2021年4月7日水曜日

付録5  心の汚れ リプレイス版

https://newbuddhawords.blogspot.com/2021/04/ver1-2-3.htmlを書き進めた完成形です。

 (1) 汚れと煩悩

1 煩悩

 煩悩とは、漢字の原意は、心と頭(悩のへんとつくり)の特に頭を焼く(害する)ものです。つまり、煩悩は 心と脳を 害するものですが 特に脳を中心に分布し害を及ぼすもの(火)と言ったところです。仏教では、煩悩は、身心を乱し悩ませ智慧 を妨げる心の働きとされ、三毒、浄土宗の根本煩悩(6分類)、十毒、108 の煩悩などで説明されています。要するに 仏教では 煩悩は心の汚れだと考えられています。そして、根本的な煩悩と、これらの煩悩が原因で表に現れる随煩悩があるとされています。


2 三毒 

 根本煩悩を3つに分類するものが、三毒と呼ばれる教えで、これは入門編だと思います。ブログでは、「お釈迦様もこの 3分類で、仏道を説かれたのだと思います。」と記しましたが、ヴェータが発達していた当時のインドですから、もう少し細かい分類を知った上で、教えを説かれる相手によって、3分類や6分類を使い分けられたのではないかと考えるに至りました。 三毒の3分類の煩悩は、

貪(とん): 欲望への執着

瞋(じん): 怒り

痴(ち): 無知(含無明)、慢心、疑惑、悪見 

とされています。


3 根本煩悩(6分類)

 根本となる煩悩を貪・瞋・慢・無明・見・疑の六つであるとする教えです。これは、三毒のうちの痴の部分を慢・無明・見・疑に分けたものです。これは、多すぎず少なすぎず、当を得ていて素晴らしいです。分類項目のそれぞれは、http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/根本煩悩 さんより 紹介しますと


貪 : 貪は愛と等しく、好ましい対象に対する愛着

瞋 : 好ましくない対象に対する拒絶や反発 怒り、妬み

慢 : 自らを高く評し他を軽視する自己中心的感情

無明 : 正しい道理にくらく真実を知る知見が具わっていないこと 見 : 仏教以外の誤った見解を信じること

疑 : 仏教の真理である四諦・縁起・業報等に対して疑念を持つこと

とされています。



4 六汚れ 

 三毒の解説だと、分類が少し大雑把で、説明がしずらいと感じ、しかし 多く分類すると(108の煩悩、十煩悩 etc.) 「これとあれはかぶってる?」となってしまい、余計に訳が分からなくなります。 結果、浄土宗の根本煩悩の教えを基に 当方は根本煩悩の再考を行ない「六汚れ」と命名し 下記に示します。


  1. 愛欲 : 欲しいと思う行為を愛する心→(2)欲と執着参照。
  2. 憎悪 : 怒りと妬み。度を超えた不当な怒りのことです。
  3. 慢 : 奢ること
  4. 悪見 : 悪い教えや考えを持ち、信じること
  5. 疑惑 : 真理を疑うこと
  6. 無明 : 無明 参照

「怒」と「欲」に関しては 全く悪とは考えません。正当な怒りは良しとしたいので 「怒」を使用せず「憎悪」を使用しました。た だ、正当な怒りであっても それらに支配されずに 意を離し制する必要があると当方は考えます。「欲」も同様に考えます。 他方、慢,悪見,疑惑,無明については、一貫して 悪(影)と捉えます。図7に六汚れと随煩悩をまとめましたので参照してください。

 

図7 根本煩悩と随煩悩




5 無明 

 再考 真理のことばVer.1での本付録5に対して 説明を付け足すことが増えました。前回の説明の要約は以下の通りです。 「無明とは、人間が根本的に持っている無知のことである。人生における人間の苦しみは、すべてこの無明から始まることをブッダは、瞑想の中から発見した。人は、その無明というものを取り払うことで、心安らかに生きていける。」

(http://www.st.rim.or.jp/~success/mumyou_ye.html さんより)


 無明 (avija) という言葉は、お釈迦様が初めて使われたのかどうか? はわかりませんが、このようなものが存在するとは、最近は切に感じています。愛欲,憎悪,慢,悪見,疑惑がなくなってくると、この無明の存在がどうやら感じられて、これが何であるのか理解 できるようになってくるものだと思います。以下に あえて、説明を試みます。


