2017年11月24日金曜日

第4章 花にちなんで(元データと判定・解釈・考察と書き換え)2018/1/17 訂正

訂正履歴 
 2018/1/17訂正版(若干)
 2018/7/10訂正版(若干)

 これまでは、覚醒者と修行者を同等に扱いましたが、今後は、分別することにしました。何故ならば、覚醒者になるために修行している人が修行者と考える方が自然だと考えたからです。

 私は、覚醒者とは、お釈迦様のおっしゃる“目覚めた人、真人、ブッダ”ということだと認識しています。

 正しい真理を知って、うずく心を鎮め、護り、制す(治め)れば、信念が汚れることがなくなります(第3章 心 詩35、36で記述)。それと同時に、努力して、行いをその心に伴わせます。このステップを繰り返す(これが修行)ことにより、その人の行動規範が、“怠らずに励む”→“努め励む”→“学び努める”へとステップアップしていきます(詩番号44、45のコメント参照)。私の経験では、これにより、自然と善悪の計らいがなくなり始め、何も恐れることがなくなり始めます。この境地の究極にたどり着いた人が、目覚めた人(覚醒者)なのだと考えています。

 この章の“花”は、真理(真利善的)のこともあるし、五欲の対象の場合(悪的)もあります。“美”を1つ取っても、光からのものか、または、闇からのものか、なかなか見分けがつかない時ってあるじゃないですか?この章では、対象的なものを花と置き換えているのが、見事だと思います。ちなみに、五欲とは、コトバンクで調べると、「形体のある物質 (色) ,音声 (声) ,香り (香) ,味,触れてわかるもの (触) 」だそうです。


詩番号 44、45 

***(元データ)*************
44)
 だれがこの大地を征服するであろうか?
 だれが閻魔の世界と神々とともなるこの世界とを征服するであろうか?
 わざに巧みな人が花を摘むように、善く説かれた真理のことばを摘み集めるのはだれであろうか?
45)
 学びにつとめる人こそ、この大地を征服し、閻魔の世界と神々とともなるこの世界とを征服するであろう。
 わざに巧みな人が花を摘むように、学びつとめる人々こそ善く説かれた真理のことばを摘み集めるであろう。
***(判定)*************
A 
***(コメント)*************
 44)での問いかけに対する答えが45)です。

 “学びつとめる”は“学び努める”となると考えます。第二章「はげみ」で考察した“怠らずに励む”という土台が出来ていて、“学び努める”に移行すると考えています。発達には順序が大切です。いきなり“学び努める”から始めると、壁が高すぎて、逆に悪影響です。そういう意味では、
“怠らずに励む”→“努め励む”→“学び努める”
という感じで、人も向上に合わせて、表現を変えないといけないのだと思います。

 (番外編1)ちなみに、初めから高い目標を掲げさせて、人を壊すというのは、悪魔の常套手段です。自分の置かれた場所、やらなければならない事とやりたい事を区別し、冷静に見分けて分相応に対応しないと、悪魔の思う壺です。でも、これは結構難しいので、最初は、過小評価から始めて、徐々に上げて行き、自分の位置を見つけることによって、自分の立ち位置を自分で判断するのです。ですから、時間が必要で、焦りは禁物です。対象が大人であれば、自分でやって周囲の人たちに意見をもらうのですが、対象が子供であれば、親が見極めて本人に納得させる必要があります。このチェックポイントは意外にも重要です。ここで、間違えさせられて、悪魔にやられてしまう人が多いのです。しかし、私は状況も悪いので仕方もないと思っています(自分も子供もだいぶやられてきて、お手本にはなり得ないのです。)。アセンションではかなり是正されると思われます。ちなみに、今のステップが収まってきたら、次のステップに行ける勇気があるかも大切です。

 中村氏の注釈では、“大地”とは“自己”という見解もあると紹介されています。私はこの解釈で良いと思います。換言した“自己を征服する”というのは、「心を治める(鎮め、護り、制する)」と「行いを伴わせる」のステップを繰り返し、最低でも“学び務める”に到達していることが必要ではないかと解釈します。

 “閻魔の世界と神々とともなるこの世界”は、三千世界(あの世もこの世も全てミックス)の事だと思います。これを征服するとはスケールが大きすぎるのでしょうが、“学び努める”ところまで到達することによって、世の中の見え方が変わり、今は見えないものが見えるようになるとおっしゃりたいのだと思います。ちなみに、三次元のこの世界は時間は超えられませんが、色々な霊格の存在が行き交う擬似の三千世界かなと、個人的には捉えています。

