(ちりあくた)の山堆(やまずみ)の中から香しく麗しい蓮華が生じたなら輝くように、塵芥にも似た盲(めしい)た凡夫のあいだにあって、正しくめざめた人(ブッダ)の弟子は智慧をもって蓮華のように輝く。


 
                   第4章 終わり

2017年11月20日月曜日

第3, 4章 心, 花にちなんで 書換え詩一覧 その2

訂正履歴
① 2017/11/20現在 → 2018/1/17訂正版


“真理のことば”の書換え詩一覧その1(第1章、第2章)へ、「(32)[26]怠り怠けない生活を楽しく嬉しく実践する人は、堕落するはずはなく、すでに安らぎ(ニルヴァーナ)の近くにいる。」を移す。(180605)


真理のことば 第3章  心、第4章  花にちなんで


書換え詩一覧 その2

()は中村元氏の詩番号、 [  ]は残した詩のシリアル番号

第3章 心

(33)[27]
 心は動揺し、ざわめき、護り難く、制し難い。
 修行(覚醒)者は、心を鎮め、護り、制す。そして、心を治める。 
(34)[28]
 多くの人の心は、水の中の すみか から引き出されて陸「おか」の上に投げ捨てられた魚のように、悪魔の支配から逃れようともがきまわる。しかし、やがて、力尽き悪魔の軍門に屈する。 
(35)[29]
 心は、捉え難く、軽々(かろがろ)とざわめき、欲するがままにおもむくところがある。その心を、正しく治めることは良いことである。
 心を正しく治めれば、安楽が得られる。
(36)[30]
 心は、極めて見難く 極めて微妙な部分と、欲するがままにおもむく部分がある。悪魔が、これらの心を狙って支配する。
 心を悪魔から守らなければ、安楽は得られない。
(37)[31]
 心は独りで動きまわり、遠くに行ってしまう部分がある。また、形体なく、胸の奥の洞窟(心臓)にひそんでいる部分もある。これら心を治める人々は、死の束縛から逃れるであろう。 
(38)[32]
 正しい真理を知らず、信念が汚されたならば、心の安楽(安住)は得られず、よって、さとりの智慧は湧いてこない。
(39)[33]
 心が煩悩に汚されず、念いが乱れずに、善悪のはからいを捨てるに至った覚醒者は、何も恐れることが無い。 
(40)+(41)[34]
 ああ、この身はまもなく地上によこたわるであろう。守っていた心は抜けてしまい、水瓶の破片のように、無用になる。
 この身体は、この水瓶のように脆いものだと知って、身体への執着を離れよ。そして、心を堅固に安立して、智慧の武器をもって、心で悪魔と戦え。勝ち得たものを執着することなく守れ。
(42)[35]
 憎む人が憎む人にたいし、怨む人が怨む人にたいして、どのようなことをしょうとも、邪なことをめざしている心はそれよりもひどいことをする。 
(43)[36]
 母も父もその他親族がしてくれるよりもさらに優れたことを、正しく向けられた心がしてくれる。
(第3章終わり)

第4章 花にちなんで

(44)[37]
 だれがこの大地を征服するであろうか?
 だれが閻魔の世界と神々とともなるこの世界とを征服するであろうか?
 わざに巧みな人が花を摘むように、善く説かれた真理のことばを摘み集めるのはだれであろうか?

(45)[38]
 学びにつとめる人こそ、この大地を征服し、閻魔の世界と神々とともなるこの世界とを征服するであろう。
 わざに巧みな人が花を摘むように、学びつとめる人々こそ善く説かれた真理のことばを摘み集めるであろう。
(46)[39]
 この身は泡沫のごとくであると知り、かげろうのようなはかない本性のものであると、さとったならば、悪魔の花の矢を断ち切って、死王に見られないところへ行くよう心がけるべきである。
(47)+(48)[40]
 花を摘むのに夢中になっている人を、死がさらって行き、眠っている村を、洪水が押し流す。花を摘むのに夢中になっている人が、未だ望みを果たさないうちに、死神(悪魔)が彼を征服する。
(49)[41]
 蜜蜂は(花の)色香を害(そこなわず)に、汁をとって、花から飛び去る。
 修行者が村に行くときは、そのようにせよ。
(50)[42]
 他人のした事としなかった事を鑑みて、他人の過失を責めず、ただ学べ。
 自分のした事 としなかった事を省み、自己の過失は改よ。
(51)[43]
 うるわしく、あでやかに咲く花でも、香りの無いものがあるように、善く説かれたことばでも、それを実行しない人には実りがない。
(52)[44]
 うるわしく、あでやかに咲く花で、しかも香りのあるものがあるように、善く説かれたことばも、それを実行する人には、実りがある。
(53)[45]
 うず高い花を集めて多くの華鬘(はなかざり)をつくるように、人として生まれまた死ぬべきであるならば、多くの善いことをなせ。
(54)[46]
 花の香りは風に逆らっては進んで行かない。栴檀(せんだん)もタガラの花もジャスミンもみなそうである。
 しかし徳のある人の香りは、風に逆らっても進んで行く。徳のある人はすべての方向に薫る。
(55)[47]
 栴檀、タガラ、青蓮華、ヴァッシキー____これら香りのあるものどものうちでも、徳行の香りこそ最上である。
(56)[48]
 タガラ、栴檀の香りは微かであって、大したことはない。しかし徳行のある人々の香りは最上であって、天の神々にもとどく。
(57)[49]
 徳行を完成し、つとめはげんで生活し、正しい智慧によって解脱した人々には、悪魔も近づくによし無し。
(58)+(59)[50] 
 大道に捨てられた塵芥(ちりあくた)の山堆(やまずみ)の中から香しく麗しい蓮華が生じたなら輝くように、塵芥にも似た盲(めしい)た凡夫のあいだにあって、正しくめざめた人(ブッダ)の弟子は智慧をもって蓮華のように輝く。
 (第4章終わり)


第1, 2章 ひと組ずつ, はげみ 書換え詩一覧 その1

訂正履歴
“真理のことば”の書換え詩一覧その2(第3章、第4章)から、「(32)[26]怠り怠けない生活を楽しく嬉しく実践する人は、堕落するはずはなく、すでに安らぎ(ニルヴァーナ)の近くにいる。」を移す。(180605)


真理のことば 第1章 ひと組ずつ、第2章 はげみ

書換え詩一覧 その1

()は中村元氏の詩番号、 [  ]は残した詩のシリアル番号

第1章 ひと組ずつ

(1)[1]
 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
 もしも、汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人に付き従う。
---車をひく(牛)の足跡に車輪がついてゆくように。
(2)[2]
 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
 もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人に付き従う---影がその身体から離れないように。
(3)[3]
「彼はわれを罵った。彼はわれを害した。彼はわれにうち勝った。彼はわれから強奪した。」という思いを抱く人には、怨みはついに息むことがない。
(4)[4]
「彼はわれを罵った。彼はわれを害した。彼はわれにうち勝った。彼はわれから強奪した。」という思いを抱かない人には、ついに怨みが息む。
(5)[5]
 実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。
怨みを捨ててこそ息む。これは永遠の真理である。"
(6)[6]
「我らは、ここにいながら、なおかつ死んでいるもの。」と覚悟をしょう。
 この覚悟を普通の人々は知ってはいない。しかし、この覚悟を実践する人は、常住する争いが、その人にとって鎮(しず)まる。
(7)[7]
 この世のものを浄らかだと思いなして暮らし、(眼などの)感官を抑制せず、食事の節度を知らず、怠り怠ける者は、悪魔にうちひしがれる。−−−弱い樹木が風に倒されるように。
(8)[8]
 この世のものを不浄であると思いなして暮らし、(眼などの)感官をよく抑制し、食事の節度を知り、信念あり、怠り怠けない者は、悪魔にうちひしがれない。−−−岩山が風にゆるがないように。

