2018年6月5日火曜日

第14章 ブッダ(元データと判定・解釈・考察と書き換え)

訂正履歴
411 413の書き換え詩の学び務めよの前に句点を付け加えた。第26章 バラモン(元データと判定・解釈・考察と書き換え)と連動済み。180613
407の書き換え詩の文章を整えた。取り消し線で示した。第26章 バラモン(元データと判定・解釈・考察と書き換え)と連動済み。180613
詩398を置き換える。詩398を第24章 執着と欲望と汚れの詩356~359 と合体181016)
・詩421を置き換える。詩421第24章 執着と欲望と汚れの詩348と合体緑表示(181016)
詩403の後に詩351, 352を 第24章 執着と欲望と汚れから移動181016)

一番初めに詩353を 第24章 執着と欲望と汚れから移動181016)
第14章 ブッダ
 ブッダへの到達には、在家からの到達と出家からの到達があります。
 在家であっても、適時、瞑想に近いことは行わなければなりませんが、それは、もちろん、修行僧の瞑想と異なるでしょう。しかし、在家(道を実践する人)が深い思考(熟考)をしなくてはいけない場合などは、修行僧らに課せられる瞑想と、ほぼ同じ状態が必要になると思います。
 在家の熟考とは、具体的には学問的なものや技術的なもの、そして芸術的なものがあるのでしょう。正精進には、思考するという作業が必ず必要になります。ですから、出家側の瞑想と対比するものとして、在家側には熟考があると考えましょう。
 したがって、最終地点のブッダは瞑想と熟考のどちらでもたどり着けるという結論に立って、この章の編集を行います。
 詩の並び順は、179, 180, 182, 193, 195, 196, 403, 414, 397, 398, 417, 418, 419, 420, 421, 422, 423となります。当初、ブッダの章に分類した詩 401, 407, 402, 410, 411, 412, 413はバラモンへの戒律として、第26章 バラモン 詩388)の後に戻します(この記事で考察しています。)。

詩番号353(第24章執着と欲望と汚れから移動)

***(元データ)*************
353)
 われはすべてに打ち勝ち、すべてを知り、あらゆることがらに関して汚されていない。すべてを捨てて、愛欲は尽きたので、こころは解脱している。みずからさとったのであって、誰を(師と)呼ぼうか。

***(判定)*************
353)D
***(コメント)*************
353)第14章ブッダのトップに置きます。
“すべてを捨てて、愛欲は尽きたので”→“全ての執着を捨てて、汚れが尽き”と書き換えます。
***(書換え詩)*************
353)

 我は全てに打ち勝ち、全てを知り、あらゆることがらに関して汚されていない。全ての執着を捨てて、汚れが尽き、心は解脱している。自らさとったのであって、誰を(師と)呼ぼうか。

詩番号 179、180
***(元データ)*************
179)ブッダの勝利は敗れることがない。この世においては何人も、かれの勝利には達しえない。ブッダの境地はひろくて涯しがない。足跡をもたないかれを、いかなる道によって誘い得るであろうか?

180) 誘なうために網のようにからみつき執著をなす妄執は、かれにはどこにも存在しない。ブッダの境地は、ひろくて涯しがない。足跡をもたないかれを、いかなる道によって誘い得るであろうか?
***(判定)*************
179)D
180) A
***(コメント)*************
179)仏典では、この世にいて、ブッダになることが述べられている一方で、「この世においては何人も、かれの勝利には達しえない」と言われても意味がわかりません。伝承ミスかもしれないのですが、原文を想像できないのと、この詩句は、あまり重要ではないと思うので、削除します。しかし、三次元で生まれてきた人間の最終到達地点は、ブッダと考えてよいでしょう。その上があるのかどうかは、私にはわかりません。
***(書換え詩)*************
179)ブッダの勝利は敗れることがない。ブッダの境地はひろくて涯しがない。足跡をもたないかれを、いかなる道によって誘い得るであろうか?

