2018年6月29日金曜日

第11章 老いること (元データと判定・解釈・考察と書き換え)

訂正・変更履歴
・詩番号135を詩148の後に挿入しました。(180925)


第11章 老いること

 この章、全体は、新約聖書に通じる文章仕立てだと感じています。全般的に、とても恐ろしい雰囲気を醸し出していますが、非常に正確に人間の体を説明しています。これも、お釈迦様がより高次の存在から教授されている教えだと思います。多少、筆を入れましたが、極めて改ざんが少ないと感じています。


詩番号 146~148

***(元データ)*************
146)何の笑いがあろうか。何の歓びがあろうか?──世間は常に燃え立っているのに──。汝らは暗黒に覆われている。どうして燈明を求めないのか?

147)見よ、粉飾された形体を!(それは)傷だらけの身体であって、いろいろのものが集まっただけである。病いに悩み、意欲ばかり多くて、堅固でなく、安住していない。

148)この容色は衰えはてた。病いの巣であり、脆くも滅びる。腐敗のかたまりで、やぶれてしまう。生命は死に帰着する。
***(判定)*************
146)A
147)A
148)A
***(コメント)*************
なし
***(書換え詩)*************
146)書き換え不要
147)書き換え不要
148)書き換え不要




詩番号 135
***(元データ)*************
135)
 牛飼いが棒をもって牛どもを牧場に駆り立てるように、老いと死とは生きとし生けるものどもの寿命を駆り立てる。
***(判定)*************
135)A
***(コメント)*************
135)
 第10章 暴力 から第11章 老いることへ移動しました。

136)
 第5章 愚かな人 詩番号69の後に挿入します。
 “しかし”で、詩が始まるのは変ですから、文章の意味が通じるように書き換えます。
 比喩部分は不要なので削除します。

***(書換え詩)*************
135)書き換え不要




詩番号 149、150

***(元データ)*************
149) 秋に投げすてられた瓢箪(ヒョウタン)のような、鳩の色のようなこの白い骨を見ては、なんの快さがあろうか?

150)骨で城がつくられ、それに肉と血とが塗ってあり、老いと死と高ぶりとごまかしとがおさめられている。
***(判定)*************
149)A
150)A
***(コメント)*************
なし
***(書換え詩)*************
149)書き換え不要
150)書き換え不要



詩番号 151、152

***(元データ)*************
151)いとも麗しい国王の車も朽ちてしまう。身体もまた老いに近づく。しかし善い立派な人々の徳は老いることがない。善い立派な人々は互いにことわりを説き聞かせる。

152)学ぶことの少ない人は、牛のように老いる。かれの肉は増えるが、かれの知慧は増えない。
***(判定)*************
151)A
152)A
***(コメント)*************
ことわり→道理、彼→その人と置き換えます。
***(書換え詩)*************
151)いとも麗しい国王の車も朽ちてしまう。身体もまた老いに近づく。しかし善い立派な人々の徳は老いることがない。善い立派な人々は互いに道理を説き聞かせる。

152)学ぶことの少ない人は、牛のように老いる。その人の肉は増えるが、その人の知慧は増えない。


詩番号 153、154

***(元データ)*************
153)わたくしは幾多の生涯にわたって生死の流れを無益に経めぐって来た、──家屋の作者(ツクリテ)をさがしもとめて──。あの生涯、この生涯とくりかえすのは苦しいことである。

154)家屋の作者よ! 汝の正体は見られてしまった。汝はもはや家屋を作ることはないであろう。汝の梁はすべて折れ、家の屋根は壊れてしまった。心は形成作用を離れて、妄執を滅ぼし尽くした。
***(判定)*************
153)A
154)D
***(コメント)*************
154)では、家屋(人間の体)の作者は誰か?これが大切です。実は、これが煩悩や妄執に染まった心なのです(第25章 修行僧(修正版) 詩380)参照)。魂全体を牽引する働きがあるのが心で、心が煩悩や妄執を滅ぼせば、形成作用を離れるのです。これが安らぎに入るということです。
***(書換え詩)*************
153)書き換え不要

154)家屋の作者よ! 汝の正体は見られてしまった。心は妄執を滅ぼし尽くし、体の形成作用を離れたので、汝(心)はもはや家屋を作ることはないであろう。汝の梁はすべて折れ、家の屋根は壊れてしまった。



