2018年6月27日水曜日

第20章 道 (元データと判定・解釈・考察と書き換え)

訂正履歴)
289の書き換え詩を書き直した。取り消し線と赤字で対応(180703
真理のことば 第20章 道 

詩番号 273~276
***(元データ)*************
273)
もろもろの道のうちでは<八つの部分よりなる正しい道>が最もすぐれる。
もろもろの真理のうちでは<四つの句>(=四諦)が最もすぐれている。
もろもろの徳のうちでは<情欲を離れること>が最もすぐれている。
人々のうちで<眼ある人>(=ブッダ)が最もすぐれている。

274) これこそ道である。(真理を)見るはたらきを清めるためには、この他に道は無い。汝らはこの道を実践せよ。これこそ悪魔を迷わして(打ちひしぐ)ものである。

275)汝らがこの道を行くならば、苦しみをなくすことができるであろう。(棘が肉に刺さったので)矢を抜いて癒す方法を知って、わたくしは汝らにこの道を説いたのだ。

276)汝らは(みずから)つとめよ。もろもろの如来(=修行を完成した人)は(ただ)教えを説くだけである。心をおさめて、この道を歩む者どもは、悪魔の束縛から脱れるであろう。

***(判定)*************
273)D
274)A
275)A
276)A
***(コメント)*************
総評)
 この4詩については、お釈迦様がおっしゃったと考えておりますが、いつものお釈迦様ではなく、別の存在、多分、如来様からのメッセージを届けたのでしょう。詩276に珍しい言葉、如来という言葉があるのは、このメッセージの出どころが、どちらかの如来様だということを、暗に示しているのでしょう。どう考えても、突然、如来という言葉は変です。
 また、汝という言葉も、お釈迦様の教えとしては、とても珍しいです。“汝”とは同等以下の二人称に使うようです。ですから、この教えは、人間のお釈迦様が、どちらかの如来様から受けたメッセージと、私は考えています。
 そして、“悪魔”という言葉も、真理のことばではあまり見かけないのです。(自分から生じる)悪などの表現はしますが、第三者的な悪魔という言葉は、あまりお使いになりません。
 以上から、この一連の詩は、非常に異質な感じがするのです。私は、悪魔の改ざんによるものを、一番初めに疑いました。ただ、273)の冒頭の詩には、後代の改ざんが見られますが、それ以外は、あまりいじられていない感じがします。
 高次元からのメッセージというのは、なかなか、この三次元で生きている人間には、読み解くのが難しいので、改ざんもしにくいのでしょう。日月神示で、つくづく、そう思います。

 お釈迦様は、人間であった以上、審神者をなさっていたと思うのです。もちろん、ご自身は自分の精神を鍛え上げて、偏りなく考える癖をお付けになったのでしょうが、この過程が正思惟で、さらに、瞑想・禅定により、正念、正定を完成させて知慧を得たときに、これらのメッセージが得られたのでしょう。これが、審神者の究極で禅定による知慧の獲得です。
 審神者は、もう少し、簡単な拓法(悟りのよすがの第一段階)でも、使うと考えていますが、霊格の各段階で、審神者として行うことが、異なるのです。

 以下では、各詩ごとに、読み進めていきます。

273)これは、第20章 道 冒頭詩 273の考察の文章を改定したものです。

 この本を読みだした頃から、この詩全体から、とても宗教の匂いがプンプンして、意味不明だったのです。
 八正道、四諦は、解説書を読めば、一回では分からなくとも、なんとか理解できるのですが、詩全体がちぐはぐなんです。ですから、その一つ一つ、順を追って見ていきます。


“もろもろの道のうちでは<八つの部分よりなる正しい道>が最もすぐれる。”
 この詩中の八正道( 「悟りのよすが」、「八正道」、「五根」について参照)に関する詩句は、ずっと違和感があったのですが、何年も放置しました。
 人類にとって仏道が一番有益だという事実を受け入れた上で、仏道=「八正道」or 「悟りのよすが」 or 「五根」か?という問いの答えが、この詩句の内容です。

 今、じっくり考えてみると、この違和感の原因は、この詩句の立ち位置が、以下の2点に関して、奇妙だからだと気付きました。

 第1点は、「八正道」がお釈迦様の時代にはないのです。いわゆる、後付けの教えです。一方、「悟りのよすが」 、「五根」についても、お釈迦様の時代には存在した概念だと思うのですが、これらの概念を、お釈迦様が持ち出したとは、非常に考えにくいのです。なぜかといえば、お釈迦様の説く精進の真髄は、“怠らずに励む”→“努め励む”→“学び努める”なのです(第6章 賢い人前文参照)。これは、真理のことばを一通り読めば、そう感じる人が多いと思います。