(9) ~ (10) 削除


(11)[9]
 まことではないものを、まことであると見なし、まことであるものを、まことではないと見なす人々は、あやまった思いにとらわれて、ついに真実(まこと)に達しない。
(12)[10]

 まことであるものを、まことであると知り、まことではないものを、まことではないと見なす人は、正しい思いにしたがって、ついに真実に達する。
(13)[11]

 屋根を粗雑に葺いてある家には雨が漏れ入るように、心を修養していないならば、色欲が心に侵入する。
(14)[12]

 屋根をよく葺いてある家には雨の漏れ入ることがないように、心をよく修養してあるならば、色欲の侵入することがない。 

(15) ~ (18) 削除

(19)[13]
 たとえ、為(ため)になる事を数多く語るにしても、それを実行しないならば、その人は怠っているのである。かれは偽修行(覚醒)者である。 
(20)[14]
 たとえ、為(ため)になる事を少ししか語らないにしても、理法にしたがって実践し、情欲と怒りと迷妄を捨てて、正しく気をつけていて、心が解脱して、執着することの無い人は、修行(覚醒)者である。   (第1章 終わり)


第2章 不怠惰 

(21)[15]
 怠らないことは、明るく生き生きとした生活に通じる。怠りなまけることは、ゾンビに通じる。
 怠らない人々は明るく生き生きとしている。怠りなまける人々はゾンビのごとくである。
(22)[16]
 このようにはっきりと知って、怠らないことをよく知る人々は、怠らないことを喜び、聖者たちの明るく生き生きした生活を楽しむ。
(23)[17]
 これは(自分の歩んでいる道は)光へ通じる道であるか、絶えず考え、忍耐強く、健やか(合理的)な努力を怠らない。そのような思慮深い人々は、煩悩や穢れが一切消失する。これが無上の幸せである。
(24)[18]
 怠らないことにより心が奮起し、思いつつましく、行いは清く、気をつけて行動し、みずから制し、法(のり)にしたがって生きる人は、名声が高まる。
(25)[19]
 思慮ある人は、怠らないことで得られる自制心と勇気により、克己し(自己の欲望や邪念に打ち勝ち)、激流も押し流すことのできない島(自己の拠り所)を作れ。
(26)[20]
 智慧乏しき愚かな人々は怠り怠ける。しかし、心ある人は、怠らないことを最上の宝として生活をする。

(27)[21]
 怠るな。愛欲と歓楽に親しむな。さらに正しく思念をこらす者は、大いなる楽しみを得る。
(28)[22]
 人は怠惰を退ける修行により、智慧を得て、憂いをなくす。
 山上にいる人が地上の人々を見下ろすように、その人は憂いを持つ他の多くの人々を、自分とは異なると、はっきりと見極める。
(29)[23]
 怠りなまけている人々の中で、たとえ一人でも怠り怠けなければ、その人は、眠っている人々の中で、ひとりよく目覚めている思慮ある人となる。
 疾く走る馬が、足のろの馬を抜いて駆けるようなものである。
(30)[24]
 怠り怠けない事は常に褒め称えられる。放逸なることは常に非難される。
 マガヴァー(インドラ神)は、怠り怠けなかったので、神々の中での最高の者となった。
(31)[25]
 怠り怠けない生活を楽しく嬉しく実践する人は、微細なものでも粗大なものでも心のわずらいを、焼きつくしながら生活する。   
(32)[26]
 怠り怠けない生活を楽しく嬉しく実践する人は、堕落するはずはなく、すでに安らぎ(ニルヴァーナ)の近くにいる。
(第2章 終わり)

2017年9月28日木曜日

第3章 心(元データと判定・解釈・考察と書き換え)

 “心”の詩句では、心の構造について正しく考察できていないと、惑わされます。結局理解できずに、お釈迦様の教えを遠ざけてしまうなら、実は合格かもしれません。なぜなら、理解しようと躍起になると、危険な思考回路(自己洗脳)を生んでしまいます。
 仏教も危険な落とし穴がたくさんあることを認識して、付き合わないといけないでしょう。

 この記事は、2017.9現在
http://newbuddhawords.blogspot.jp/2017/09/ver-2017.html に基づいて書かれている部分が多いので、そちらも参考にしてください。


詩番号 33 

***(元データ)*************

33)
 心は動揺し、ざわめき、護り難く、制し難い。英知ある人はこれを直くする____弓師が矢の弦を直くするように。 

***(判定)*************
B, D

***(コメント)*************
 これらの心は、主に潜在意識でしょう。顕在意識が暴走しやすいのは、これらの潜在意識の部分が誤った情報を流すからでしょう。「顕在意識を直接制御する潜在意識を強化すること、潜在意識を鍛え正流の情報を顕在意識に送れるようにしなさい。」と言う教えです。
 後半の記述は、普通の人には意味がわかりませんので、前半を反転させました。そして、私は“心を鎮め、護り、制す。”と三拍子そろったら、“心を治める”と定義します。心を治められる人こそが、覚醒者とか修行者と言われる人たちだと、私は思っています。
***(書換え詩)*************
33)
 心は動揺し、ざわめき、護り難く、制し難い。
 修行(覚醒)者は、心を鎮め、護り、制す。そして、心を治める。 


詩番号 34 

***(元データ)*************
34)
 水の中の住処から引き出されて陸「おか」の上に投げ捨てられた魚のように、この心は、悪魔の支配から逃れようとしてもがきまわる。 

***(判定)*************
B

***(コメント)*************
 私たち人間の心が、お釈迦様には、“陸「おか」の上に投げ捨てられた魚”のように、お見えになったのでしょう。
 悪魔の支配から逃れようともがき回るところに、仏様、神様が人を救済しようと決心なさる理由があるのでしょう。しかし、この守護も釣られた直後までだけで、釣り上げられた時間が長いほど、悪魔の支配に落ちて、ナアナアになる人が増えるのも現実です。
 もとよりも釣られないようにすることが大切です。それは、人間の力だけでは無理です。やはり霊界や神界からの守護が必要です。そのためには、顕在意識を直接制御する潜在意識を強化すること、潜在意識を鍛え正流の情報を顕在意識に送れるようにしなくてはなりませんが、この詩で言うように、多くの人はそれができていません。このメカニズムが理解できていないのも不利なのでしょう。
***(書換え詩)*************
34)
 多くの人の心は、水の中の すみか から引き出されて陸「おか」の上に投げ捨てられた魚のように、悪魔の支配から逃れようともがきまわる。しかし、やがて、力尽き悪魔の軍門に屈する。 

詩番号 35、36 

***(元データ)*************
35)
 心は、捉え難く、軽々(かろがろ)とざわめき、欲するがままにおもむく。その心をおさめることは善いことである。
 心をおさめたならば、安楽をもたらす。

36)
 心は極めて見難く、極めて微妙であり、欲するがままにおもむく。英知ある人は守れかし。
 心を守ったならば、安楽をもたらす。 
***(判定)*************
B