詩番号 155、156

***(元データ)*************
155)若い時に、財を獲ることなく、清らかな行ないをまもらないならば、魚のいなくなった池にいる白鷺のように、痩せて滅びてしまう。

156)若い時に、財を獲ることなく、清らかな行ないをまもらないならば、壊れた弓のようによこたわる。──昔のことばかり思い出してかこちながら。
***(判定)*************
155)A
156)A
***(コメント)*************
 この2詩は、在家者への教えです。正当な手段によって財を獲ることは、清らかな行いを保つことと、同等に大切なことであることを、教えています。出家修行の励行にブレーキをかけていると、私は感じています。
 私なりに、
若い時に、
財を蓄えた+清らかな行いを保つ、
財を蓄えない+清らかな行いを保つ、
財を蓄えた+清らかな行いを保たない、
財を蓄えない+清らかな行いを保たない、
の4パターンを考察して、下表にまとめました。


「かちこちながら」については、「頑なな心となる。」と書き換えます。
***(書換え詩)*************
155)書き換え不要
156)若い時に、財を獲ることなく、清らかな行ないをまもらないならば、壊れた弓のように横たわる。──昔のことばかり思い出して、頑なな心となる。



(第11章 老いること 終わり)

2018年6月28日木曜日

第13章 世の中 (元データと判定・解釈・考察と書き換え)

第13章 世の中

 世の中とは、この世とあの世(来世)を表していると考えています。あの世にいれば、あの世が世の中ですし、今の我々は、この世が世の中です。 
 真理のことばでは、来世とは死後の世界、つまりあの世のことです。
 この世とあの世を行ったり来たりするのが輪廻転生です。しかし、この二つの世界から離れることが、解脱(安らぎ、涅槃、ニルヴァーナに入る)です。これが、人間に課せられた課題で、それをこなすために示されたのが、お釈迦様が説かれた仏道なのです。

詩番号 167~173
***(元データ)*************
167)下劣なしかたになじむな。怠けてふわふわと暮らすな。邪な見解をいだくな。世俗のわずらいをふやすな。
168)奮起てよ。怠けてはならぬ。善い行いのことわりを実行せよ。ことわりに従って行なう人は、この世でも、あの世でも、安楽に臥す。
169)善い行ないのことわりを実行せよ。悪い行ないのことわりを実行するな。ことわりに従って行なう人は、この世でも、あの世でも、安楽に臥す。
170)世の中は泡沫のごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ。世の中をこのように観ずる人は、死王もかれを見ることがない。
171)さあ、この世の中を見よ。王者の車のように美麗である。愚者はそこに耽溺(タンデキ)するが、心ある人はそれに執著しない。

172)また以前は怠りなまけていた人でも、のちに怠りなまけることが無いなら、その人はこの世の中を照らす。──あたかも雲を離れた月のように。
173)以前には悪い行ないをした人でも、のちに善によってつぐなうならば、その人はこの世の中を照らす。──雲を離れた月のように。
***(判定)*************
167)A
168)B
169)B
170)A
171)D
172)A
173)A
***(コメント)*************
167)なし
168)ことわり(理)を道理と置き換えます。
169)168)と同様に、言葉を置き換えた上で、日本語が変なので、整えます。
170)この詩は、仏教で言う空の教えを、簡単な言葉で記しています。
171)“愚者”は“愚かな人”と書き直しましょう。 愚かな人との対応ですから、“心ある人”=“賢い人”となります。
172)、173)怠りなまけた人の償いは、怠りなまけないことです。悪い行いをした人の償いは、善を行うことです。 第22章 地獄 314)で記述される、悪いことをするくらいなら、何もしないほうが良いという内容と一致します。172)と173)の詩に統一感を出すために、“また、”と、“あたかも”を消します。173)詩は書き換え不要になりますが、一応、両者を並べて記述します。
***(書換え詩)*************
167)書き換え不要
168)奮起てよ。怠けてはならぬ。道理に従った善い行いを実行せよ。道理に従って行なう人は、この世でも、あの世でも、安楽に臥す。
169)道理に従った善い行ないを実行せよ。道理に従わない悪い行ないを実行するな。道理に従って行なう人は、この世でも、あの世でも、安楽に臥す。

