2018年6月11日月曜日

第25、25甲 章 修行僧,仏弟子 書換え詩一覧 その5


訂正履歴
仏弟子の最後に、第21章さまざまなこと から移動した詩296)〜301)を追加しました。(180919)
第10章 暴力より詩[141][142]を第25章 修行僧 の一番初めに移動 (181005)
22章 悪いところ(地獄改め)から詩(308), (311), (313)の順で詩(371)の後に移動 (181022)


第25、25甲 章 修行僧,仏弟子
書換え詩一覧その5
()は中村元氏の詩番号、 [  ]は編集した詩のシリアル番号 

真理のことば 第25章 修行僧出家修行者に向けて 書換え詩一覧
[141](297) 第10章 暴力より移動[141][142]は第25章 修行僧 の一番初めに移動)
 裸の行も、髻に結うのも、身が泥にまみれるのも、断食も、露地に臥すのも、塵や泥を身に塗るのも、蹲って動かないのも、_疑いを離れていない人を浄めることはできない。

[142](298)
 身の装いはどうあろうとも、行い静かに、心を治め、身をととのえて、慎みぶかく、行い正しく、生きとし生けるものに対して暴力を用いない人こそ、<修行僧>である。

(380) [104]
 実に魂は心の主(あるじ)でり、帰趨(よるべ)である。故に魂により心をととのえよ。_商人が良い馬を調教するように。

(375)[105]
この世において明らかな知慧を求める修行僧の初めのつとめは、
感官に気をくばり、
満足し、
戒律をつつしみ行ない、
怠らないで、
淨らかに生きる善い友とつき合うことである。
(392)[106]
 正しく覚った人の説かれた教えを、はっきりと学び得たなら、教示した人が、いかなる人であろうとも、その時のその人を恭しく敬礼しつつ、しかし、その師に頼ることなく、常に自分で考え判断する自立した心を養え。

(365)[107]
 自分の得たものを軽んじてはならない。他人の得たものを羨むな。他人を羨む修行僧は心の安定を得ることができない。
(366)[108]
 たとい得たものは少なくても、修行僧が自分の得たものを軽んずることが無いならば、怠ることなく清く生きるその人を、神々も称讃する。
(360) [109]
 修行僧は、眼について、耳について、鼻について、舌について、身について、言葉について、心について慎しもう。
(361)[110]
 修行僧は、あらゆることについて慎しめば、すべての苦しみから脱(のが)れる。

(363)[111]
 修行僧が、心が浮わつくことなく、言葉をつつしみ、思慮して語り、事実と真理とを明らかにするならば、その人の説くところはやさしく甘美になる。
(376)[112]
 その行ないが親切であれ。(何ものでも)わかち合え。善いことを実行せよ。そうすれば、喜びにみち、苦悩を減するであろう。
(379)[113]
 みずから自分を励ませ。みずから自分を反省せよ。修行僧よ。魂を護り、正しい念いをたもてば、汝は安楽に住するであろう。
(390)[114]
 愛好するものから心を遠ざけること、このことは修行僧にとって必要なことである。

(391)[115]
 身にも、ことばにも、心にも、悪い事を為さず、この三つのところについてつつしんでいる人、─かれをわれは<修行僧>と呼ぶ。

(369)+ (377) [116]
 修行僧よ。この舟から水を汲み出せ。汝が水を汲み出したならば、舟は軽やかにやすやすと進むであろう。貪りと怒りと怠惰を断ち、ジャスミンの花が花びらを捨て落とすように、貪りと怒りと怠惰を捨て去れば、汝は安らぎにおもむくであろう。


(370) [117]
 まず、五下分結を断ち、次に、五上分結を捨てよ。
さらに、信、精進、念、定、慧による五つ(のはたらき)を修めよ。
そうすれば、修行僧は、五つの執著-貪り、怒り、迷妄、高慢、誤った見解-を超え、<激流を渡った者>とよばれる。

(372)[118]
 明らかな知慧の無い人には精神の安定統一が無い。精神の安定統一していない人には明らかな知慧が無い。精神の安定統一と明らかな知慧とがそなわっている人こそ、すでに安らぎに帰している。


(371)[119]
 修行僧よ。瞑想せよ。なおざりになるな。汝の心を欲情の対象に向けるな。なおざりのゆえに鉄丸を呑むな。(灼熱した鉄丸で)焼かれるときに、「これは苦しい!」といって泣き叫ぶな。


(308)[368] 第22章 悪いところ(地獄改め)から、(308), (311), (313)の順で移動
 戒律を守らず、自ら慎むことがないのに国の信徒の施しを受けるよりは、火炎のように熱した鉄丸を食らうほうがましだ。