 この無明は、他の5つの分類項目が悪い方向に働くと増幅され、反対に この5項目の悪い作用を増幅させる元にもなると考えています。また、無明は随煩悩の働きによっても増すようです。 正精進によって、努力して自力で六汚れは減らすことはできるのですが、最後にわずかに無明が残ると言われ、私は、この最後の無明は 上位の存在(本守護神様)に よって取り払われ、み仏(ブッダ)や真人となるのではないか、これにより 上位の存在とも直接つながるので 自分が何をなすべきか 直接のご指導ご鞭撻が受けられるために 非常に高い能力を発揮することが可能になるのでは? と考えています。 しかし、この無明が取れてしまうと、荒波や激流だらけのこの世の中で与えられた絶大な力を正しく発揮できる強靭な心が必要で、それに耐えうる強さを心が持っていなければ、その力が悪に転じてその人の全てを打ち砕いてしまいます。ですから、その心が安全に処理できる力が大きくなり あるリミットを超えているか否かが、無明を取り外す基準だと考えています。無明を、外してもらえるように正精進するのが私たち人間の務め 課題ですが、まだ この世の中では絶大なパワーを有して修行できない普通の心には保護バリアとしての役割もあると感じ、無明が、最大の汚れであると同時に、この世を渡るための その人の保護バリアであるという二面性を持つと考えています。


 現在、当方は無明は 副守護神様 つまり悪魔の自分(先祖)ではないかと考えています。副守護神様も私たち同様に私たちの生で修行をなさり気づきを得て進化をなさってらっしゃり、副守護神様が持つ悪魔性を減らすには、私たちの日々の生き方が非常に重要になる、でもやはり自分なので最後まで残ってしまう悪になるのではないかと 考えています。無明以外の六汚れ(五つの汚れ)は、無明(副守護神様)を潤す物なのだと考えています。それらが多い時には、心が無明の副守護神様を感じることがでず、その人自身になってしまうのでしょう。


6 六汚れと隋煩悩の連携 

 何らかの欲に妄執(執著) があり ―次節(2)欲と執着 参照― 、それが満たされない時には、憎悪や憂いや恐れ (悪見) が起こります。憎 悪や憂いや恐れが増えれば、ますます執着が激しくなり、ますます憎悪や憂いが増えます。また、慢心があり、その自分の慢心を満たす執著を持てば、前述の執着が得られない時と同様なことが起こります。

 両者とも、真理(本当の教え)を聞いて疑わなければ、(妄執を産む情)欲と慢と悪見と憎悪と悪見の対処が行えますが、疑ってしまえば、これらの負のスパイラルを止めることはできなくなります。 

 怒は強くなれば、表に現れる随煩悩をたくさん誘発させ、結果として理性を失わせる働きがあります。 慢,悪見,疑惑は外からの情報で植え付けることが多いのでしょうが、無明から伝搬してくる生まれつき持っている悪い考え方の癖があると思います。

 このように、六汚れ (煩悩) と随煩悩は連携しており、それぞれがそれぞれを誘発し、それにより生産された汚れが、その種類に応じて、根本的な各六汚れに分配されるのです。

 以上では 悪循環パターンを述べましたが、次は好循環パターンをご紹介しましょう。自分が、生きていく中で苦しくなったり辛くなることがあります。ここで、反省して、正しく世の中や自分を見つめようと努力することが、実は八正道の起点の正見となります。そして八正道(択法)の教えを信じ実践することによって、いきなり六汚れを減らすのは難しいので、まずは 手始めに 随煩悩 を減らす努力をするのです。随煩悩の発現を抑えることによって、六汚れが減少し 自分に取って良い行動が判別でき それを実行できるのです。これらの繰り返しが、好循環パターンです。


7 三界の五上分結と五下分結 

 この部分は、中村氏の注釈の書き下しと、 http://way-to-buddha.blogspot.jp/2011/05/blog-post_1655.html さんの内容で構成しました。

 このサイトはとてもよく書いてあると思いますので、ぜひ立ち寄ってご一読ください。 

 三界ですが、欲界、色界、無色界と呼ばれる3つの世界のことを指します(図8参照)。最下層が欲界、その上が色界、さらにその上が無色界となっていますが、この三界に属している状態は、ニルバーナ(涅槃)=安らぎ、や 解脱状態でないようです。 