170)書き換え不要
171)さあ、この世の中を見よ。王者の車のように美麗である。愚かな人はそこに耽溺(タンデキ)するが、賢い人はそれに執著しない。
172)以前は怠りなまけていた人でも、のちに怠りなまけることが無いなら、その人はこの世の中を照らす。─雲を離れた月のように。
173)以前には悪い行ないをした人でも、のちに善によってつぐなうならば、その人はこの世の中を照らす。─ 雲を離れた月のように。
詩番号 174、175
***(元データ)*************
174)この世の中は暗黒である。ここではっきりと(ことわりを)見分ける人は少ない。網から脱れた鳥のように、天に至る人は少ない。
175)白鳥は太陽の道を行き、神通力による者は虚空(ソラ)を行き、心ある人々は、悪魔とその軍勢にうち勝って世界から連れ去られる。
***(判定)*************
174)A
175)B
***(コメント)*************
174)なし
175)白鳥と神通力による者とは、一体、何であるか、さっぱりわからないと思います。両者とも、相当、霊格は高いと思いますが、真理のことばで表現されている範囲では真人というカテゴリーの人だということしかわかりません。ですから、一応、人間ではありそうです。
 ここで、日月神示が記す天人級の人を2分割にして分類しているくだりがあるのでご紹介します。
 ひふみ神示 黄金の巻 第九十二帖
 つつましく、正しくして行けば その国々で一切不足なく暮して行けるやうに何も彼も与へてあるに気付かんのか。天災地変は人間の心のままと申してあらう。豊作、凶作 心のままぞ。今のままで行けば何うなるか、誰にも判らんであらうが、神示通りに出て来ること、未だうたがってゐるのか。
ひつくとみつくの民あると申してあらう。ひつくの民は神の光を愛の中に受け、みつくの民は智の中に受ける。愛に受けると直ちに血となり、智に受けると直ちに神経と和して了ふのであるぞ。二つの民の流れ。(一月三日)

 ひつくの民は、白鳥でしょう。みつくの民は、神通力による者 でしょう。しかし、日月神示のこの件は、難解で、実は私にもよくわかりません。しかし、地球に生まれてくる天人級の存在は、ほとんどがみつくの民だそうです。しかし、お釈迦様は、太陽の裔と、おっしゃっているのでひつくの民なのではないかと思っています。
 “心ある人”は、少し曖昧な言い方ですから、“自己を正しく治め”と書き換えます。
 白鳥と神通力による者は、もちろん、人間です。少し、系統が違うだけです。彼らが努力することにより、真人に近づいた時に、禅定により知慧を得る時の発現が異なるのでしょう。すべての人間に課せられている最終課題は、ズバリ、「人々は、自己を正しく治め、悪魔とその軍勢にうち勝てば、世界から連れ去られる。 」こと、つまり、輪廻からの解脱です。
***(書換え詩)*************
174)書き換え不要

175)白鳥は太陽の道を行き、神通力による者は虚空(ソラ)を行く。人々は、自己を正しく治め、悪魔とその軍勢にうち勝てば、世界から連れ去られる。


詩番号 176、177
***(元データ)*************
176)唯一なることわりを逸脱し、偽りを語り、彼岸の世界を無視している人は、どんな悪でもなさないものは無い。
177)物惜しみする人々は天の神々の世界におもむかない。愚かな人々は分かちあうことをたたえない。しかし心ある人は分かちあうことを喜んで、そのゆえに来世には幸せとなる。
***(判定)*************
176)B
177)B
***(コメント)*************
176)彼岸の世界=安らぎ(解脱後の世界、ニルヴァーナ、涅槃)の世界とします
177)“心ある人”は、この詩から考えて、賢い人と取りましょう。天の神々の世界に赴かないという表現は、後代に付け加えられたものでしょうから、削除します。
***(書換え詩)*************
176)唯一無二の真理を逸脱し、偽りを語り、安らぎの世界を無視している人は、どんな悪でもなさないものは無い。
177)愚かな人々は分かちあうことをたたえない。しかし賢い人々は分かちあうことを喜ぶ。そして、それぞれが、自己にあいふさわしい来世に赴く。
詩番号 178
***(元データ)*************
178)大地の唯一の支配者となるよりも、天に至るよりも、全世界の主権者となるよりも、聖者の第一階梯(カイテイ)(預流果)のほうがすぐれている。
***(判定)*************
178)D
***(コメント)*************

聖者の第一階梯(カイテイ)(預流果)に関しては、怪しげな解説が付きまとうので、「自己を治め、真人となるほうが」と書き換えます。
***(書換え詩)*************
178)大地の唯一の支配者となるよりも、天に至るよりも、全世界の主権者となるよりも、自己を治め、真人となるほうがすぐれている。

(第13章 世の中 終わり)

2018年6月27日水曜日

第20章 道 (元データと判定・解釈・考察と書き換え)