 第2点は、ヒンズー教やジャイナ教が競合している中で、お釈迦様にとっては、人の道についての教えの中で、人間にとって有益なものが一つもないと確信なされたので、あの活動をなさったのです。その目的は人類救済。
 自分が活動して説く教えの立ち位置を宣言する前に、いきなり八正道とか言うはずがありません。仏道=「八正道」or 「悟りのよすが」 or 「五根」か?を議論する前に、お釈迦様は、自分の説く仏道の立ち位置を示すはずです。しかも、これは、この世にどっぷり浸かって、高みから見ることができない当時のお釈迦様がしたのではなく、人間よりも高次の存在が、人間に向かって、これが正しい道だよ!と、お釈迦様を通して宣言したのではないかと考えています。

 ですから、この詩句は、お釈迦様が説く仏道が、どのようなものであるのかを宣言する詩句に書き換えます。
 
 ちなみに、私は「五根」は、知慧を得るまでが範囲として入りますので、神道の領域に入っていると思います。知慧を得て、活動する人たちは真人と考えられ、次の神道のステップに入っている人であると、この“真理のことば” では定義しましたので、この定義に従うと、「五根」は、真人の領域に入っているとなります。
 しかし、これは厳密論で、あまり好ましくなく、どこまでが仏道でどこまでが神道でと一本線を綺麗に引こうというのが、人間の私には無理だと思われます。
 現在では、仏道の中心が八正道であると言われていますし、八正道については、お釈迦様が述べたことではないのですが、「悟りのよすが」や「五根」よりは、項目が8個になっているのでわかりやすいかもしれないと思います。したがって、八正道が仏道の中心ではないにしても、骨格がであるということができるとは思っています。


“もろもろの真理のうちでは<四つの句>(=四諦)がもっともすぐれている。”

 この詩句は、四諦(第25章 修行僧(修正版)の詩番号188のコメントを参照)という概念が、あまたある仏道の真理の頂点にあるということを宣言するための詩です。その他の真理は、“真理のことば”内でたくさん語られますが、それら全ては、この四諦という真理の枝葉だと捉えるのです。これは、実際にお釈迦様が考えて説かれたことだと思います。


“もろもろの徳のうちでは<情欲を離れること>が最もすぐれている。”

 徳とは、まっすぐな心で行う行為だそうです。何か見返りを期待するための善行とかでは、一応、徳を積んだと言われても、大した徳ではないのでしょう。その見返りへの執着を離れる(捨てる)ことが最高の徳だということを表しました。情欲は執着と一般性のある言葉に置き換えました。


“人々のうちで<眼ある人>(=ブッダ)が最もすぐれている。”
 文章を整えました。
 

***(書換え詩)*************
273)
人の道の中では、仏道が最もすぐれている。
人の道の真理の中では、四諦(苦・集・滅・道)が最上である。
もろもろの徳の中では、執着から離れることが最もすぐれている。
人々の内では、ブッダ(=眼ある人)が最もすぐれている。

274)書き換え不要

275)書き換え不要

276)書き換え不要



詩番号 277~279
***(元データ)*************
277)「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)と明らかな知慧をもって観るときに、人は苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。

278)「一切の形成されたものは苦しみである」(一切皆苦)と明らかな知慧をもって観るときに、人は苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。

279)「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)と明らかな知慧をもって観るときに、人は苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
***(判定)*************
全てA
***(コメント)*************
 私は、お釈迦様がおっしゃったされる教えのハイライトは、実は、この3つではないかと思っています。「明らかな知慧をもって見る」の目的語がないので、目的語をして、「この世の全てを」を付け加えて、3詩を一つに書き換えます。
***(書換え詩)*************
「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)
「一切の形成されたものは苦しみである」(一切皆苦)
「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)
と明らかな知慧をもってこの世の全てを観るときに、人は苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。



詩番号 280~282
***(元データ)*************
280)起きるべき時に起きないで、若くて力があるのに怠りなまけていて、意志も思考も薄弱で、怠惰でものうい人は、明らかな知慧によって道を見出すことがない。

281)ことばを慎しみ、心を落ち着けて慎しみ、身に悪を為してはならない。これらの三つの行ないの路を浄くたもつならば、仙人(=仏)の説きたもうた道を克ち得るであろう。