180) 誘なうために網のようにからみつき執著をなす妄執は、かれにはどこにも存在しない。ブッダの境地は、ひろくて涯しがない。足跡をもたないかれを、いかなる道によって誘い得るであろうか?


詩番号 182、193
***(元データ)*************
182)人間の身を受けることは難しい。死すべき人々に寿命があるのも難しい。正しい教えを聞くのも難しい。もろもろのみ仏の出現したもうことも難しい。

193) 尊い人(=ブッダ)は得がたい。かれはどこにでも生れるのではない。思慮深い人(=ブッダ)の生れる家は、幸福に栄える。
***(判定)*************
182)D
193)B
***(コメント)*************
182)「人間の身を受けることは難しい。」とは、修行としての人生は貴重ですから、大切にせよということです。
 「死すべき人々に寿命があるのも難しい。」は、死ぬと言われている人間も、死によって、無に帰るということはないという趣旨ですが、うまく伝わりません。これは、なかなか難しく、文章技術のいることです。頑張って、書き換えてみます。
193) 「幸福に栄える」とは、中村氏の注釈によると「光り輝く」という意味だそうです。
***(書換え詩)*************
182)
人間の身を受け、人生修行することは貴重で、無駄にしてはならない。
死ぬ運命にあると言われる人間は、実は、身体が死んでも、魂は連続的に存在する。
しかし、もろもろのみ仏の出現したもうことは稀であり、よって、正しい教えを聞くのは難しい。

193) 尊い人(=ブッダ)は得がたい。かれはどこにでも生れるのではない。思慮深い人(=ブッダ)の生れる家は、光り輝く。


詩番号 195、196
***(元データ)*************
195)+196)すでに虚妄な論議をのりこえ、憂いと苦しみをわたり、何ものをも恐れず、安らぎに帰した、拝むにふさわしいそのような人々、もろもろのブッダまたその弟子たちを供養するならば、この功徳はいかなる人でもそれを計ることができない。
***(判定)*************
179)D
180)A
***(コメント)*************
 供養は、物品を捧げることですから、どうも全体としてお布施、供養礼賛の詩になっています。ブッダや真人(含バラモン)、修行僧は、庶民から半強制的に物品の施しを受けなくては生きていけないような守護が付いているわけではありません。しかし、庶民は、ブッダや真人(含バラモン)、修行僧を正しく見分けて、最大限の敬意を示し、教えを請わなくてはなりません。それができるか否かが、在家庶民たちの霊格の判断基準であって、修行でもあるのです。一方では、在家庶民が安心して怠らずに励むことができるように、陰に日向に、この世の中や彼らに尽くすのが出家者や真人の務めであり、修行です。
 ただ、出家側から教えをもらった際に、お礼として供養品を捧げることは禁じられています。出家側がそれを受け取ることも禁止されています。これは、出家者はブッダや神によって生かされる存在で、彼らが携える命も教えも、出どころが高次元のものです。これらを金品に変えることを、ブッダや神が強く禁じています。しかし、在家の真人も、ほぼ意図的に金銭のことを考えずとも、スムーズにお金が流れているでしょうが、真人が出家者でなければ、教えや知識、技術による金品の授受は正当です。
 このような観点でいえば、この世では、大方の人たちは在家ですし、出家者の修行僧がたくさんいる必要はなさそうです。ですから、現状のお坊さんも在家です。ただし、僧侶という言葉は使用せず、住職とか、和尚さん、お坊さんのみで対応したほうが適切だったとは思います。すでに、僧という言葉も日本では、相当還俗的ですので、現在では、本当の意味での出家修行僧は行者という言葉で言い表すのが、一番適切かもしれません。
 出家でも在家でも、最終目標地点はブッダです。在家や出家は、それぞれ、どんな利点があるのでしょうか?私はどちらかといえば出家に近い在家です。真人相になれば、両者の違いは狭まる一方だと思いますが、出家は、適切に過ごせば、霊格の向上スピードが早いことは確かだと思います。しかし、間違えて過ごせば、在家にいるよりも、霊格の堕落が激しいのです。このような特徴があるために、ブッダたちは人々を出家で修行させることを回避なさっているのでしょう。
***(書換え詩)*************
195)+196)すでに虚妄な論議をのりこえ、憂いと苦しみをわたり、何ものをも恐れず、安らぎに帰した、拝むにふさわしいそのようなブッダ、そして、その弟子たちに敬意を示し教えを請うならば、その人は功徳を得る。


