2021年3月2日火曜日

真理のことば 353詩

 詩番号 F347 (F347, A, O353, OS24)  [[ @ FS 25 ブッダ ]]

   我はすべてに打ち勝ち、すべてを知り、あらゆることがらに関して汚されていない。すべてを捨てて、愛欲は尽きたので、

   こころは解脱している。みずからさとったのであって、誰を(師と)呼ぼうか。(「その我とは何ぞや、釈迦よ、答えよ。」)


中村氏の元詩(24章 353詩)

  われはすべてに打ち勝ち、すべてを知り、あらゆることがらに関して汚されていない。すべてを捨てて、愛欲は尽きたので、こころは解 脱している。みずからさとったのであって、誰を(師と)呼ぼうか。


再考真理のことばver.1書換え詩

  我は全てに打ち勝ち、全てを知り、あらゆることがらに関して汚されていない。全ての執着を捨てて、汚れが尽き、心は解脱している。 自らさとったのであって、誰を(師と)呼ぼうか。


(コメント)

OS24 愛執 から移動。

  • 「すべてを捨てて、愛欲は尽きたので」→「全ての執着を捨てて、汚れが尽き」と書き換えます。
  • 最初に この詩文を反語用法「~であろうか? (いや、~でない。)」で書かれていると捉えていました。しかし、今となっては お釈迦様の 中の「我」が発した詩に対して( )内が本守護神様が正守護神に対して問いという形でお答えになっているのではないかと考えています。
  • この詩は全体的に傲慢な感じがします。 一度、真理を教示してくれた人を頼ることはダメでも師として敬愛の念を持つことが徳や誠というものです。
  • 色々な関係や出来事から悟るのであって、それを鑑みたときに「みずから悟る」という言葉は普通の人間にはない発想です。ひたすら感謝になるのではないでしょうか。
  • お釈迦様の教えは和を大切にする教えで、「勝敗を議論する」ことを完全に否定する教えです。

   これに対して、指導なさる本守護神様が、括弧内の問いかけで気づかせようとなさっています。

  さて、お釈迦様はどのようにお答えになったのでしょうか? 

  これが、皆様にとっても最終試験なのかもしれないです。


   ここまで書き進めさせていただいて、当方は 最終的な師は「法(真理)」であるのではないか?と思うようになりました。 「自燈明、法燈明」の言葉の捉え方なのですが、「法の灯りとは、おのずと(自然にそこに)ある灯(あか)りのようなものですよ。誰の近くにも自然とあるんですよ。」という意味であって、「自分を拠り所にしなさい。」つまり、「法=自分」という強烈に傲慢な意味になりかねない捉え方では、平和を誘うことなどできないと思い至るのです。

  お釈迦様のお答歌としては、当方は、 「吾は、全ての執着を捨てて、汚れが尽き、涅槃(悟りによる解脱)を得た。これからは法を頼りとし 生きとし生けるものを慈しみ 生きていこう。」

と 想像しています。