中村氏の真理のことばでは、三界の五上分結と五下分結は、断つものと示されています。

 五下分結は、魂を欲界に結びつける5つの煩悩ですが、― 心を外から縛り付けるものなのか?―断つものと示されています。

 五上分結は、魂を上界(色界と無色界)に結びつける5つの煩悩ですが、― 心に内包される煩悩なか?― 捨てるものだと示されています。

 これら10個の煩悩の個別の意味を図8に示し、各煩悩に対応する六汚れとも記しました。この対応は、無理のないものになったと思います。

図8 三界と五上・五下分結


(2) 欲と執着 

 真理のことばには、諸所に「欲」、「情欲」、「愛欲」、「執着」、「妄執」、「愛執」という言葉が登場します。まずは、これらの意味を考えましょう。

欲 人間が欲しいと望むもの: 善悪の区別をつけない欲の全て

情欲:「青い心の欲」となりますから、「これは未熟な心が欲しがるもの」という漢字の成り立ち通りに捉えます。これは、欲の 具体的な種類ではないことに注意してください。

愛欲 :欲を愛する事(貪欲は欲を貪ることなので、愛欲とほぼ同じ意味) 

執着: 欲の対象を追い求める事 : 善悪の区別をつけない執着の全て 

妄執 :道理を逸した執着(欲望、渇望とも言える。)また、仏教用語の執著(しゅうちゃく)は執着の悪いものを表しているよう です。

愛執 :執着を愛する事

としました。 仏教では代表的な欲として、五欲(食欲、財欲、色欲、名誉欲、睡眠欲)が提唱されています。しかし、当方の経験では五欲では 足りず、「人から愛されたい、認めてもらいたい。」という【承認欲】が入るべきだと考えています。以前はこれを【愛欲】としました(*1)。

 五欲に承認欲が加わり六欲になります。この六つの欲を生存上必要な順に並べると、

【 食欲 = 睡眠欲 》承認欲 》色欲 》財欲 》名誉欲 】 ←六欲

になると、私は考えています。

 以上を六欲と命名します(ただし、並び順は人によりある程度 前後すると思います。)。 

 現状の仏教では、これらの言葉の定義がなされていないので、欲と執着に関して思考ループを作ってしまうという事態を招いています。

 欲も執着も全てが悪いわけでもなく、生存を支える生存欲(睡眠欲、食欲、色欲)・社会的にスムーズに生きていくための財欲、名誉欲、承認欲には 程よく執着することが必要だと思います。ですから、本書では、

 「執着(執着全般で善悪混合)」「妄執(悪的執着)」=「執著(悪的執着)」

と考えます。

 他方、欲というものも、この三次元の世界に既に設定されていて、全てが悪ではないのです。しかし悪的執着の【妄執】が求め る欲が悪的欲の【情欲】で、人として生まれたからには、【妄執】を消滅させることが大切なのです。このためには、【愛欲】と【愛執】という心の作用(心の汚れ)を制し【妄執】をなくしていかなくてはなりません。

 言い換えると、欲への執着を離れた位置から制し統べながら生きる事が人間にとって重要な努めになるのだと考えています。

 今、快楽が得られる欲があるとしましょう。これを愛する心が愛欲で、この愛欲が強くなれば これを得ようとしますので 執着が 出てきます。この対象物(欲)の放つ快楽が素晴らしければ これを得ようとする執着すら愛するようになり愛執が起こり この時 点で 執着から妄執へと変化します。この順番から、「妄執」の根源は 「愛執」、 「愛執」の根源は六汚れの「愛欲」と言えます。


 お釈迦様は、この世の中には激流が存在して、その激流と一緒に流れている無常のものに恋い焦がれて、精一杯追いかけるのが 人間の心であるとしています。この激流に引っ張られる要因が、妄執でこれは主に顕在意識の中に分布しま す。実際には、妄執によって激流(欲)に一緒に流されているだけなのですが、その求めているものは、激流の中なので、なかな か掴めません。しかし、自分では激流の中で一生懸命追い求めている気になっているのです。図9に、この世の中に設定されてい る欲(激流)とそれに流される心のイメージ(心を牽引しているベクトルが妄執であり意欲の悪い部分です。)を描きます。「真理のことば」において、流れで例えられるのが情欲(悪的欲)です。