詩番号 403、351、352、414、397、398
***(元データ)*************
403)明らかな知慧が深くて、聡明で、種々の道に通達し、最後の目的を達した人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

351)さとりの究極に達し、恐れること無く、無欲で、わずらいの無い人は、生存の矢を断ち切った。これが最後の身体である。

352)愛欲を離れ、執著なく、諸の語義に通じ諸の文章とその脈絡を知るならば、その人は最後の身体をたもつものであり、「大いなる知慧ある人」と呼ばれる。

414)この障害・険道・輪廻(サマヨイ)・迷妄を超えて、渡りおわって彼岸に達し、瞑想し、興奮することなく、疑惑なく、執著することなくて、心安らかな人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

397)すべての束縛を断ち切り、恐れることなく、執著を超越して、とらわれることの無い人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

398) 紐と革帯と網とを、手網ともども断ち切り、門をとざす閂(カンヌキ)を滅ぼして、めざめた人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
***(判定)*************
403)D
351)C

352)C
414)D
397)D
398) D
***(コメント)*************
 輪廻転生外に出るには、どうしてもカルマの清算の終了が必要ですが、バラモンはカルマの再生産は止まっていますが、溜まってしまっているカルマの清算を終えていない、そして、超人的ではないという定義をしましたので、バラモンは最後の身体(輪廻転生外に出る)になっていません。ですから、すべての詩が、バラモンではなくブッダの特徴を謳っていると判断しました。
 また、在家(道を実践する人)経由でブッダになる人たちもいるという前提で、詩をアレンジします。

351)、352)
 第14章ブッダ 詩403の後に置きます。続いて詩351)、352)を配置します。
 輪廻から外れるか否かが大切な問題ですが、最後の身体かどうかは、魂個人ではなく、全体から決定されるのでしょうから、あまり議論する価値はないと思います。従って、最後の身体についての部分は削除します。

414)瞑想については、バラモンが行う代表的な修行方法ですが、在家真人もブッダになるには、熟考によって体得していると考えられます。つまり、瞑想・熟考が智慧を得るための手段と広がります。

398)中村氏の注釈によると、紐=怒り、革=愛執、帯=誤った見解、網=潜んでいる煩悩、閂=無明だそうです。第25章 修行僧 370詩の五上分結と五下分結で分類すると、はじめの2つが主に、五下分結、後の2つが五上分結、帯=誤った見解は両者にまたがっているのでしょう。




 第24章 執着と欲望と汚れ 356)~359)を この詩(398)に付け加えて、分かりやすくします。
 第18章 汚れ 詩249)で見返りを求める施し(供養)は禁止されましたので、大いなる果報を受けるための供養は反則です。したがって、全ての詩の後半部分は削除します。
 さらに、定義に従って、356)の愛欲は欲望と置き換えることにしましたので、359)の欲求は欲望に含まれると考えます。
 したがって、この4詩をまとめ、
 「この世の人々は、欲望、怒り、誤った見解(迷妄)によって害われる。」
とします。

 また、合体する398)の元データと書換え詩は以下の通りです。
元データ
 紐と革帯と網とを、手網ともども断ち切り、門をとざす閂(カンヌキ)を滅ぼして、めざめた人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
書換え詩
 怒りと愛執と誤った見解と、潜在的な煩悩ともども断ち切り、無明を滅ぼして、めざめた人、─その人を我は<ブッダ>と呼ぶ。