訂正履歴)
289の書き換え詩を書き直した。取り消し線と赤字で対応(180703
真理のことば 第20章 道 

詩番号 273~276
***(元データ)*************
273)
もろもろの道のうちでは<八つの部分よりなる正しい道>が最もすぐれる。
もろもろの真理のうちでは<四つの句>(=四諦)が最もすぐれている。
もろもろの徳のうちでは<情欲を離れること>が最もすぐれている。
人々のうちで<眼ある人>(=ブッダ)が最もすぐれている。

274) これこそ道である。(真理を)見るはたらきを清めるためには、この他に道は無い。汝らはこの道を実践せよ。これこそ悪魔を迷わして(打ちひしぐ)ものである。

275)汝らがこの道を行くならば、苦しみをなくすことができるであろう。(棘が肉に刺さったので)矢を抜いて癒す方法を知って、わたくしは汝らにこの道を説いたのだ。

276)汝らは(みずから)つとめよ。もろもろの如来(=修行を完成した人)は(ただ)教えを説くだけである。心をおさめて、この道を歩む者どもは、悪魔の束縛から脱れるであろう。

***(判定)*************
273)D
274)A
275)A
276)A
***(コメント)*************
総評)
 この4詩については、お釈迦様がおっしゃったと考えておりますが、いつものお釈迦様ではなく、別の存在、多分、如来様からのメッセージを届けたのでしょう。詩276に珍しい言葉、如来という言葉があるのは、このメッセージの出どころが、どちらかの如来様だということを、暗に示しているのでしょう。どう考えても、突然、如来という言葉は変です。
 また、汝という言葉も、お釈迦様の教えとしては、とても珍しいです。“汝”とは同等以下の二人称に使うようです。ですから、この教えは、人間のお釈迦様が、どちらかの如来様から受けたメッセージと、私は考えています。
 そして、“悪魔”という言葉も、真理のことばではあまり見かけないのです。(自分から生じる)悪などの表現はしますが、第三者的な悪魔という言葉は、あまりお使いになりません。
 以上から、この一連の詩は、非常に異質な感じがするのです。私は、悪魔の改ざんによるものを、一番初めに疑いました。ただ、273)の冒頭の詩には、後代の改ざんが見られますが、それ以外は、あまりいじられていない感じがします。
 高次元からのメッセージというのは、なかなか、この三次元で生きている人間には、読み解くのが難しいので、改ざんもしにくいのでしょう。日月神示で、つくづく、そう思います。

 お釈迦様は、人間であった以上、審神者をなさっていたと思うのです。もちろん、ご自身は自分の精神を鍛え上げて、偏りなく考える癖をお付けになったのでしょうが、この過程が正思惟で、さらに、瞑想・禅定により、正念、正定を完成させて知慧を得たときに、これらのメッセージが得られたのでしょう。これが、審神者の究極で禅定による知慧の獲得です。
 審神者は、もう少し、簡単な拓法(悟りのよすがの第一段階)でも、使うと考えていますが、霊格の各段階で、審神者として行うことが、異なるのです。

 以下では、各詩ごとに、読み進めていきます。

273)これは、第20章 道 冒頭詩 273の考察の文章を改定したものです。

 この本を読みだした頃から、この詩全体から、とても宗教の匂いがプンプンして、意味不明だったのです。
 八正道、四諦は、解説書を読めば、一回では分からなくとも、なんとか理解できるのですが、詩全体がちぐはぐなんです。ですから、その一つ一つ、順を追って見ていきます。


“もろもろの道のうちでは<八つの部分よりなる正しい道>が最もすぐれる。”
 この詩中の八正道( 「悟りのよすが」、「八正道」、「五根」について参照)に関する詩句は、ずっと違和感があったのですが、何年も放置しました。
 人類にとって仏道が一番有益だという事実を受け入れた上で、仏道=「八正道」or 「悟りのよすが」 or 「五根」か?という問いの答えが、この詩句の内容です。

 今、じっくり考えてみると、この違和感の原因は、この詩句の立ち位置が、以下の2点に関して、奇妙だからだと気付きました。

 第1点は、「八正道」がお釈迦様の時代にはないのです。いわゆる、後付けの教えです。一方、「悟りのよすが」 、「五根」についても、お釈迦様の時代には存在した概念だと思うのですが、これらの概念を、お釈迦様が持ち出したとは、非常に考えにくいのです。なぜかといえば、お釈迦様の説く精進の真髄は、“怠らずに励む”→“努め励む”→“学び努める”なのです(第6章 賢い人前文参照)。これは、真理のことばを一通り読めば、そう感じる人が多いと思います。