***(コメント)*************
 捉えがたい、軽々とざわめき、極めて見難い、極めて微妙は潜在意識部分だと考えています。そして、欲するがままにおもむく心は顕在意識部分でしょう。これら潜在部分の命令により顕在部分が誤動作することが多いのです。しかも、この場合、自分では誤動作している自覚がないのです(周囲はオヤ?と思うのですよ!)真理から外れないようにするには、心を治める(鎮め、護り、制する)ことが必要だと私は考えています。この二つの詩は、顕在意識を誤動作をさせる潜在意識部分を細分化して教えているのだと考えています。
***(書換え詩)*************
35)
 心は、捉え難く、軽々(かろがろ)とざわめき、欲するがままにおもむくところがある。その心を、正しく治めることは良いことである。
 心を正しく治めれば、安楽が得られる。

36)
 心は、極めて見難く 極めて微妙な部分と、欲するがままにおもむく部分がある。悪魔が、これらの心を狙って支配する。
 心を悪魔から守らなければ、安楽は得られない。

詩番号 37

***(元データ)*************
37)
 心は遠くに行き、独り動き、形体なく、胸の奥の洞窟にひそんでいる。この心を制する人々は、死の束縛から逃れるであろう。 

***(判定)*************
D

***(コメント)*************
 心の曖昧さが強調される詩です。心は独りで動きまわり、遠くに行ってしまう部分が主に顕在意識、形体なく、胸の奥の洞窟(心臓)にひそんでいる部分は主に潜在意識と解釈しています。
 “制する”は、“治める”としましょう。
***(書換え詩)*************
37)
 心は独りで動きまわり、遠くに行ってしまう部分がある。また、形体なく、胸の奥の洞窟(心臓)にひそんでいる部分もある。これら心を治める人々は、死の束縛から逃れるであろう。 

詩番号 38 

***(元データ)*************
38)
 心が安住することなく、正しい真理を知らず、信念が汚されたならば、さとりの智慧は全うからず。
***(判定)*************
D

***(コメント)*************
条件と結果がちぐはぐです。整理して書き直しました。
***(書換え詩)************* 
38)
 正しい真理を知らず、信念が汚されたならば、心の安楽(安住)は得られず、よって、さとりの智慧は湧いてこない。

詩番号39 

***(元データ)*************
39)
 心が煩悩に汚されることなく、おもいが乱れることなく、善悪のはからいを捨てている覚醒者(目ざめている人)には、何も恐れることが無い。 

***(判定)*************
D

***(コメント)*************
 発達には段階があります。
 善悪のはからいを捨てるには、心が煩悩に汚されていてもダメですし、念いが乱れていてもダメです。
 1⇨2⇨3⇨…と言う順を追っていくしかないので、その順番を逸脱すると正しい目的地には着けないばかりか、魂の退化に繋がります。
***(書換え詩)************* 
39)
 心が煩悩に汚されず、念いが乱れずに、善悪のはからいを捨てるに至った覚醒者は、何も恐れることが無い。 


詩番号 40、41

***(元データ)*************
 40)
  この身体は水瓶のように脆いものだと知って、この心を城郭のように(堅固に)安立して、智慧の武器をもって、悪魔と戦え。勝ち得たものを守れ。____しかもそれに執着することなく。
  41)
  ああ、この身はまもなく地上によこたわるであろう。____意識を失い、無用の木片(きぎれ)のように、投げ捨てられて。

***(判定)*************
D

***(コメント)*************
 身体が心を守るもので、心が身体を守るのではないことは、皆さんは簡単に理解できると思います。
 お釈迦様は、悪魔との戦いは、身体での戦いより、心の戦いが重要なことを我々人間に認識してもらいたいのです。その点では、身体への強い執着が邪魔になることもあると、教えてらっしゃいます。
 また、順序として40と41の詩の順番を入れ替えるとスッキリします。
***(書換え詩)************* 
40)+41)
 ああ、この身はまもなく地上によこたわるであろう。守っていた心は抜けてしまい、水瓶の破片のように、無用になる。
 この身体は、この水瓶のように脆いものだと知って、身体への執着を離れよ。そして、心を堅固に安立して、智慧の武器をもって、心で悪魔と戦え。勝ち得たものを執着することなく守れ。

詩番号 42、43 

***(元データ)*************
42)
 憎む人が憎む人にたいし、怨む人が怨む人にたいして、どのようなことをしょうとも、邪なことをめざしている心はそれよりもひどいことをする。 

43)
 母も父もその他親族がしてくれるよりもさらに優れたことを、正しく向けられた心がしてくれる。

***(判定)*************
A

***(コメント)*************
なし
***(書換え詩)************* 
42)
 憎む人が憎む人にたいし、怨む人が怨む人にたいして、どのようなことをしょうとも、邪なことをめざしている心はそれよりもひどいことをする。 

43)
 母も父もその他親族がしてくれるよりもさらに優れたことを、正しく向けられた心がしてくれる。

2017年9月26日火曜日

2017年9月12日火曜日

魂と脳と守護霊(ver 2017.9.12 )

魂と脳と守護霊(ver 2017.9.12 )

1. 目的

魂と脳と守護霊(ver 2017.6.19 )http://newbuddhawords.blogspot.jp/2017/06/ver-2017.html
の補足と訂正

2.   正誤部分

(1)"3. 魂=心と守護神は別物"  ⇒  補足 訂正 あり
(2)"4. 魂の居場所についての訂正"⇒  補足 訂正 なし
(3)"5. 魂と脳と守護霊の考察"   ⇒  補足図 あり2018/5/10訂正
(4)"6.後記"⇒  補足 訂正 なし


3. “ 3. 魂=心と守護神は別物(従来の私説に訂正あり)について”

       の補足と訂正


https://twitter.com/cncn1549/status/857837920991928320で、本守護神+正副守護神の導入しました。しかし、正副守護神は本守護神より自分に近いけれど、やはり自分ではありません。ここで使った自分は魂と置き換えます。逆に、“魂”とは、本守護神、正副守護神の下に位置する自分です。
 そして、私が“魂=心”として捉えたのですが、これは不十分だという考えに至りました。
 心については、
 “心=顕在意識+潜在意識”
という捉え方を、現在でもしています("魂と脳と守護霊(ver 2017.6.19 )の. 魂=心と守護神は別物"で考えた通り。)。
 しかし、
『“心=顕在意識+潜在意識”と定義します。そうなると、“魂=心”でも構わないと、私は感じています。』
 とも言っている部分が、実に不十分です。そこで、色々と考えに考えた末に、
 “魂=心+DNA”
にたどり着きました。
 ただし、DNAと身体を十把一絡げ (ジッパヒトカラゲ)にしたら、大変なことになってしまいます。そこで、私はDNAを①と②に分けて考えてみることにしました。
 三次元肉体を設計するものをDNA①とします。それはDNAのほんの一部(数%程度と言われています。)で、頭の活動の良し悪し、体の丈夫さ、運動神経などは、こちらで決定されると思っています。
 もう一つは、役割が特定できていないDNA②(ジャンクDNA90%以上)です。これは神霊界との繋がりが強く、また個の魂の情報館の役割もあると、私は考えています。これらは、守護神、外部霊や潜在意識との情報のやりとりが多いので、直接、顕在意識では認識しにくいのが特徴だとも考えています。