 この詩を書き換えた後の、考察作業から、
 愛執→欲、潜在的な煩悩→潜在的な煩悩である汚れ、無明を滅ぼして→無明が消失した

と置き換えます。
***(書換え詩)*************
403)明らかな知慧が深くて、聡明で、種々の道に通達し、最後の目的を達した人、──その人を我は<ブッダ>と呼ぶ。

351)
 さとりの究極に達し、執着なく、恐れること無く、わずらいの無く、汚れを滅ぼしつくした人は、生存の矢を断ち切った。
352)

 執着をなくし欲望の激流を離れ、諸の語義に通じ諸の文章とその脈絡を知るならば、「大いなる知慧ある人」と呼ばれる。

414)この障害・険道・輪廻(サマヨイ)・迷妄を超えて、渡りおわって彼岸に達し、瞑想・熟考し、興奮することなく、疑惑なく、執著することなくて、心安らかな人、──その人を我は<ブッダ>と呼ぶ。

397)すべての束縛を断ち切り、恐れることなく、執著を超越して、とらわれることの無い人、─その人を我は<ブッダ>と呼ぶ。

398)怒りと愛執と誤った見解とを、潜在的な煩悩ともども断ち切り、無明を滅ぼして、めざめた人、─その人を我は<ブッダ>と呼ぶ。
↓ replace(置き換え)

398)この世の人々は、欲望、怒り、誤った見解(迷妄)によって害われる。怒りと欲望と誤った見解を断ち切り、潜在的な煩悩を滅ぼし、無明が消失した、めざめた人、─その人を我は<ブッダ>と呼ぶ。


詩番号 417〜423
***(元データ)*************
417)人間の絆を捨て、天界の絆を越え、すべての絆をはなれた人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

418)<快楽>と<不快>とを捨て、清らかに涼しく、とらわれることなく、全世界にうち勝った英雄、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

419) 生きとし生ける者の生死をすべて知り、執著なく、よく行きし人、覚った人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

420)神々も天の伎楽神(ガンダルヴァ)たちも人間もその行方を知り得ない人、煩悩の汚れを滅ぼしつくした真人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

421)前にも、後にも、中間にも、一物をも所有せず、無一物で、何ものをも執著して取りおさえることの無い人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

422)牡牛のように雄々しく、気高く、英雄・大仙人・勝利者・欲望の無い人・沐浴者・覚った人(ブッダ)、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

423)前世の生涯を知り、また天上と地獄とを見、生存を滅ぼしつくすに至って、直観智を完成した聖者、完成すべきことをすべて完成した人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
***(判定)*************
417)D
418)D
419)D
420)D
421)D
422)D
423)D
***(コメント)*************
 全体に、聖書のように神々しい詩が並びます。しかし、“バラモン<ブッダですし、バラモンの定義としては、超人的な能力を有さないとしていますので、これらの詩はブッダの詩と判断し、最後に持ってきました。したがって、“かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。”を“その人を我は<ブッダ>と呼ぶ。”に書き換えます。
419)よく行きしは意味がわからないのと、削除しても大勢に影響がないので、削除します。
421)何物も所有しなのではなく、三次元の全てのものが、ブッダたちのものなのです。だから取り押える必要がないのです。
 詩348はこの詩(421)と、構造が似ており、合わせて一つにした方が、理解しやすくなると考えます。 そして、詩348+421)として置き換えます。
 詩中の前、後ろ、中間は、過去の生存、未来の生存、現在の生存だそうです。さらに捨てるものは、執着です。
 詩421の元データと書換え詩は、
(元データ)前にも、後にも、中間にも、一物をも所有せず、無一物で、何ものをも執著して取りおさえることの無い人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
(書換え詩)前にも、後にも、中間にも、全てのものを所有し、何ものをも執著して取りおさえる必要の無い人、──その人を我は<ブッダ>と呼ぶ。

です。
 詩中の前,後ろ,中間は、過去,未来,現在です。
422)ブッダ=バラモンの様な詩句となり、矛盾が生じますので(ブッダ)は削除します。
***(書換え詩)*************
417)人間の絆を捨て、天界の絆を越え、すべての絆をはなれた人、──その人を我は<ブッダ>と呼ぶ。