 一方、「著は草を集めて焼く」という意味で漢字が成り立っていますので、火で暗示されるものが執著や妄執です。


 では、欲を なぜ激流と たとえるのでしょうか? この欲というものは、理科学でいう場のようなもので、すでにこの3次元の 世の中に設定されているのでしょう。これは、人間の力でなくすことなどできないものです。ですから、「欲をなくせ。」という表 現は、本書の定義では、「情欲への妄執をなくせ。」とするべきです。どの欲の流れに流されるかは、その心の執着する癖によりま す。食欲に弱い人もいれば、名誉欲に弱い人もいるっていうのが、現実です。 ちなみに、人間が恋い焦がれて追い求める「激流と一緒に流れている無常のもの」は、流れによって形作られたもので、実体のないもの、すなわち「色」であると認識するべきであるというのが、般若心経の教えです(*2)。

図9 欲と執着と心




(コーヒーブレイク) 仏道のキーナンバー


 五上分結と五下分結では、キーナンバーは5です。しかし、図8で記した通り、心の汚 れに相当するものを10個書き出しており、六汚れの重複で考えて良いと思います。 また、五根「信、精進、念、定、慧」(付録3参照)は、精進の範囲が広すぎますので、精進を「行動」と「思考」で分けて、六 根道にすべきだと思う次第です。


 他にも般若心経での一節「眼耳鼻舌身意」、「色声香味触法 (=意)」をそれぞれ六根と六境と言います(六根と五根改め六根道は、 少しややこしいです。)。さらに、六道輪廻、六神通があります。さらに 前述の六欲です。 以上から、仏道のキーナンバーは6ではないかと思うに至りました。



(*1)再考 真理のことば ver. 1 で当方は、「愛欲と情欲は同一とし、愛欲とは、他者からの愛情(愛欲)や人気を求める欲」としましたが、本書では全面撤回となりました。

(*2)以前は「空」と書いてしまって間違えていました。詳しくは付録7を参照ください。


2021年4月1日木曜日

【再考「真理のことば」ver.1 付録5 心の汚れ (2) 欲、(3) 執着と欲】

 【再考「真理のことば」ver.1 付録5 心の汚れ (2) 欲、(3) 執着と欲】に大幅な変更がありました。

変更点

  1. 二つの節を一つにまとめ、節名を「執着と欲望」と変更
  2. 愛欲の定義を変更
  3. 情欲の定義を変更
  4. 承認欲の導入


(2) 執着と欲望

 真理のことばには、諸所に「情欲」、「愛欲」(*)という欲が登場します。まずは、これらの意味を考えましょう。

  • 情欲 「青い心の欲」となりますから、「これは未熟な心が欲しがるもの【欲】」という漢字の成り立ち通りに捉えます。これは、 欲の種類ではなく、欲の特徴を言い表しているものとします。
  • 愛欲 欲を愛する事

としました。


  仏教では代表的な欲として、五欲(食欲、財欲、色欲、名誉欲、睡眠欲)が提唱されています。しかし、当方の経験では五欲では足りず、「人から愛されたい、認めてもらいたい。」という【承認欲】が入るべきだと考えています(以前はこれを【愛欲】としました。)。

 五欲に承認欲が加わり六欲になります。この六つの欲を生存上必要な順に並べると、

   食欲 = 睡眠欲 承認欲 》色欲 財欲 》名誉欲  ←六欲 

になると、私は考えています。ただし、並び順は人によりある程度 前後すると思います。以上を六欲と命名します。


 現状の仏教では、一般にきっちりした言葉の定義がなされていないので、欲さらには執着に関して思考ループを作ってしまうという事態を招いているように見受けられます。

(→いつもの手口だけれどさ!)

 お釈迦様は、この世の中には激流が存在して、その激流と一緒に流れている無常のものに恋い焦がれて、精一杯追いかけるのが 人間の心であるとしています。この激流に引っ張られる要因が、執着なのです。また、実際には、執着によって激流に一緒に流されているだけなのですが、その求めているものは、激流の中なので、なかなか掴めません。しかし、自分では激流の中で一生懸命追い求めている気になっているのです。

 では、この激流とは何を指すのでしょうか? これが、先ほど述べた欲の数々なのです。この欲というものは、理科学でいう場のようなもので、すでにこの3次元の世の中に設定されているのでしょう。これは、人間の力でなくすことなどできないものです。

 ですから、「欲をなくせ。」という表現は、本書の定義では、「悪い欲への執着をなくせ。」とするべきです。そして、この悪い執着 が「妄執」なのです。どの欲の流れに流されるかは、その心の執着する癖によります。食欲に弱い人もいれば、名誉欲に弱い人もいるっていうのが、現実ですから、この辺りはわかりやすいと思います。