 (番外編2)学ぶという言葉は、なかなか広い意味があります。普通に生きていくために生活する中で得られる経験により得られる知識や体験、技術なども学ぶに入れるのが主流です。それは否定できません。その上、さらに自分の意思でプラスαする部分も学ぶと言われています。後者の“学ぶ”が学問でしょう。普通に生きていく中で、人として正しく生きることができていることは非常に大切で、その土台がしっかりした人の“学問的学ぶ”を、この詩では求めているのだと思います。この土台がない人が、“学問的学ぶ”を行っても、閻魔の世界の住人に、てい良く使われてしまうだけです。
***(書換え詩)*************
44)
 書き換え不要
45)
 書き換え不要


詩番号 46 

***(元データ)*************
46)
 この身は泡沫のごとくであると知り、かげろうのようなはかない本性のものであると、さとったならば、悪魔の花の矢を断ち切って、死王に見られないところへ行くであろう。
***(判定)*************
D 
***(コメント)*************
 死王=悪魔とします。この身ははかないと知っている人はたくさんいるでしょう。これだけでは、自動的に悪魔の花の矢を断ち切って死王の見られないところへは行けないのは自明。ちょっと書き換えて、しっくりさせました。庶民や修行者への戒めでしょう。
 心を守るものが体。心と体とDNAを合わせたものが魂と考えています。
 “悪魔の花の矢”は五欲と考えて良いでしょう。
***(書換え詩)*************
46)
 この身は泡沫のごとくであると知り、かげろうのようなはかない本性のものであると、さとったならば、悪魔の花の矢を断ち切って、死王に見られないところへ行くよう心がけるべき。


詩番号 47 、48

***(元データ)*************
47)
 花を摘むのに夢中になっている人を、死がさらって行くように、眠っている村を、洪水が押し流して行くように。
48)
 花を摘むのに夢中になっている人が、未だ望みを果たさないうちに、死に神が彼を征服する。
***(判定)*************
B
***(コメント)*************
 庶民や修行者への戒めの詩です。
 この2つの詩の“花”は、“悪魔の花の矢”は五欲です。
 言葉尻を変えて、合体しましょう。
***(書換え詩)*************
 花を摘むのに夢中になっている人を、死がさらって行き、眠っている村を、洪水が押し流す。花を摘むのに夢中になっている人が、未だ望みを果たさないうちに、死神(悪魔)が彼を征服する。


詩番号 49 

***(元データ)*************
49)
 蜜蜂は(花の)色香を害(そこなわず)に、汁をとって、花から飛び去る。
 聖者が村に行くときは、そのようにせよ。
***(判定)*************
B
***(コメント)*************
 聖者は、覚醒者に当たるとも解釈できます。しかし、もはや覚醒者はこの教えを必要としないでしょう。ですから、聖者ではなく修行者へと記述を変更しました。修行者への戒めの詩です。この過ちは、実に犯しやすいです。
***(書換え詩)*************
49)
 蜜蜂は(花の)色香を害(そこなわず)に、汁をとって、花から飛び去る。
 修行者が村に行くときは、そのようにせよ。


詩番号 50 

***(元データ)*************
50)
 他人の過失を見るなかれ。他人のしたこととしなかったことを見るな。
 ただ自分のしたこととしなかったことだけを見よ。
***(判定)*************
D
***(コメント)*************
 他人は、先生ですから、良く観察しないとです。その上で、過失を責め立ててはいけないと言うことです。きっと、お釈迦様がおっしゃりたかったのは、下の書き換え詩だと思います。常識的にしました。
***(書換え詩)*************
50)
 他人のした事としなかった事を鑑みて、他人の過失を責めず、ただ学べ。
 自分のした事 としなかった事を省み、自己の過失は改よ。


詩番号 51 、52

***(元データ)*************
51)
 うるわしく、あでやかに咲く花でも、香りの無いものがあるように、善く説かれたことばでも、それを実行しない人には実りがない。

52)
 うるわしく、あでやかに咲く花で、しかも香りのあるものがあるように、善く説かれたことばも、それを実行する人には、実りがある。
***(判定)*************
A
***(コメント)*************
 真理のことばを生かすも殺すも、個々の人間の実行次第ということです。
***(書換え詩)*************
書き換え不要


詩番号 53 

***(元データ)*************
53)
 うず高い花を集めて多くの華鬘(はなかざり)をつくるように、人として生まれまた死ぬべきであるならば、多くの善いことをなせ。
***(判定)*************
A
***(コメント)*************
 その通りです。ちなみに、人として生まれてまたすぬべきであるならば、最低条件は悪いことをしないことです。
***(書換え詩)*************
書き換え不要