 第2点は、ヒンズー教やジャイナ教が競合している中で、お釈迦様にとっては、人の道についての教えの中で、人間にとって有益なものが一つもないと確信なされたので、あの活動をなさったのです。その目的は人類救済。
 自分が活動して説く教えの立ち位置を宣言する前に、いきなり八正道とか言うはずがありません。仏道=「八正道」or 「悟りのよすが」 or 「五根」か?を議論する前に、お釈迦様は、自分の説く仏道の立ち位置を示すはずです。しかも、これは、この世にどっぷり浸かって、高みから見ることができない当時のお釈迦様がしたのではなく、人間よりも高次の存在が、人間に向かって、これが正しい道だよ!と、お釈迦様を通して宣言したのではないかと考えています。

 ですから、この詩句は、お釈迦様が説く仏道が、どのようなものであるのかを宣言する詩句に書き換えます。
 
 ちなみに、私は「五根」は、知慧を得るまでが範囲として入りますので、神道の領域に入っていると思います。知慧を得て、活動する人たちは真人と考えられ、次の神道のステップに入っている人であると、この“真理のことば” では定義しましたので、この定義に従うと、「五根」は、真人の領域に入っているとなります。
 しかし、これは厳密論で、あまり好ましくなく、どこまでが仏道でどこまでが神道でと一本線を綺麗に引こうというのが、人間の私には無理だと思われます。
 現在では、仏道の中心が八正道であると言われていますし、八正道については、お釈迦様が述べたことではないのですが、「悟りのよすが」や「五根」よりは、項目が8個になっているのでわかりやすいかもしれないと思います。したがって、八正道が仏道の中心ではないにしても、骨格がであるということができるとは思っています。


“もろもろの真理のうちでは<四つの句>(=四諦)がもっともすぐれている。”

 この詩句は、四諦(第25章 修行僧(修正版)の詩番号188のコメントを参照)という概念が、あまたある仏道の真理の頂点にあるということを宣言するための詩です。その他の真理は、“真理のことば”内でたくさん語られますが、それら全ては、この四諦という真理の枝葉だと捉えるのです。これは、実際にお釈迦様が考えて説かれたことだと思います。


“もろもろの徳のうちでは<情欲を離れること>が最もすぐれている。”

 徳とは、まっすぐな心で行う行為だそうです。何か見返りを期待するための善行とかでは、一応、徳を積んだと言われても、大した徳ではないのでしょう。その見返りへの執着を離れる(捨てる)ことが最高の徳だということを表しました。情欲は執着と一般性のある言葉に置き換えました。


“人々のうちで<眼ある人>(=ブッダ)が最もすぐれている。”
 文章を整えました。
 

***(書換え詩)*************
273)
人の道の中では、仏道が最もすぐれている。
人の道の真理の中では、四諦(苦・集・滅・道)が最上である。
もろもろの徳の中では、執着から離れることが最もすぐれている。
人々の内では、ブッダ(=眼ある人)が最もすぐれている。

274)書き換え不要

275)書き換え不要

276)書き換え不要



詩番号 277~279
***(元データ)*************
277)「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)と明らかな知慧をもって観るときに、人は苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。

278)「一切の形成されたものは苦しみである」(一切皆苦)と明らかな知慧をもって観るときに、人は苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。

279)「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)と明らかな知慧をもって観るときに、人は苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
***(判定)*************
全てA
***(コメント)*************
 私は、お釈迦様がおっしゃったされる教えのハイライトは、実は、この3つではないかと思っています。「明らかな知慧をもって見る」の目的語がないので、目的語をして、「この世の全てを」を付け加えて、3詩を一つに書き換えます。
***(書換え詩)*************
「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)
「一切の形成されたものは苦しみである」(一切皆苦)
「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)
と明らかな知慧をもってこの世の全てを観るときに、人は苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。



詩番号 280~282
***(元データ)*************
280)起きるべき時に起きないで、若くて力があるのに怠りなまけていて、意志も思考も薄弱で、怠惰でものうい人は、明らかな知慧によって道を見出すことがない。

281)ことばを慎しみ、心を落ち着けて慎しみ、身に悪を為してはならない。これらの三つの行ないの路を浄くたもつならば、仙人(=仏)の説きたもうた道を克ち得るであろう。