 しかし 欲も執着も全てが悪いわけでもなく、

  •  生存を支える生存欲(睡眠欲、食欲、色欲)
  •  社会的にスムーズに生きていくための 財欲、名誉欲、承認欲

どれにも 程よく執着することが 生きるのには必要だと思います。言い換えると、欲というものは、この三次元の世界に既に設定されていて、それを追い求める執着もある程度は必要です。つまり 未熟な心と意が、道理を逸した執着【妄執】で求める欲【情欲】を退けることが大切で、人間にとって 欲への執着を離れた位置から制し統べながら生きる事が重要な努めなのだと考えています。

  ちなみに、人間が恋い焦がれて追い求める「激流と一緒に流れている無常のもの」は、流れによって形作られたもので、実体のないもの、すなわち「色」(**)であると認識するべきであるというのが、般若心経の教えです。



 (*)ver. 1 で当方は、「愛欲と情欲は同一とし、愛欲とは、他者からの愛情(愛欲)や人気を求める欲」としましたが、本書では全面撤回となりました。

 

 (**)以前は「空」と書いてしまって間違えていました。詳しくは付録7を参照ください。

2021年3月29日月曜日

無明

 【1】六汚れ 

  1. 執着 執着すること。しかし、執着対象の、良し悪しは区別しません。
  2.  怒ること(妬むこと)。正当な怒りも不当な怒りも含まれます。
  3.  奢ること
  4. 悪見 悪い教えや考えを持ち、信じること
  5. 疑惑 真理を疑うこと
  6. 無明 : 以下参照 

*執着と怒に関しては、全く悪とは考えず、正当なものへの執着や怒りは良しとします。ただ、正当な執着や怒りであっても、そ れらに支配されずに、意を離し制する必要があると考えます。 他方、慢,悪見,疑惑,無明については、悪(影)と捉えます。 

 【2】無明 

 前回の説明に付け足すことが増えました。前回の説明の要約は以下の通りです。 「無明とは、人間が根本的に持っている無知のことである。人生における人間の苦しみは、すべてこの無明から始まることをブッ ダは、瞑想の中から発見した。人は、その無明というものを取り払うことで、心安らかに生きていける。」(http://www.st.rim.or.jp/~success/mumyou_ye.html さんより)

 無明 (avija) という言葉は、お釈迦様が初めて使われたのかどうか? はわかりませんが、このようなものが存在するとは、私も最近は切に感じています。慢,悪見,疑惑がなくなってくると、この無明の存在がどうやら感じられて、これが何であるのか理解できるようになってくるものだと思います。以下に あえて、説明を試みます。

 この無明は、他の5つの分類項目が悪い方向に働くと増幅され、この5項目の悪い 作用を増幅させる元であると考えています。ただ、無明は随煩悩の働きによっても増 すようです。 正精進によって、努力して自力で六汚れは減らすことはできるのですが、最後にわ ずかに無明が残ると言われ、私は、この最後の無明は 上位の存在(本守護神様)に よって取り払われ、み仏(ブッダ)や真人となるのではないか、これにより 上位の存 在とも直接つながるので 自分が何をなすべきか 直接のご指導ご鞭撻が受けられるた めに 非常に高い能力を発揮することが可能になるのでは? と考えています。 

 しかし、この無明が取れてしまうと、魂が、荒波や激流だらけのこの世の中に、真 の意味で直接つながるので、魂がそれに耐えうる強さを持っているか否かが、無明を 取り外す判断基準だと思います。無明を、外してもらえるように正精進するのが私た ち人間の務め・課題ではあるのですが、まだ直接、この世の中では修行できない普通 の魂の保護バリアとしての役割もあると感じています。つまり、無明が、最大の汚れ であると同時に、この世を渡るための魂の保護バリアであるという二面性があると、 私は考えています。

 現在、当方は無明は 副守護神様 つまり悪魔の自分(先祖)ではないかと考えていま す。副守護神様も私たち同様に私たちの生で修行をなさり気づきを得て進化をなさっ てらっしゃり、副守護神様が持つ悪魔性を減らすには、私たちの日々の生き方が非常 に重要になる、でもやはり自分なので最後まで残ってしまう悪になるのではないかと 考えています。無明以外の六汚れ(五つの汚れ)は、無明(副守護神様)を潤す物な のだと考えています。それらが多い時には、心が無明である副守護神様を感じることができないのでしょう。

真理のことば、法句経 第5詩

真理のことば、法句経 第5詩;G136 (F005, A, O005, OS1)
 