(311)[369]
 茅草でも、とらえ方を誤ると、手のひらを切るように、修行僧の行も、誤っておこなうと、地獄にひきずりおろす。

(313)[370]
 もしも為すべきことであるならば、それを為すべきである。それを断乎として実行せよ。行ないの乱れた修行者はいっそう多く塵をまき散らす。


(373)+(374)[120]
 修行僧が念と定の修行のために、人のいない空家に入って心を静め真理を正しく観ずるならば、人間を超えた楽しみがおこる。
 この修行により、個人存在を構成している諸要素の生起と消滅とを正しく理解するにつれて、個人存在の不死のことわりを知る。そして、それによる喜びを、彼は体得する。

(368)[121] (381)
 ブッダの教えを喜び、慈しみに住する修行僧は、この世での悪因の形成が止み、安楽な、静けさの境地に到達するであろう。

(364)[122]
 真理を喜び、真理を楽しみ、真理をよく知り分けて、真理にしたがっている修行僧は、正しいことわりから墜落することがない

(378)[123]
 修行僧が、身も静か、語(ことば)も静か、心も静かで、よく精神統一をなし、世俗の享楽物を吐きすてたならば、<バラモン>と呼ばれる。

(367)[124]
 名称とかたちについて「わがもの」という想いが全く存在しない、何ものも無いからとて憂えることの無い修行僧は、<バラモン>とよばれる。

(382)[125]
 たとい年の若い修行僧でも、仏の道にいそしむならば、雲を離れた月のように、この世を照らす。
(第25章 修行僧 終わり)



真理のことば 第25甲章 仏弟子;出家修行者に向けて 書換え詩一覧

(183)[126]
 すべて悪しきことをなさず、善いことを行ない、自己の心を浄めること、──これが諸の仏の教えである。

(185)[127]
 他人を罵らず、害(がい)せず、自分は戒律を守り、食事に関して(適当な)量を知り、淋しいところにひとり臥し、坐し、心に関することにつとめはげむ。──これがもろもろのブッダの教えである。

(184)[128]
 忍耐・堪忍は最上の苦行である。ニルヴァーナ(安らぎ)は最高のものであると、もろもろのブッダは説きたまう。他人を害する人は出家者ではない。他人を悩ます人は<修行僧>ではない。

(187)[129]
 天上の快楽にさえもこころ楽しまない。正しく覚った人(=)の弟子は妄執の消滅を楽しむ。

(194)[130]
 もろもろのみ仏の現われたまうのは楽しい。正しい教えを説くのは楽しい。つどいが和合しているのは楽しい。和合している人々がいそしむのは楽しい。

(188)[131]
 人々は恐怖にかられて、山々、林、園、樹木、霊樹など多くのものにたよろうとする。

 (189)[132]
 しかしこれは安らかなよりどころではない。これは最上のよりどころではない。それらのよりどころによってはあらゆる苦悩から免れることはできない。

(190) [133]
 四つの尊い真理が、安らかなよりどころであり、最上のよりどころであり、あらゆる苦悩から免れるよりどころである。

 (191)[134]
 この四つの尊い真理とは、
(1)苦しみと、
(2)苦しみの成り立ちと、
(3)苦しみの超克(チョウコク)と、
(4)苦しみの終減(オワリ)におもむく八つの尊い道(八聖道)
 である。

(192)
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(296)[260]
ゴータマの弟子は昼も夜も起きている間は、常にブッダについて念定(禅定)すべきである。
これにより、彼らは、覚醒するか、もしくは、常によく覚醒しているのである。

(297)[261]
ゴータマの弟子は昼も夜も起きている間は、常に法について念定(禅定)すべきである。
これにより、彼らは、覚醒するか、もしくは、常によく覚醒しているのである。

(298)[262]
ゴータマの弟子は昼も夜も起きている間は、常に僧に対して念定(禅定)すべきである。
これにより、彼らは、覚醒するか、もしくは、常によく覚醒しているのである。

(299)[263]
ゴータマの弟子は昼も夜も起きている間は、常に身体について念定(禅定)すべきである。
これにより、彼らは、覚醒するか、もしくは、常によく覚醒しているのである。

(300)[264]
ゴータマの弟子は昼も夜も起きている間は、常に武力と暴力について念定(禅定)すべきである。
これにより、彼らは、覚醒するか、もしくは、常によく覚醒しているのである。

(301)[265]
ゴータマの弟子は昼も夜も起きている間は、念定(禅定)を楽しむべきである。
これにより、彼らは、覚醒するか、もしくは、常によく覚醒しているのである。


(第25甲章 仏弟子 終わり)