 これで、DNAの概念の中に体が上手に取り込め、魂の体現である身体という言葉も十分に言い表せてきたと思います。ただ、心とDNAは同等ではなく、心が身体に入っていないとONにならないものなのです。従って、
 魂>心>DNA>身体
といった関係があると考えています。

 魂のバックアップは、もちろん守護神や守護霊です。これは、私の経験では、現状は違いを議論する必要はないと考えています。肉体を持たないで、私たち三次元体を守護することで、自身の修行をする存在のことです。これらの存在と魂は、決して一対一という関係ではないようです。現に日月神示でも、本,正,副守護神という3つの存在を教えています。ただ、それらは基本的には生涯ずっと同じ存在のようです。しかし、それ以外にも、外部霊(神)として、三次元を生きる魂をバックアップする存在があるようです。これは、光の存在も、闇の存在もいて、定常的でなく入れ替わるのが特徴です。俗に言う指導霊は、この種類ではないかと、私は思っています。外部霊(神)として対応するものは、その魂と良い意味でも悪い意味でも通じる部分が多い存在のようです。


4. “ 3. 魂と脳と守護霊の考察 ” の補足図


5. 後記

今回は、これをまとめ上げた時に、魂のくせ、考え方のくせということが、ふと頭に浮かびました。
 こちらは困っていても、相手は私に悪いことをしている認識がない人って、結構、多いです。そんな時、その誤った思考回路を直してよ!って、よく自分は思うのです。これが、魂のくせなんだと思います(私にもあります。)。そして、それらが情報として魂の中に眠っているのが、潜在意識とジャンクDNA(DNA②)だと思います。
 この三次元での修行は、魂の悪い癖を直し、そして成長するのが目的です。しかし、その手段は?と考えてみると、脳(顕在意識)が、大きく貢献していることが見えてきました。
 少し、順を追って考えていきましょう。
 前回では、『脳(顕在意識)とDNA①を使って魂の情報が体現されていくのですが、
“守護神>魂>脳”という厳然とした関係があるために、脳は魂を制御できないのです。ただし、外部と魂との通路も脳です。この理屈から行けば、魂を封印する、もしくは攻撃する糸口は、脳(顕在意識)です。』と論じました(DNAの部分を付け足したりしています。)。これは、魔の入り口に焦点を当てて議論しています。しかし、脳(顕在意識)は魔の侵入経路だけではなく、顕在意識で体現した行動への他者からの評価感知器でもあるのです。「ああ、これをやると、こういう評価を受けるんだな」と感じ、自分で論理的思考(潜在意識や守護霊からの情報を元に)で考えて、自分が悪かった部分を探すのです。これが、本人の腑に落ちれば、それまで潜在意識に保有していた間違った思考回路、つまり魂の悪い癖が一つ直るのです。“あれをすれば、こうなる”という経験から、自分で論理的に(法則に照らし合わせ)考えて、体得していく過程で魂の成長があるのでしょう。
 学問や芸術に関しても同じです。現状のものが酷いという認識を持つのがスタートラインですが、それまでにある程度の基礎力を蓄えて、あれ?おかしいな?と思ったら、外部の情報を脳(顕在意識経由)で取り込み、守護神たちや自分が潜在意識で持っている知識を潜在と顕在意識で論理的に考えるのです(最終的にまとまった結果は顕在意識へと送られるようです。)。これが、できなければ、魂の上で、その分野に対してのステップアップはできません。良い素質を持ってきても、魂のステップアップができなければ、やはり残念な結果ということになるのです。
 ただ、なかなか、脳経由の情報は受け入れがきついのですよね。魔からの情報は、学問に関しても何に関してもイージーで、耳あたりがよく聞きやすい。他方、本当の学問や芸術に関する情報や、魂の悪い癖を直すための情報は、論理的思考をフル回転させなくてはならないか、耳が痛いのです。
 結果として、魔からの情報ばかりを潜在意識に取り込めば、潜在意識に誤った思考回路が、どんどんできてしまい、魂のレベルダウンに繋がり、行動全般が自己中心的になって、愛情に満ちた(他人を思いやる)、正しいとされる行動が取れなくなるのです。
 また、脳の働きが弱まると、イージーな方向に流されやすくなるという人間の性質があるように感じます。そのため、添加物や薬、薬物などで、魔に流れるように仕向けられていくのでしょう。
 しかし、このような状況があることを知り、個人で打ち勝つことが、この三次元での修行なんだなと、改めて感じました。そして、脳(顕在意識)の役割の重要性に驚いています。三次元修行は、未熟な魂だと危険ですが、そのために守護神がついているのだと思います。しかし、魂がレベルダウンすれば、本守護神と正守護神と副守護神のバランス関係が崩れ、負のスパイラルへと誘われるのでしょう。  (合掌)

追伸)
今後は、
1. 魂がレベルダウンすれば、本守護神と正守護神と副守護神のバランス関係が崩れるとどうなるのか?
2. DNA①とDNA②は関連がないのか?
を探って考えていきたいと思っています。

2017年6月19日月曜日

 魂と脳と守護霊(ver 2017.6.19 )

1.取り組み始めた理由

私がマシューさんに、「人間の魂と身体、また、守護霊と言われる方との関係をはっきりとさせてみてはどうですか?自分と自分の先祖のことについても、あなたは先祖と自分を切り離して考えているところがありますが、それは甚大な誤解なのですよ。」と言われて、一年以上が経つのです。
 それを受けて、人間の魂と身体の関係がはっきりしてくると、自分と先祖、身体を持たないバックアップしている存在との関係がわかるようになるかなと思って取り組み始めた課題です。
 自分にとって、心身ともに健康でいるための有益な情報ではないかと思ったのです。さらに、重大な病気で苦しんでいる方々にとっても有益ではないかと考えていたのです。

2. 最近の現状

でも、私自身は「えらい課題に手を出してしまった。」と、最近はかなり後悔気味でした。ハードルが高くて、なかなか、超えられないのです。誰も答えが出せないのを良い事に、似て非なるような説が飛び交う論題で、それらを参考にしたとしても、最後の部分は自分の中で答えを出さないといけないという結論まではたどり着いていたのです。そうなると、辛いので、「私がどう言ったって、証拠は出せないし、テキトーで終わらせても良いかな」、いや、はっきり言ってしまえば、「なかったことに。」なんて思っていますが、マシューさんはきっとアメリカ上空でこのネットを見ていると思うと…。「まだ宿題、終わってないよ!」って、お声が聞こえる私であります。

 さらに、今、直面しているもう1つの課題、“真理のことば 第3章 心”が、私に
「逃げるな!」
と釘を刺しているようでもあります。そして、部下に目を光らす、師匠達の目は、私の気のせいではない(汗)。

 この章の考察を完了するには、どうしても前述のハードルを超えないければならないのです。お釈迦様も観音様も応援してくださり、再度、浅草寺に参拝すべき用事を作ってくださり、おみくじで、

“有達宜更変、重山利政逢”というお言葉でご鞭撻くださいました。

 達成するためには、変じ改めるべし、山(いろいろな情報)を重ね合わせて、正しいもの(お釈迦様の教えとマシューさんからの宿題の解)との出会いをする時期です。よく、情報を細かく調べて吟味し、熟考し、自分の間違いは改めたら良いというご助言だと解釈しております。
 最大限の努力で臨む所存です。