中村元氏の訳

実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息(や)むことがない。

怨みを捨ててこそ息(や)む。これは永遠の真理である。


荻原雲来氏訳の訳

世の中に怨は怨にて息むべきやう無し。無怨にて息む、此の法易はることなし。


立花俊道氏訳の訳

此の世に於て怨は怨を以てしては終に解くべからず、愛を以てぞ解くべき、これ永劫不易の法なり。


月夜の龍の訳

この世においては、怨みによって怨みに報いても、怨みが息(や)むことはない。怨みを離れ 愛をもってこそ 怨みが息(や)む。これは永遠の真理である。


前回の月夜の龍の訳

実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息(や)むことがない。

怨みを離れてこそ息(や)む。これは永遠の真理である。 


(コメント)

  1. 「捨てて」ではなく、「離れて」にしました。
  2. 立花俊道氏訳の法句経(ダンマパダ)では、「恨みがないこと」を転じて「愛により」と訳し、その大胆さと的確さに息を呑みました。


2021年3月24日水曜日

再考「真理のことば」書き換えの途中経過 の続報

 再考「真理のことば」書き換えの途中経過 の続報

詩番号

G246 (F333, B, O393, OS26) 、

G247 (F334, A, O307, OS22)、

G248(F335, B, O394, OS26)、

G249 (F336, C, O395, OS26)、

G250 (F337, C, O396, OS26) 

[[ @ GS 19 修行僧 ]]

について現在行っている書き換え詩が決定しましたので掲載いたします。


 最新バージョンの詩番号接頭文字をG(前回はF)にする予定です。


G246

氏姓と生れによって修行僧となるのではない。

真理と理法とをまもり 涅槃(悟りによる解脱)に入りし修行僧が、真の修行僧であり バラモンとは言わない。 

G247

袈裟を頭から纒っていても、性質(タチ)が悪く、つつしみのないバラモンが多い。かれら悪人は、悪いふるまいによって、悪いところに生まれる。

G248

愚かなバラモンよ。身なりだけ整えて、何になるのだ。汝は内に密林(=汚れ)を蔵して、外側だけを飾る。

G249

また バラモンは 粗末な身なりで 痩せて 血管があらわれていようとも 寂しい場所で一人で瞑想に専念するとも言われている。

G250

しかし、(バラモン女の)胎から生れ(バラモンの)母から生れた人をバラモンと呼ぶのである。この人が「【君よ】といって呼びかける者」でも、「執着にとらわれている者」でもバラモンである。

 執着を離れ制す修行僧、─ その人を吾は 真の修行僧と呼び、バラモンとは呼ばない。

2021年3月9日火曜日

真理のことば 13節 世の中 174詩と175詩 

 詩番号 G050 (F052, C, O174, OS13) 、

            G051 (F053, C, O175, OS13)   [[ @ GS 5 世の中 ]]

 元詩(O番号)→ 一次変更詩(F番号)→ 最新変更(G番号)の順で変更しています。

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最新変更(G050) 
 この世の中は暗黒である。ここではっきりと理(コトワリ)の実相を見分ける人は少ない。 — 網から脱れた鳥が少ないように。

最新変更(G051) 
 渡鳥は日中に往来を繰り返し、通力によって動く者は虚空の道を回り、正しい心を持つ真人は悪魔とその軍勢にうち勝って 因縁からむこの世から放(はな)れ ブッダとなる。
———————————————
元詩(O174)
 この世の中は暗黒である。ここではっきりと (ことわりを) 見分ける人は少ない。網から脱れた鳥のように、天に至る人は少ない。


元詩 (O175)
 白鳥は太陽の道を行き、神通力による者は虚空(そら)を行き、心ある人々は、悪魔とその軍勢にうち勝って世界から連れ去られる。
———————————————
一次変更詩(F052) 
 この世の中は暗黒である。ここではっきりと理(コトワリ)と実相を見分ける人は少ない。しかし、これらを見分けたならば、悪魔とその軍勢にうち勝つ。あたかも、網から脱れた鳥のように。