詩番号 54、55、56 

***(元データ)*************
54)
 花の香りは風に逆らっては進んで行かない。栴檀(せんだん)もタガラの花もジャスミンもみなそうである。
 しかし徳のある人の香りは、風に逆らっても進んで行く。徳のある人はすべての方向に薫る。

55)
 栴檀、タガラ、青蓮華、ヴァッシキー____これら香りのあるものどものうちでも、徳行の香りこそ最上である。

56)
 タガラ、栴檀の香りは微かであって、大したことはない。しかし徳行のある人々の香りは最上であって、天の神々にもとどく。
***(判定)*************
A
***(コメント)*************
 香りで嗅ぎ分けるのが大切なんですね。日月神示には、鼻と額での判断が正しいと書いてありました。私はその2つに気をつけていますが、まだ、実感はできていません。何となく霊格の高い人間が近くに来ると、子供の頃は私は心がソワソワしました。香りというか、強いて言えば、エネルギー波動が私の心に伝搬する感じです。オバマ元大統領は、TVでしか拝見してませんが、その一番の例です。
***(書換え詩)*************
書き換え不要


詩番号 57 

***(元データ)*************
57)
 徳行を完成し、つとめはげんで生活し、正しい智慧によって解脱した人々には、悪魔も近づくによし無し。
***(判定)*************
A
***(コメント)*************
 それでも、頑張って嫌がらせを画策するのが、連中の技だと思われますが、これは三次元の話でしょう。まだ、この詩の域まで到達してないので、私にはよくわかりませんが、三千世界ではきっと本当なんだと思います。
***(書換え詩)*************
書き換え不要


詩番号 58、59 

***(元データ)*************
58)
 大道に捨てられた塵芥(ちりあくた)の山堆(やまずみ)の中から香しく麗しい蓮華が生ずるように。

59)
 塵芥にも似た盲(めしい)た凡夫のあいだにあって、正しくめざめた人(ブッダ)の弟子は智慧をもって輝く。

***(判定)*************
B
***(コメント)*************
2つの対詩の関係を、構築し直し合体します。
***(書換え詩)*************
58)+59)
 大道に捨てられた塵芥(ちりあくた)の山堆(やまずみ)の中から香しく麗しい蓮華が生じたなら輝くように、塵芥にも似た盲(めしい)た凡夫のあいだにあって、正しくめざめた人(ブッダ)の弟子は智慧をもって蓮華のように輝く。


 
                   第4章 終わり

2017年11月20日月曜日

第3, 4章 心, 花にちなんで 書換え詩一覧 その2

訂正履歴
① 2017/11/20現在 → 2018/1/17訂正版


“真理のことば”の書換え詩一覧その1(第1章、第2章)へ、「(32)[26]怠り怠けない生活を楽しく嬉しく実践する人は、堕落するはずはなく、すでに安らぎ(ニルヴァーナ)の近くにいる。」を移す。(180605)


真理のことば 第3章  心、第4章  花にちなんで


書換え詩一覧 その2

()は中村元氏の詩番号、 [  ]は残した詩のシリアル番号

第3章 心

(33)[27]
 心は動揺し、ざわめき、護り難く、制し難い。
 修行(覚醒)者は、心を鎮め、護り、制す。そして、心を治める。 
(34)[28]
 多くの人の心は、水の中の すみか から引き出されて陸「おか」の上に投げ捨てられた魚のように、悪魔の支配から逃れようともがきまわる。しかし、やがて、力尽き悪魔の軍門に屈する。 
(35)[29]
 心は、捉え難く、軽々(かろがろ)とざわめき、欲するがままにおもむくところがある。その心を、正しく治めることは良いことである。
 心を正しく治めれば、安楽が得られる。
(36)[30]
 心は、極めて見難く 極めて微妙な部分と、欲するがままにおもむく部分がある。悪魔が、これらの心を狙って支配する。
 心を悪魔から守らなければ、安楽は得られない。
(37)[31]
 心は独りで動きまわり、遠くに行ってしまう部分がある。また、形体なく、胸の奥の洞窟(心臓)にひそんでいる部分もある。これら心を治める人々は、死の束縛から逃れるであろう。 
(38)[32]
 正しい真理を知らず、信念が汚されたならば、心の安楽(安住)は得られず、よって、さとりの智慧は湧いてこない。
(39)[33]
 心が煩悩に汚されず、念いが乱れずに、善悪のはからいを捨てるに至った覚醒者は、何も恐れることが無い。 
(40)+(41)[34]
 ああ、この身はまもなく地上によこたわるであろう。守っていた心は抜けてしまい、水瓶の破片のように、無用になる。
 この身体は、この水瓶のように脆いものだと知って、身体への執着を離れよ。そして、心を堅固に安立して、智慧の武器をもって、心で悪魔と戦え。勝ち得たものを執着することなく守れ。
(42)[35]
 憎む人が憎む人にたいし、怨む人が怨む人にたいして、どのようなことをしょうとも、邪なことをめざしている心はそれよりもひどいことをする。 
(43)[36]
 母も父もその他親族がしてくれるよりもさらに優れたことを、正しく向けられた心がしてくれる。
(第3章終わり)