3. 魂=心と守護神は別物(従来の私説に訂正あり

ここで、“魂と脳と守護霊”という私の記した今までの議論を整理します。
 前回(https://twitter.com/cncn1549/status/857837920991928320)、本守護神+正副守護神の導入まではこぎ着けました。これは、正解に近づく方向へ大きく向けたと思うのですが、しかし、ここで重大な間違いがありました。正副守護神は本守護神より自分に近いけれど、やはり自分ではないということなのです。そこの部分で、故意ではないのですが、結局は嘘になっていたのです。
 今回はあらたに、題名で使った“魂”を自分と考えます。ここで言う“魂”とは、本守護神、正副守護神の下に位置する自分です。
 そして、日頃よく使う“心”が、また果てしなく捉えがたいものなのですが、私の文章では“魂=心”として話を進めていきます
 一方、“真理のことば 第3章 心”では、訳者の中村元氏が注釈で、漢訳版で“心意品”と記されている題名を“心”と意訳したことを記されています。中村氏は、別の箇所でも、漢訳では“意”と表記されている部分を“心”と意訳しています。
 “意”というと認識できる意識(顕在意識)を思い浮かべてしまいます。それはまんざら間違えではなく、“意”を心の音と漢字の成り立ち通りに捉えてたら、音がある心、つまり顕在意識となるのです。一方、中国人は心を潜在意識と捉えたのだと思います。ですから、題名は“心意品”となっているのでしょう。漢訳は、あまりにも的確な訳出が多く、脱帽の連発です。
 しかし、ここではあえて、潜在意識も含めたもの、つまり、“心=顕在意識+潜在意識”と定義します。そうなると、“魂=心”でも構わないと、私は感じています。しかし、古来日本人は、わざわざ定義しなくても、心は顕在部分と潜在部分の集合体と感じていたのではないかと推測しています。“心意”と書かれるより、“やまと言葉”の“心”を使いたかった、中村氏の訳出も、日本人としては私は非常に賛同できます。


4. 魂の居場所についての訂正(従来の私説に訂正あり

魂(=心)は、どこにいるのか?という事を考えていて、前回、私は脳に居ると書いたのですが、どうやらこれも間違えのようです。その後、参考文献が2つも出てきたので、私がそれは間違えだと考えるに至りました。

 参考文献の1つ目は、古代インド人は心は心臓にいると考えていたということです。この根拠となる記述は、“真理のことば 第3章 心 第37詩”の注です。以下、この注を記します。

**(注)***
胸の奥の洞窟;(略)古ウパニシャド以来、アートマン(心)は心臓の内にある空処に住すると考えられていた。それを受けている。
*******

 参考文献の2つ目は、マシュー君のメッセージを掲載してらっしゃる森田玄さんのブログ(http://moritagen.blogspot.jp)
2017/5/4の記事の一部が参考になりますので、ご紹介します。

************
「心(ハート)に聞きなさい」と昔からあらゆる文化で言われてますが、ではどうしたら聞こえるのか、その方法が具体的に示されたことはありません。

英語ではハート(心)と心臓は同じ言葉(Heart)ですが、日本語は心と心臓は別です。でも、どうして昔の人は「心の臓器」と呼んだのでしょう?

過去20年間の心臓神経学の発達によって、心臓には「心臓脳」と呼ばれる脳と同じ神経節ネットワークがあること、心臓と脳が常にコミュニケーションしていること、そして心臓から脳に送られる情報量は脳から心臓に送られるものより100倍以上も多いなどが発見されています。

単なる血液の循環ポンプだと思われていた心臓が、脳と全身の機能だけでなく、人間の感情、認知、行動、反応、能力に決定的な影響を与えていることが科学的に実証されています。
***********

 以上、2つの文献と、身体の各部分から放出されるエネルギー量の感覚測定値(図(https://twitter.com/cncn1549/status/857837920991928320)参照)から、魂(=心)は、主に心臓にいると考えた方が適切だと感じています。

5. 魂と脳と守護霊の考察

守護神さん達から心に働きかける場所が主に下っ腹(丹田)ということは変更がありません。守護神さん達は、守護するときに下っ腹あたりにいらっしゃるということでしょうか。私はそう思っております。
 以上から、守護神が心にも働きかけるとき、また、魂が守護神と相談したいときは、下っ腹に心を集中させたりするのだと思います。脳(器官)と心臓(魂)の連絡は神経細胞が介しているようですが、下っ腹と心臓の間は、両端が魂なので、別の情報伝達手法なのでしょう。

 次に、我々が日常過ごすために行っている、“情報から行動への指令パターン”を考えてみます。

 最も多い“情報から行動への指令パターン”は、外部の状況を体の各器官が察知した情報(音、映像など)を、神経を通って脳に運び、脳で情報処理され、魂の顕在意識に送られるというものでしょう。
 この情報に応じた最適な物理的反応は、守護神たちの魂へのアドバイス(基本は潜在意識に送られるようです)や過去の経験など潜在意識にある情報を、魂が潜在意識から顕在意識へと送り、それから魂が最適な反応を割り出し、脳に命じて、脳が身体の隅々に命じます。これらが、潜在意識のみで行われる場合もあるでしょう(身体の不調に関する対応など)。

 身体の器官・末端の細胞が発する情報は何も外界の音や映像などの5感情報だけではなく、守護神からの働きかけの情報もあるようです。その情報は、身体のすべての部分で受け取ることができ、その情報は魂の潜在意識の領域に伝わることが圧倒的に多いようです。それらを潜在意識から顕在意識に変換する作業を担っているのも魂です。身体の各器官を通して得られた守護神さんからの情報は、一度、潜在意識に情報を運んで、そこで過去の経験などのデータとともに情報処理して顕在意識に運び、そこから脳へ神経で伝達して、身体の器官へと命を下すという方式で身体の動きが制御されていると思います。時間がかかっても正確な行動がとれるのでしょう。

 ただ、潜在意識を介さずに直接に顕在意識に情報が届くのも例外的にあると思います。怖くてドキドキするとか、もう嬉しくて心臓がバクバクするような時は、守護神、魂、他の霊体の身体の細部からの情報が、顕在意識に直接  届けられた場合です。論理的なバックアップがなく、何だか感じるというものです。虫の知らせもこの類だと思います。

 脳を通さずに、守護神や魂は体の各器官へ物理的対応を指示することもあるでしょう。“反射”と言われる反応(これは、熱いものに触れて、すぐに手を離し、その後に熱いと感じる)や“火事場のバカ力”と言われるものがこれらに属するのでしょう。こちらも緊急性が高い時です。

 最後に、心臓死より脳死が先というのは、魂が駆動部である脳のスイッチを切るからでしょう。そして、心臓のスイッチは守護神さん達が切るのです。なんだか悲しくなってきました。

6. 後記

脳も身体の一つの器官ですから、私が感じた身体から放出されるエネルギーが他の器官よりは多いにしても大差なく感じられたのです。これは、頭が一番大きなエネルギーを出していると思っていたので、とても意外でした。ただ、頭は、神経細胞の密度も高く魂と常に、そして、直接連絡を取っていますから、他の器官よりはエネルギー放出量は大きめというのも、整合のとれた論理結果です。しかし、心臓はさらに一桁以上多いエネルギーです。紙の人型を使って、指で感知してみてください。心臓だけは分かる方も多いと思います。