 一次変更詩(F053)
 網から脱れた鳥のような真人は、あるものは白鳥のように太陽の道を行き、あるものは神通により虚空を行き、あるものはブッダとなる。
———————————————
(コメント)
  •  この2詩の難解な部分が、鳥の部分と神通でした。
  • 「鳥」はそのまま「普通の人や大衆」として比喩されていると思われます。
  • この詩の ver. 1 のコメントは頓珍漢でした。あらためて訂正してお詫びします。前回は一二三神示を引用しましたが、今回は取り下げます。
  • 荻原雲来氏訳の「法句経」では G051 詩の「白鳥」は「鵝鳥」と書かれています。これはガチョウではなく渡鳥の類とのことです。比喩としては、善悪が完全に正しく判断できない多くの普通の人間で、いつも 同じ失敗を繰り返して、この世の中を彷徨っているという感じです。
  • 「神通」を「通力」と変更しました。これはいわゆる超常的力(魔法)のことで、それを駆使できる存在(人間じゃない存在も多い) が、虚空道を進んでいるとしました。
  • 「虚空」は、「むなしい」という意味ですが、虚は「艮(うしとら)の金神様の偉大な」という意味で、空は真理となりますので、偉 大な真理という意味が裏にあります。「虚空の道」を、悪い目的のために使う存在は「虚しい道を進む者」であり、良い目的のために 使う存在は「偉大な道を進む者」となるのだと思われます。二面的な意味があるのだと思いますが、なんといっても人間の領域を超えているので、皆様も色々と考えてみてください
  • 「心ある人」は、「正しい心を持つ真人」とします。
  • 「世界から連れ去られる」は「ブッダになる」としましたが、今回は「因縁からみつく世界から放れブッダとなる」としました。

2021年3月2日火曜日

真理のことば 353詩

 詩番号 F347 (F347, A, O353, OS24)  [[ @ FS 25 ブッダ ]]

   我はすべてに打ち勝ち、すべてを知り、あらゆることがらに関して汚されていない。すべてを捨てて、愛欲は尽きたので、

   こころは解脱している。みずからさとったのであって、誰を(師と)呼ぼうか。(「その我とは何ぞや、釈迦よ、答えよ。」)


中村氏の元詩(24章 353詩)

  われはすべてに打ち勝ち、すべてを知り、あらゆることがらに関して汚されていない。すべてを捨てて、愛欲は尽きたので、こころは解 脱している。みずからさとったのであって、誰を(師と)呼ぼうか。


再考真理のことばver.1書換え詩

  我は全てに打ち勝ち、全てを知り、あらゆることがらに関して汚されていない。全ての執着を捨てて、汚れが尽き、心は解脱している。 自らさとったのであって、誰を(師と)呼ぼうか。


(コメント)

OS24 愛執 から移動。

  • 「すべてを捨てて、愛欲は尽きたので」→「全ての執着を捨てて、汚れが尽き」と書き換えます。
  • 最初に この詩文を反語用法「~であろうか? (いや、~でない。)」で書かれていると捉えていました。しかし、今となっては お釈迦様の 中の「我」が発した詩に対して( )内が本守護神様が正守護神に対して問いという形でお答えになっているのではないかと考えています。
  • この詩は全体的に傲慢な感じがします。 一度、真理を教示してくれた人を頼ることはダメでも師として敬愛の念を持つことが徳や誠というものです。
  • 色々な関係や出来事から悟るのであって、それを鑑みたときに「みずから悟る」という言葉は普通の人間にはない発想です。ひたすら感謝になるのではないでしょうか。
  • お釈迦様の教えは和を大切にする教えで、「勝敗を議論する」ことを完全に否定する教えです。

   これに対して、指導なさる本守護神様が、括弧内の問いかけで気づかせようとなさっています。

  さて、お釈迦様はどのようにお答えになったのでしょうか? 

  これが、皆様にとっても最終試験なのかもしれないです。


   ここまで書き進めさせていただいて、当方は 最終的な師は「法(真理)」であるのではないか?と思うようになりました。 「自燈明、法燈明」の言葉の捉え方なのですが、「法の灯りとは、おのずと(自然にそこに)ある灯(あか)りのようなものですよ。誰の近くにも自然とあるんですよ。」という意味であって、「自分を拠り所にしなさい。」つまり、「法=自分」という強烈に傲慢な意味になりかねない捉え方では、平和を誘うことなどできないと思い至るのです。

  お釈迦様のお答歌としては、当方は、 「吾は、全ての執着を捨てて、汚れが尽き、涅槃(悟りによる解脱)を得た。これからは法を頼りとし 生きとし生けるものを慈しみ 生きていこう。」