418)<快楽>と<不快>とを捨て、清らかに涼しく、とらわれることなく、全世界にうち勝った英雄、──その人を我は<ブッダ>と呼ぶ。

419) 生きとし生ける者の生死をすべて知り、執著なく、覚った人、──その人を我は<ブッダ>と呼ぶ。

420)神々も天の伎楽神(ガンダルヴァ)たちも人間もその行方を知り得ない人、煩悩の汚れを滅ぼしつくした真人、──その人を我は<ブッダ>と呼ぶ。

421)前にも、後にも、中間にも、全てのものを所有し、何ものをも執著して取りおさえる必要の無い人、──その人を我は<ブッダ>と呼ぶ。
↓replace(置き換え)
詩348+421)
 前(過去の執着)を捨てよ。後(未来の執着)を捨てよ。中間(今の執着)を棄てよ。
 その様な人を生存の彼岸に達したという。
 その様な人はあらゆることがらについて心が解脱していて、もはや生れと老いとを受けることが無いであろう。
 そして、前(過去)にも、後(未来)にも、中間(現在)にも、全てのものを所有し、何ものをも執着する必要がない。

 ─その人を我は<ブッダ>と呼ぶ。

422)牡牛のように雄々しく、気高く、英雄・大仙人・勝利者・欲望の無い人・沐浴者・覚った人、──その人を我は<ブッダ>と呼ぶ。

423)前世の生涯を知り、また天上と地獄とを見、生存を滅ぼしつくすに至って、直観智を完成した聖者、完成すべきことをすべて完成した人、──その人を我は<ブッダ>と呼ぶ。


詩番号 401、407、402、410〜413
***(元データ)*************
401)蓮葉の上の露のように、錐の尖の芥子のように、緒の欲情に汚されない人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

407)芥子粒が錐(キリ)の尖端から落ちたように、愛著と憎悪と高ぶりと隠し立てとが脱落した人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

402)すでにこの世において自分の苦しみの滅びたことを知り、重荷をおろし、とらわれの無い人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

410)現世を望まず、来世をも望まず、欲求がなくて、とらわれの無い人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

411)こだわりあることなく、さとりおわって、疑惑なく、不死の底に達した人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

412)この世の禍福いずれにも執著することなく、憂いなく、汚れなく、清らかな人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

413)曇りのない月のように、清く、澄み、濁りがなく、歓楽の生活の尽きた人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
***(判定)*************
417)B
418)B
419)B
420)B
421)B
422)B
423)B
***(コメント)*************
 読み進めた結果、ブッダに近いバラモンに対する戒律だと判断しましたので、第26章 バラモン 詩388)の後に挿入します(挿入後は、黄色のマーカーで記します。)。ブッダを目指すバラモンの戒律として、詩を書き換えます。
***(書換え詩)*************
401)<バラモン>は、蓮葉の上の露のように、先の錐(キリ)の尖(サキ)の芥子のように、緒の欲情に汚されてはならない。

407)<バラモン>は芥子粒が錐(キリ)の尖端から落ちたように、愛著と憎悪と高ぶりと隠し立てとが脱落しなくてはならない。

402)<バラモン>は、すでにこの世において自分の苦しみの滅びるように学び務め、重荷をおろし、とらわれを無くさなければならない。

410)<バラモン>は、現世を望まず、来世をも望まず、欲求がなくて、とらわれることがあってはならない。

411)<バラモン>は、こだわりあることなく、さとりおわって、疑惑なく、不死の底に達するよう、学び務めよ。

412)<バラモン>は、この世の禍福いずれにも執著せず、憂いなく、汚れなく、清らかになるよう、学び務めよ。

413)<バラモン>は、曇りのない月のように、清く、澄み、濁りがなく、歓楽の生活の尽きた人となるよう、学び務めよ。