 さらに、これまでの自分の調べてきたことと、感じたことをまとめて思ったのですが、どんな論理的思考も、潜在意識の大きなタンクがなければできないということなのです。思考を司っているのは潜在意識であろうということは、私にとっては驚愕の事実です。なぜならば、日常的に使われる“頭を使う”という表現を疑ったことはなく、信じきっていたからです。
 また、色々な精神障害についても、この考察を通して、2通りがあるのではないかと思い始めました。認知、または他の理由での言語障害は、脳の障害ではないかと。一方、認知でも精神的な病でも、軽度な行動障害(徘徊や摂食等)は脳の障害の域、極度なものは、心の歪みが現れたものではないかと確信に近いものが生まれました。

 顕在意識と脳によって身体の器官を使って魂の情報が体現されるのですが、“守護神>魂>脳”という厳然とした関係があるために、脳は魂を制御できないのです。ただし、外部と魂との通路も脳です。この理屈から行けば、魂を封印する、もしくは攻撃する糸口は、脳です。               (合掌)

追伸)
 ようやくまとまりました。二次近似以上の近似解が得られた気分です。
 今後は、愛情に満ちた優しい正しい行動ができなくなる原因、脳の働きを狂わせることや、魂を弱らせること、守護神を変えてしまうことなどを考えています。 

2017年6月9日金曜日

第1章 ひと組ずつ(元データと判定・解釈・考察と書き換え)

真理のことば 第1章 ひと組ずつ

元データを判定し、解釈・考察を行い、書き換えました。

詩番号 1、2 

***(元データ)*************
1)
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも、汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人に付き従う。
---車をひく(牛)の足跡に車輪がついてゆくように。

2)
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人に付き従う---影がそのからだから離れないように。
***(判定)*************
A

***(コメント)*************
これでひと組、対。
***(書換え詩)*************
そのまま

詩番号 3、4 

***(元データ)*************
3)
彼はわれを罵った。彼はわれを害した。彼はわれにうち勝った。彼はわれから強奪した。」という思いを抱く人には、怨みはついに息むことがない。

4)
彼はわれを罵った。彼はわれを害した。彼はわれにうち勝った。彼はわれから強奪した。」という思いを抱かない人には、ついに怨みが息む。
***(判定)*************
A

***(コメント)*************
これでひと組、対。
***(書換え詩)*************
そのまま


詩番号 5 

***(元データ)*************
5)
実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。
怨みを捨ててこそ息む。これは永遠の真理である。"
***(判定)*************
A

***(コメント)*************
これでひと組。
この詩句は大好きです。
***(書換え詩)*************
そのまま

詩番号 6

***(元データ)*************
6)
「われらは、ここにあって死ぬはずのものである。」と覚悟をしょう。
---このことわりを他の人々は知ってはいない。しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。

***(判定)*************
D

***(コメント)*************
これでひと組。
“死ぬはず”を“死んでいる”としたら、私には理解できます。塵穢れの多いこの三次元社会では、正しく覚醒した人は死人と同様に扱われると認識しなくてはなりません。その結果、この世でのご利益を求めないという精神が必要になります。自分自身で、この世に対して自分は死人同様と思い成せば、つまらない争いに巻き込まれないか、もしくは被害最小限という教えです。争いに巻き込まれるのは、カルマの精算時や試練中は致し方ないですが、主張すべき事ややるべき事は正しい手続きや言葉で行い、その結果には執着しないとなれば、無益な闘争が自分自身に取って静まるのだというのが、この教えの境地だと思われます。
***(書換え詩)*************
6)
「我らは、ここにいながら、なおかつ死んでいるもの。」と覚悟をしょう。
この覚悟を普通の人々は知ってはいない。しかし、{この}覚悟を実践する人は、その人にとって{常住する}争いがしずまるのである。

詩番号 7、8

***(元データ)*************
7)
この世のものを浄らかだと思いなして暮らし、(眼などの)感官を抑制せず、食事の節度を知らず、怠けて勤めない者は、悪魔にうちひしがれる。−−−弱い樹木が風に倒されるように。

8)
この世のものを不浄であると思いなして暮らし、(眼などの)感官をよく抑制し、食事の節度を知り、信念あり、勤めはげむ者は、悪魔にうちひしがれない。−−−岩山が風にゆるがないように。 

***(判定)*************
 D

***(コメント)*************
これでひと組。
7)の“怠けて勤めない”を“怠り怠ける”と置き換える。
8)の“勤め励む”を“怠り怠けない”と置き換える。
***(書換え詩)*************
7)
この世のものを浄らかだと思いなして暮らし、(眼などの)感官を抑制せず、食事の節度を知らず、怠り怠ける者は、悪魔にうちひしがれる。
−−−弱い樹木が風に倒されるように。

8)
この世のものを不浄であると思いなして暮らし、(眼などの)感官をよく抑制し、食事の節度を知り、信念あり、怠り怠けない者は、悪魔にうちひしがれない。
−−−岩山が風にゆるがないように。

詩番号 9、10

***(元データ)*************
9)
けがれた汚物を除いていないのに、黄褐色の法衣をまとおうと欲する人は、自制がなく真実もないのであるから、黄褐色の法衣はふさわしくない。

10)
けがれた汚物を除いていて、戒律を守ることに専念している人は、自制と真実とをそなえているから、黄褐色の法衣をまとうのにふさわしい。 

***(判定)*************
E(後代の付け足しと思われます。)
削除

***(コメント)*************
 法衣を纏う条件ですが、釈尊は法衣を規定したのか疑わしいものです。教団の偽修行僧への注意喚起でしょうか。確かに生きている人から発せられるオーラで一番気持ちいいのは黄色(レモン色、金?)ですよ。だから、黄色の法衣を上位の修行僧が好んだのかしら?もはや、わかりませんが、戒律を守るとか、法衣の規定は、お釈迦様が勧められたとは思えません。お釈迦様の教えが、仏教という宗教へ誘われた時に、教団が付け足した詩文と、私は認識致しましたので削除としました。
 ちなみに、神様が造られた決め事を法(則)とすれば、戒律は神様より下位の存在(含 人間)が作ったものだと考えています。法律は漢字から言っても経験から言っても両者の中間でしょうか。苦しいところですが、社会人としては守らないと、社会が成り立たないという感じですね。
***(書換え詩)*************
 9)削除
10)削除

詩番号 11、 12

***(元データ)*************
11)
まことではないものを、まことであると見なし、まことであるものを、まことではないと見なす人々は、あやまった思いにとらわれて、ついに真実(まこと)に達しない。
12)
まことであるものを、まことであると知り、まことではないものを、まことではないと見なす人は、正しい思いにしたがって、ついに真実に達する。

***(判定)*************
A

***(コメント)*************
その通りです。敬礼!
法句経(玄奘三蔵さんの訳)では、“まこと”は“真利”となっているそうです。漢訳の字は、なかなかイキで、実感しやすいです。
ただ、中村氏は“まこと”を選んだので、それに沿わせていただきます。
***(書換え詩)*************
そのまま

詩番号 13 、14

***(元データ)*************
13)
屋根を粗雑に葺いてある家には雨が漏れ入るように、心を修養していないならば、情欲が心に侵入する。
14)
屋根をよく葺いてある家には雨の漏れ入ることがないように、心をよく修養してあるならば、情欲の侵入することがない。 