と 想像しています。

2021年2月18日木曜日

再考「真理のことば」書き換えの途中経過

 バラモンという言葉に気を使わなくなった結果、詩番号F333~F337の書き換えじつれいです。修行僧でも真人の域にいる修行僧を「真の修行僧」と表記しています。


詩番号

F333 (F333, B, O393, OS26) 、

F334 (F334, A, O307, OS22)、

F335(F335, B, O394, OS26)、

F336 (F336, C, O395, OS26)、

F337 (F337, C, O396, OS26) 

[[ @ GS 19 修行僧 ]]


現在行っている書き換え詩(暫定)

   F333

氏姓と生れによってバラモンとなる。

氏姓と生れによって修行僧なのではない。

真理と理法とをまもり、涅槃(悟りによる解脱)に入りし者、この者こそ 真の修行僧なのである。


   F334

袈裟を頭から纒っていても、性質 (タチ) が悪く、つつしみのないバラモンが多い。かれら悪人は、悪いふるまいによって、悪いところに生まれる。


   F335

愚者よ。バラモンの身なりだけ整えて、何になるのだ。汝は内に密林 (=汚れ) を蔵して、外側だけを飾る。


   F336

氏姓と生れによってバラモンとなるのであるが、粗末な身なりで 痩せて 血管があらわれていようとも 寂しい場所で一人で瞑想に専念する人がバラモンともいわれている。


   F337 

(バラモン女の) 胎から生れ (バラモンの) 母から生れた人はバラモンであって、真の修行僧と呼ぶのではない。この人は「【君よ】 といって呼びかけるバラモン」である。かれは何か所有物の思いにとらわれている。無一物であってもなくても、執着から離れた人、── その人を真の修行僧と呼ぶ。



前回の再考真理のことばで書き換えた詩

    F333

螺髪を結んでいるからバラモンなのではない。氏姓によってバラモンなのでもない。生れによってバラモンなのでもない。真理と理法とをまもる人は、安楽である。かれこそ (真の) バラモンなのである。


    F334

袈裟を頭から纒っていても、性質 (タチ) が悪く、つつしみのないバラモンが多い。かれら悪人は、悪いふるまいによっ て、悪いところに生まれる。


    F335

愚者よ。バラモンの身なりだけ整えて、何になるのだ。汝は内に密林 (=汚れ) を蔵して、外側だけを飾る。


    F336

粗末な身なりで、痩せて、血管があらわれていようとも、寂しい場所で一人で瞑想に専念する人、─その人を我はバラモンと呼ぶ。


    F337

われは、(バラモン女の) 胎から生れ (バラモンの) 母から生れた人をバラモンと呼ぶのではない。この人は「【君よ】と いって呼びかける者」といわれる。かれは何か所有物の思いにとらわれている。無一物であっても執着のない人、── その人を我はバラモンと呼ぶ。

2021年2月12日金曜日

「再考 真理のことば」の付録4 人間の分類の変更骨子(書き途中)

 「再考 真理のことば」の付録4 人間の分類の変更点(書き途中)です

(1)人間分類を変更しました。


前回(再考 真理のことばver.1)の分類

(a)精神性 (霊格) 分類法 「愚かな人 賢い人 真人」

(b)真理の追求分類法 「道を実践する人 道を実践しない人」

(c)仏弟子分類法 「在家か出家に関わらず、正しいお釈迦様の教えに従って生きる人達 そうでない人たち」

↑これを無くした。霊格の向上をめざす存在全てで真人に到達してないものは、みな仏弟子としました。

(d)社会的立場分類法 「出家者(d「修行僧」と「バラモン」)在家者」



今回の分類(途中経過)

(a)精神性(霊格)分類法 「愚かな人 賢い人 ー 真人」 

(b)実践分類法 「道を実践する人 道を実践しない人」

(c)社会的立場分類法 「出家者の修行僧(バラモン含)在家者」 


(2) (1)に伴い、修行者の種類に対応する人間分類を変更しました。

前回(再考 真理のことばver.1)の対応

<道による勝者>              → ブッダ

<道を説く者>                 → 真人の出家者,賢い出家者,道を実践する出家者,仏弟子

<道において生活する者> → 在家の真人,賢い在家者,道を実践する在家者,仏弟子

<道を汚す者>                 → 愚か者の出家者(偽出家者),愚か者の在家者


今回の対応(途中経過):スッキリしました。

「道による勝者」             → 「ブッダ」

「道を説く者」                → 「真人」以上の霊格

「道において生活する者」 → 「賢い人」以上の霊格、もしくは「道を実践する人」

「道を汚す者」                 → 「愚か者」、もしくは、「道を実践しない人」