第4章 花にちなんで

(44)[37]
 だれがこの大地を征服するであろうか?
 だれが閻魔の世界と神々とともなるこの世界とを征服するであろうか?
 わざに巧みな人が花を摘むように、善く説かれた真理のことばを摘み集めるのはだれであろうか?

(45)[38]
 学びにつとめる人こそ、この大地を征服し、閻魔の世界と神々とともなるこの世界とを征服するであろう。
 わざに巧みな人が花を摘むように、学びつとめる人々こそ善く説かれた真理のことばを摘み集めるであろう。
(46)[39]
 この身は泡沫のごとくであると知り、かげろうのようなはかない本性のものであると、さとったならば、悪魔の花の矢を断ち切って、死王に見られないところへ行くよう心がけるべきである。
(47)+(48)[40]
 花を摘むのに夢中になっている人を、死がさらって行き、眠っている村を、洪水が押し流す。花を摘むのに夢中になっている人が、未だ望みを果たさないうちに、死神(悪魔)が彼を征服する。
(49)[41]
 蜜蜂は(花の)色香を害(そこなわず)に、汁をとって、花から飛び去る。
 修行者が村に行くときは、そのようにせよ。
(50)[42]
 他人のした事としなかった事を鑑みて、他人の過失を責めず、ただ学べ。
 自分のした事 としなかった事を省み、自己の過失は改よ。
(51)[43]
 うるわしく、あでやかに咲く花でも、香りの無いものがあるように、善く説かれたことばでも、それを実行しない人には実りがない。
(52)[44]
 うるわしく、あでやかに咲く花で、しかも香りのあるものがあるように、善く説かれたことばも、それを実行する人には、実りがある。
(53)[45]
 うず高い花を集めて多くの華鬘(はなかざり)をつくるように、人として生まれまた死ぬべきであるならば、多くの善いことをなせ。
(54)[46]
 花の香りは風に逆らっては進んで行かない。栴檀(せんだん)もタガラの花もジャスミンもみなそうである。
 しかし徳のある人の香りは、風に逆らっても進んで行く。徳のある人はすべての方向に薫る。
(55)[47]
 栴檀、タガラ、青蓮華、ヴァッシキー____これら香りのあるものどものうちでも、徳行の香りこそ最上である。
(56)[48]
 タガラ、栴檀の香りは微かであって、大したことはない。しかし徳行のある人々の香りは最上であって、天の神々にもとどく。
(57)[49]
 徳行を完成し、つとめはげんで生活し、正しい智慧によって解脱した人々には、悪魔も近づくによし無し。
(58)+(59)[50] 
 大道に捨てられた塵芥(ちりあくた)の山堆(やまずみ)の中から香しく麗しい蓮華が生じたなら輝くように、塵芥にも似た盲(めしい)た凡夫のあいだにあって、正しくめざめた人(ブッダ)の弟子は智慧をもって蓮華のように輝く。
 (第4章終わり)


第1, 2章 ひと組ずつ, はげみ 書換え詩一覧 その1

訂正履歴
“真理のことば”の書換え詩一覧その2(第3章、第4章)から、「(32)[26]怠り怠けない生活を楽しく嬉しく実践する人は、堕落するはずはなく、すでに安らぎ(ニルヴァーナ)の近くにいる。」を移す。(180605)