***(判定)*************
B

***(コメント)*************
 法句経では、“心”は“意”、“情欲”は“淫泆”と記してあるそうです。
情欲には、“異性の肉体に対する欲望”と“物をむさぼりそれに執着する心(仏教)”があるそうですが、三蔵法師様は、仏教的な意味ではなく、色情欲に特化して書かれている詩句と捉えたようです。私もそちらの方が曖昧にならなくていいと思います。色欲の過ちほど、重大な結果をもたらし、次元すら超えてしまうと感じるのです。食欲や名誉欲、金銭欲は、三次元的な範囲で収まる感じがしています。
 現在は、性的な交わりが比較的解放されていますが、それで苦しむのは、ご自身なのです。簡単に考えず、淫欲の交わりを実際には行わないということは、大切な自分を守ることなんだと思います。もっとも優先的に慎むべき欲は色欲ではないかと思います。次が名誉欲、金銭欲、食欲かな?!
***(書換え詩)*************
13)
屋根を粗雑に葺いてある家には雨が漏れ入るように、心を修養していないならば、色欲が心に侵入する。
14)
屋根をよく葺いてある家には雨の漏れ入ることがないように、心をよく修養してあるならば、色欲の侵入することがない。 

詩番号 15、16、17、18

***(元データ)*************
15)
悪いことをした人は、この世で憂え、来世でも憂え、ふたつのところで共に憂える。
彼は自分の行為が汚れているのを見て、憂え、悩む。

17)
善いことをした人は、この世で喜び、来世でも喜び、ふたつのところで共に喜ぶ。
彼は自分の行為が浄らかなのを見て、喜び、楽しむ。

18)
悪いことをなす者は、この世で悔いに悩み、来世でも悔いに悩み、ふたつのところで悔いに悩む。
「私は悪いことをしました。」といって悔いに悩み、苦難のところ(地獄など)におもむいて(罪のむくいを受けて)さらに悩む。

17)善いことをなす者は、この世で歓喜し、来世でも歓喜し、ふたつのところで共に歓喜する。
「私は善いことをしました。」といって歓喜し、幸あるところ(天の世界)におもむいて、さらに喜ぶ。

***(判定)*************
15)〜18)D 削除

***(コメント)*************
 お釈迦様は、来世を幸せに過ごすために仏法を説かれたのではありません。これが諸宗教の諸悪の根源;オネダリ信仰なのですよ!
 お釈迦様は、今が大切、今の心(意識)を整える方法、そして神様が創られた、そして神様の一部でもある、法(則)を、塵穢れに満ちた三次元を生きている人間に伝授されに、この世にいらしたのです。法というものは、人間にとって遠く離れたものではなく、正しく話を聞けば何となくでも理解できるものなのです。なぜなら、人間も法の一部だからです。それに対して、来世とか苦難のところとか、幸あるところという曖昧な言葉で連想される世界は、理解と言うより想像しかできないのです。曖昧な世界の描出、来世へのオネダリ系の詩句は削除します。
***(書換え詩)*************
15)〜18)削除

詩番号 19、20

***(元データ)*************
19)
たとえためになることを数多く語るにしても、それを実行しないならば、その人は怠っているのである。
---牛飼いが他人の牛を数えているように、かれは修行者の部類には入らない。 

20)
たとえためになることを少ししか語らないにしても、理法にしたがって実践し、情欲と怒りと迷妄を捨てて、正しく気をつけていて、心が解脱して、執着することの無い人は、修行者の部類に入る。
***(判定)*************
B

***(コメント)*************
この対詩は、修行者(覚醒者としても良い)の真偽の見分け方を教えています。
「牛」は、修行者の教えを聞き正しく生きようとする人間のこと。本当の在家信者と言うべき人たちのことだと思います。
「牛飼い」は修行者もしくは偽修行者。実行を伴わない偽修行者には、実は本当の在家信者はいない、彼らは、自分の信者だと思っていても、実は本当の在家信者は別のきちんとした修行者に導かれているのです!という意味でで解釈しました。
***(書換え詩)*************
19)
たとえためになることを数多く語るにしても、それを実行しないならば、その人は怠っているのである。
---牛飼いが他人の牛を数えているように、かれは偽修行者である。 

20)
たとえためになることを少ししか語らないにしても、理法にしたがって実践し、情欲と怒りと迷妄を捨てて、正しく気をつけていて、心が解脱して、執着することの無い人は、修行者である。

2017年5月31日水曜日

第2章 はげみ(元データと判定・解釈・考察と書き換え)

詩番号 21、22

***(元データ)*************
21)
つとめ励むのは不死の境地である。怠りなまけるのは死の境涯である。
つとめ励む人々は死ぬことがない。怠りなまける人々は、死者のごとくである。

22)
このことをはっきりと知って、つとめはげみを能(よ)く知る人々は、つとめはげみを喜び、聖者たちの境地を楽しむ。

***(判定)*************
D

***(コメント)*************
“つとめ励む”を“怠らない”に置き換える。
仏教独特の壮大な(まやかし的な)生死感ではなく、生きていても、明るく生き生きしているか、もしくは、ゾンビのようかといった感じの死や死者という捉え方でいいのでしょう。

***(書換え詩)*************
21)
怠らないことは、明るく生き生きとした生活に通じる。怠りなまけることは、ゾンビに通じる。
怠らない人々は明るく生き生きとしている。怠りなまける人々はゾンビのごとくである。

23)
このようにはっきりと知って、怠らないことをよく知る人々は、怠らないことを喜び、聖者たちの明るく生き生きした生活を楽しむ。


詩番号 23、24

***(元データ)*************
23)
(道に)思いをこらし、堪え忍ぶことつよく、つねに健(たけ)く奮励する、思慮ある人々は、安らぎに達する。
これは無上の幸せである。

24)
こころはふるいたち、思いつつましく、行いは清く、気をつけて行動し、みずから制し、法(のり)にしたがって生き、つとめ励む人は、名声が高まる。

***(判定)*************
D

***(コメント)*************
 安らぎは涅槃(ニルヴァーナ)と訳されますが、現在の仏教では、これは現世での富裕や生活の安定までも含まれているかのような教えになっています。
 しかし、これは、罪穢れだらけの現在の現世を正しく教えていません。実際は、現世での富裕や生活の安定は、罪穢れを溜めることによって得られるような場合が非常に多いのです。
 もちろん非常に少数派ではあるが、正しく光の道を歩んで裕福な人たちやしかるべき地位についている人たちもいるのですが、それは現世に光の仕組みを残すためであって、彼らが有り余るほど、桁違いに財産や権限を持つなどはありません。また、罪穢れが少ない人々は、この世の中の最下層に置かれることが圧倒的に多いですが、しかし、そのような人々は、暗くジトジトと人生を送っていることもまずありません。
 以上のような現状を鑑みて、23)と24)の詩を書き変えました。