282)実に心が統一されたならば、豊かな知慧が生じる。心が統一されないならば、豊かな知慧がほろびる。生じることとほろびることとの、この二種の道を知って、豊かな知慧が生ずるように自己をととのえよ。
***(判定)*************
全てA
***(コメント)*************
280)愚かな人に対しての教え
281)賢い人に対しての教え。仙人をブッダと書き換えましょう。
282)賢い人でも真人に近い人より霊格が上の人に対しての教え。自己は魂です
***(書換え詩)*************
280)書き換え不要

281)ことばを慎しみ、心を落ち着けて慎しみ、身に悪を為してはならない。これらの三つの行ないの路を浄くたもつならば、ブッダの説きたもうた道を克ち得るであろう。

282)書き換え不要



詩番号 283~285
***(元データ)*************
283) 一つの樹をを伐るのではなくて、(煩悩の)林を伐れ。危険は林から生じる。(煩悩の)林とその下生えとを切って、林(=煩悩)から脱れた者となれ。修行僧らよ。

284)たとい僅かであろうとも、男の女に対する欲望が断たれないあいだは、その男の心は束縛されている。──乳を吸う子牛が母牛を恋い慕うように。

285)自己の愛執を断ち切れ、──池の水の上に出て来た秋の蓮を手で断ち切るように。静かなやすらぎに至る道を養え。めでたく行きし人(=仏)は安らぎを説きたもうた。
***(判定)*************
283)A
284)D
285)B
***(コメント)*************
283)なし

284)
 男女間の欲望に関しては、今、日本でも結婚・家庭が乱れて、とても大変な事態だと思うのですで考察しました。参考に読んでください。
 禁じられているのは、異性間の淫らな欲望です。欲望自体は、不足を感じて欲しがることという意味ですから、良くも悪くもないニュートラルな意味合いで捉えます。これにより、求めて良い欲望と悪い欲望があるということが表現しやすくなります。
 この詩は男性の女性に対する性的な欲求を書いていますが、現在は、男女平等社会へ駒を進めつつあるので、男女両方に注意を喚起したほうが、良い時代だと思いますので、これに沿って、書き換えました。
 「乳を吸う子牛が母牛を恋い慕うように」という文は、子どもが母親を慕う当然の事をあらわしていますが、それを男女間の想いと重ねています。これが妥当だとは考えにくいので、削除します。

285)ハスが生い茂るのは、夏です。秋は、すでにハスはなくなっていて寂しくなっているのですが、そこに、突如として、むくむくと生えてくる時期外れのハスのことを言っていますが、これはなくなったと思って安心していると、出てくる煩悩のことです
 愛執という言葉を、煩悩への執着と書き直させてください。
 ブッダや如来は教えを説くだけであるということは、安らぎを説いたのではなく、安らぎへ至る道(方法)を説いたのです。
***(書換え詩)*************
283) 一つの樹をを伐るのではなくて、(煩悩の)林を伐れ。危険は林から生じる。(煩悩の)林とその下生えとを切って、林(=煩悩)から脱れた者となれ。修行僧らよ。

284)たとい僅かであろうとも、男女の淫らな欲望が断たれないあいだは、その人の心は束縛されている。

285)自己の煩悩の執着を断ち切れ、─池の水の上に出て来た秋の蓮を手で断ち切るように。静かなやすらぎに至る道を選び進め。めでたく行きし人であるブッダは安らぎへの道を説きたもうた。



詩番号 286~289
***(元データ)*************
286)「わたしは雨期にはここに住もう。冬と夏とにはここに住もう」と愚者はこのようにくよくよと慮って、死が迫って来るのに気がつかない。

287)子どもや家畜のことに気を奪われて心がそれに執著している人を、死はさらって行く。──眠っている村を大洪水が押し流すように。

288)子も救うことができない。父も親戚もまた救うことができない。死に捉えられた者を、親族も救い得る能力がない。

289)心ある人はこの道理を知って、戒律をまもり、すみやかにニルヴァーナに至る道を清くせよ。
***(判定)*************
286)~288)A
289)D
***(コメント)*************
286)~288)なし

289)戒律は、教えを社会的立場によって咀嚼し直したものなので、普遍性が乏しいのです。したがって、戒律ではなく、より普遍性が高い教えに変えます。ニルヴァーナは安らぎと表記しましょう。
 道を清めるのではなく、もともと清い道(仏道)を、自分を清めて歩みなさいということです。
***(書換え詩)*************
286)~288)書き換え不要

289)心ある人はこの道理を知って、教えをまもり自らを清めすみやかに安らぎに至る道を清くせよ。安らぎに至る仏道をすみやかに進め。
 

(第20章 道 終わり)