真理のことば 第1章 ひと組ずつ、第2章 はげみ

書換え詩一覧 その1

()は中村元氏の詩番号、 [  ]は残した詩のシリアル番号

第1章 ひと組ずつ

(1)[1]
 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
 もしも、汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人に付き従う。
---車をひく(牛)の足跡に車輪がついてゆくように。
(2)[2]
 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
 もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人に付き従う---影がその身体から離れないように。
(3)[3]
「彼はわれを罵った。彼はわれを害した。彼はわれにうち勝った。彼はわれから強奪した。」という思いを抱く人には、怨みはついに息むことがない。
(4)[4]
「彼はわれを罵った。彼はわれを害した。彼はわれにうち勝った。彼はわれから強奪した。」という思いを抱かない人には、ついに怨みが息む。
(5)[5]
 実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。
怨みを捨ててこそ息む。これは永遠の真理である。"
(6)[6]
「我らは、ここにいながら、なおかつ死んでいるもの。」と覚悟をしょう。
 この覚悟を普通の人々は知ってはいない。しかし、この覚悟を実践する人は、常住する争いが、その人にとって鎮(しず)まる。
(7)[7]
 この世のものを浄らかだと思いなして暮らし、(眼などの)感官を抑制せず、食事の節度を知らず、怠り怠ける者は、悪魔にうちひしがれる。−−−弱い樹木が風に倒されるように。
(8)[8]
 この世のものを不浄であると思いなして暮らし、(眼などの)感官をよく抑制し、食事の節度を知り、信念あり、怠り怠けない者は、悪魔にうちひしがれない。−−−岩山が風にゆるがないように。

(9) ~ (10) 削除


(11)[9]
 まことではないものを、まことであると見なし、まことであるものを、まことではないと見なす人々は、あやまった思いにとらわれて、ついに真実(まこと)に達しない。
(12)[10]

 まことであるものを、まことであると知り、まことではないものを、まことではないと見なす人は、正しい思いにしたがって、ついに真実に達する。
(13)[11]

 屋根を粗雑に葺いてある家には雨が漏れ入るように、心を修養していないならば、色欲が心に侵入する。
(14)[12]

 屋根をよく葺いてある家には雨の漏れ入ることがないように、心をよく修養してあるならば、色欲の侵入することがない。 

(15) ~ (18) 削除

(19)[13]
 たとえ、為(ため)になる事を数多く語るにしても、それを実行しないならば、その人は怠っているのである。かれは偽修行(覚醒)者である。 
(20)[14]
 たとえ、為(ため)になる事を少ししか語らないにしても、理法にしたがって実践し、情欲と怒りと迷妄を捨てて、正しく気をつけていて、心が解脱して、執着することの無い人は、修行(覚醒)者である。   (第1章 終わり)


第2章 不怠惰 

(21)[15]
 怠らないことは、明るく生き生きとした生活に通じる。怠りなまけることは、ゾンビに通じる。
 怠らない人々は明るく生き生きとしている。怠りなまける人々はゾンビのごとくである。
(22)[16]
 このようにはっきりと知って、怠らないことをよく知る人々は、怠らないことを喜び、聖者たちの明るく生き生きした生活を楽しむ。
(23)[17]
 これは(自分の歩んでいる道は)光へ通じる道であるか、絶えず考え、忍耐強く、健やか(合理的)な努力を怠らない。そのような思慮深い人々は、煩悩や穢れが一切消失する。これが無上の幸せである。
(24)[18]
 怠らないことにより心が奮起し、思いつつましく、行いは清く、気をつけて行動し、みずから制し、法(のり)にしたがって生きる人は、名声が高まる。
(25)[19]
 思慮ある人は、怠らないことで得られる自制心と勇気により、克己し(自己の欲望や邪念に打ち勝ち)、激流も押し流すことのできない島(自己の拠り所)を作れ。
(26)[20]
 智慧乏しき愚かな人々は怠り怠ける。しかし、心ある人は、怠らないことを最上の宝として生活をする。

(27)[21]
 怠るな。愛欲と歓楽に親しむな。さらに正しく思念をこらす者は、大いなる楽しみを得る。
(28)[22]
 人は怠惰を退ける修行により、智慧を得て、憂いをなくす。
 山上にいる人が地上の人々を見下ろすように、その人は憂いを持つ他の多くの人々を、自分とは異なると、はっきりと見極める。
(29)[23]
 怠りなまけている人々の中で、たとえ一人でも怠り怠けなければ、その人は、眠っている人々の中で、ひとりよく目覚めている思慮ある人となる。
 疾く走る馬が、足のろの馬を抜いて駆けるようなものである。
(30)[24]
 怠り怠けない事は常に褒め称えられる。放逸なることは常に非難される。
 マガヴァー(インドラ神)は、怠り怠けなかったので、神々の中での最高の者となった。
(31)[25]
 怠り怠けない生活を楽しく嬉しく実践する人は、微細なものでも粗大なものでも心のわずらいを、焼きつくしながら生活する。   
(32)[26]
 怠り怠けない生活を楽しく嬉しく実践する人は、堕落するはずはなく、すでに安らぎ(ニルヴァーナ)の近くにいる。
(第2章 終わり)