***(書換え詩)*************
23)
これは(自分の歩んでいる道は)光へ通じる道であるか、絶えず考え、忍耐強く、健やか(合理的)な努力を怠らない。そのような思慮深い人々は、煩悩や穢れが一切消失する。これが無上の幸せである。

24)
怠らないことにより心が奮起し、思いつつましく、行いは清く、気をつけて行動し、みずから制し、法(のり)にしたがって生きる人は、名声が高まる。


詩番号 25

***(元データ)*************
25)
思慮ある人は、奮い立ち、つとめ励み、自制・克己によって、激流も押し流すことのできない島をつくれ。

***(判定)*************
D

***(コメント)*************
【克己;こっき】自分の欲望や邪念にうちかつこと。
「〜することによって‥‥する」の順序を、(私の経験を考えて)矛盾ないように入れ替えました。

***(書換え詩)*************
25)
思慮ある人は、怠らないことで得られる自制心と勇気により、克己し(自己の欲望や邪念に打ち勝ち)、激流も押し流すことのできない島(自己の拠り所)を作れ。


詩番号 26、27

***(元データ)*************
26)
智慧乏しき愚かな人々は放逸にふける。
しかし心ある人は、最上の財宝(たから)をまもるように、つとめ励むのをまもる。

27)
放逸にふけるな。愛欲と歓楽に親しむな。おこたることなく思念をこらす者は、大いなる楽しみを得る。

***(判定)*************
D

***(コメント)*************
【克己;こっき】自分の欲望や邪念にうちかつこと。
「〜することによって‥‥する」の順序を矛盾ないように入れ替えました。

***(書換え詩)*************
26)
智慧乏しき愚かな人々は怠り怠ける。しかし、心ある人は、怠らないことを最上の宝として生活をする。

27)
怠るな。愛欲と歓楽に親しむな。さらに正しく思念をこらす者は、大いなる楽しみを得る。

詩番号28、29、30 


***(元データ)*************
28)
賢者が精励修行によって怠惰を退けるときには、智慧の高閣(たかどの)に登り、自らは憂い無くして(他の)憂いある愚人どもを見下ろす。
____山上にいる人が地上の人々を見下ろすように。

29)
怠りなまけている人々の中で、ひとりつとめはげみ、眠っている人々の中で、ひとりよく目覚めている思慮ある人は、疾くはしる馬が、足のろの馬を抜いて駆けるようなものである。

30)
マガヴァー(インドラ神)は、つとめ励んだので、神々の中での最高の者となった。
つとめはげむことを人々はほめたたえる。放逸なることは常に非難される。 

***(判定)*************
D

***(コメント)*************
“精励修行”や“つとめ励む”は使わず、“怠り怠けない”という言い方か、削除をしました。

“山上にいる人が地上の人々を見下ろすように(28)”や“疾くはしる馬が、足のろの馬を抜いて駆けるようなものである(29)”のような比喩は、実際にお釈迦様が仰ったのか、後代の付け足しか悩ましいのですが、比喩は、表現に光るものが多いので、私としてはお釈迦様のお言葉の場合が多いのではないかと思っています。

詩30について。具体的な神様のお名前については、誰でも仏道の修行半ばの人が認識できないようです。神様の名前は後から付いてくるという意見がありますが、私も賛成です。今の私では、“マガヴァー(インドラ神)”を認識できません。でも、削除するほど自信もないので、記述を残します。



***(書換え詩)*************
28)
人は怠惰を退ける修行により、智慧を得て、憂いをなくす。
山上にいる人が地上の人々を見下ろすように、その人は憂いを持つ他の多くの人々を、自分とは異なると、はっきりと見極める。

29)
怠りなまけている人々の中で、たとえ一人でも怠り怠けなければ、その人は、眠っている人々の中で、ひとりよく目覚めている思慮ある人となる。
疾く走る馬が、足のろの馬を抜いて駆けるようなものである。

30)
怠り怠けない事は常に褒め称えられる。放逸なることは常に非難される。
マガヴァー(インドラ神)は、怠り怠けなかったので、神々の中での最高の者となった。

詩番号 31、32 


***(元データ)*************
31)いそしむことを楽しみ放逸に恐れをいだく修行僧は、微細なものでも粗大なものでも全て心のわずらいを、焼きつくしながら歩む
____燃える火のように。


32)いそしむことを楽しみ、放逸に恐れをいだく修行僧は、堕落するはずはなく、すでにニルヴァーナの近くにいる。


***(判定)*************
D

***(コメント)*************
“はげみ”の章では、“怠らない”という修行によって得られるものは、
“楽しみ”、“安らぎ”、“憂ない境地”、“智慧”
だとおしゃっていると思います。
“怠らないという修行”は、思っているだけでダメで、実践してこそです。人間が怠ってはいけないものとは、日頃の生活で優先順位が高く、回避するとまずい仕事から、生まれながらに持つ自分の勤めや課題です。後者は思い出すまでが大変ですが、前者を不怠惰で正しくこなせば、後者は自ずと思い出されてきます。それらを、粛々と続けるのですからきついに決まっています。それで、人間は脇道にそれてしまうのです。時間を本来の自分が使うべき課題に使わないのであれば、力量的にも気分的にも楽なのですから。そんな人間の癖を指摘して諌めているのが、この“はげみ”の表す不怠惰の教えなのです。
さらにこの二つの詩は、怠らない修行の奨励の一歩先、「“いやいや”ではなく、“楽しむ”という気持ちを持って臨みなさい」と教えてらっしゃるのです。同じ仕事でも、嫌々やるのと、自分に与えられた仕事を嬉しい気持ちで取り組むのでは、周囲に与える影響が違うものです。周囲に与える影響まで責任を持つには、不怠惰の修行を楽しみ喜びながらすればいいということを教えてくださっています。
繰り返しますが、この二つの詩は不怠惰の修行の一歩先ですが、心に留めておいてもらえると私も嬉しいです。

***(書換え詩)*************
31)
怠り怠けない生活を楽しく嬉しく実践する人は、微細なものでも粗大なものでも心のわずらいを、焼きつくしながら生活する。

32)
怠り怠けない生活を楽しく嬉しく実践する人は、堕落するはずはなく、すでに安らぎ(ニルヴァーナ)の近くにいる。


“はげみ”の章の後記

励むという積極的な意味合いではなく、不怠惰(怠り怠けない)という意味で書き換えが必要でした。
 この章名は、結局は“不怠惰”と書き直す必要がありそうです。両者は同じと言えば同じとも言えるのですが、励むには、見返りや結果が付いて来て意味が完結しがちですし、積極的に苦行をすることにつながりがちです。“生まれながらに持つ自分の勤めや課題”は、一般に言われる苦行であることは、まずありません。一般に言われる苦行は、生まれながらに持つ自分の勤めや課題に対して脇道的な場合が多いのです。
 生活のための賃金労働は、生まれながらに持つ自分の勤めや課題に沿ったものが多いのですが、自己実現などを謳う賃金労働はこの脇道の場合が多いのです。自分の置かれている状況に目を向けて、じっくりと考えるという作業は苦しいものですが、それこそ不怠惰の境地で臨み、そこから適切な実践をしていくのが、本来、人間として命を頂いた目的であることを考えさせられました。

 また、怠り怠けない実践時は、イヤイヤだったりするものです。私は、半強制のボランティア活動なんてイヤイヤの境地でした。しかし、ここは一丁、やってやるか!と気合を入れると、周りから助け船も出てきます。そして、周りも元気になります。まあ、イヤイヤだって仕方ないんですよ、初めはそんなものだし、時期によってもそうなったりします。その時に、「今は仕方ないかもしれないけれど、本当は明るい心で取り組める方がベターなのよ!」って心に話しかけてあげてくださいね。
           2017.6.2 月夜の龍