282)実に心が統一されたならば、豊かな知慧が生じる。心が統一されないならば、豊かな知慧がほろびる。生じることとほろびることとの、この二種の道を知って、豊かな知慧が生ずるように自己をととのえよ。
***(判定)*************
全てA
***(コメント)*************
280)愚かな人に対しての教え
281)賢い人に対しての教え。仙人をブッダと書き換えましょう。
282)賢い人でも真人に近い人より霊格が上の人に対しての教え。自己は魂です
***(書換え詩)*************
280)書き換え不要

281)ことばを慎しみ、心を落ち着けて慎しみ、身に悪を為してはならない。これらの三つの行ないの路を浄くたもつならば、ブッダの説きたもうた道を克ち得るであろう。

282)書き換え不要



詩番号 283~285
***(元データ)*************
283) 一つの樹をを伐るのではなくて、(煩悩の)林を伐れ。危険は林から生じる。(煩悩の)林とその下生えとを切って、林(=煩悩)から脱れた者となれ。修行僧らよ。

284)たとい僅かであろうとも、男の女に対する欲望が断たれないあいだは、その男の心は束縛されている。──乳を吸う子牛が母牛を恋い慕うように。

285)自己の愛執を断ち切れ、──池の水の上に出て来た秋の蓮を手で断ち切るように。静かなやすらぎに至る道を養え。めでたく行きし人(=仏)は安らぎを説きたもうた。
***(判定)*************
283)A
284)D
285)B
***(コメント)*************
283)なし

284)
 男女間の欲望に関しては、今、日本でも結婚・家庭が乱れて、とても大変な事態だと思うのですで考察しました。参考に読んでください。
 禁じられているのは、異性間の淫らな欲望です。欲望自体は、不足を感じて欲しがることという意味ですから、良くも悪くもないニュートラルな意味合いで捉えます。これにより、求めて良い欲望と悪い欲望があるということが表現しやすくなります。
 この詩は男性の女性に対する性的な欲求を書いていますが、現在は、男女平等社会へ駒を進めつつあるので、男女両方に注意を喚起したほうが、良い時代だと思いますので、これに沿って、書き換えました。
 「乳を吸う子牛が母牛を恋い慕うように」という文は、子どもが母親を慕う当然の事をあらわしていますが、それを男女間の想いと重ねています。これが妥当だとは考えにくいので、削除します。

285)ハスが生い茂るのは、夏です。秋は、すでにハスはなくなっていて寂しくなっているのですが、そこに、突如として、むくむくと生えてくる時期外れのハスのことを言っていますが、これはなくなったと思って安心していると、出てくる煩悩のことです
 愛執という言葉を、煩悩への執着と書き直させてください。
 ブッダや如来は教えを説くだけであるということは、安らぎを説いたのではなく、安らぎへ至る道(方法)を説いたのです。
***(書換え詩)*************
283) 一つの樹をを伐るのではなくて、(煩悩の)林を伐れ。危険は林から生じる。(煩悩の)林とその下生えとを切って、林(=煩悩)から脱れた者となれ。修行僧らよ。

284)たとい僅かであろうとも、男女の淫らな欲望が断たれないあいだは、その人の心は束縛されている。

285)自己の煩悩の執着を断ち切れ、─池の水の上に出て来た秋の蓮を手で断ち切るように。静かなやすらぎに至る道を選び進め。めでたく行きし人であるブッダは安らぎへの道を説きたもうた。



詩番号 286~289
***(元データ)*************
286)「わたしは雨期にはここに住もう。冬と夏とにはここに住もう」と愚者はこのようにくよくよと慮って、死が迫って来るのに気がつかない。

287)子どもや家畜のことに気を奪われて心がそれに執著している人を、死はさらって行く。──眠っている村を大洪水が押し流すように。

288)子も救うことができない。父も親戚もまた救うことができない。死に捉えられた者を、親族も救い得る能力がない。

289)心ある人はこの道理を知って、戒律をまもり、すみやかにニルヴァーナに至る道を清くせよ。
***(判定)*************
286)~288)A
289)D
***(コメント)*************
286)~288)なし

289)戒律は、教えを社会的立場によって咀嚼し直したものなので、普遍性が乏しいのです。したがって、戒律ではなく、より普遍性が高い教えに変えます。ニルヴァーナは安らぎと表記しましょう。
 道を清めるのではなく、もともと清い道(仏道)を、自分を清めて歩みなさいということです。
***(書換え詩)*************
286)~288)書き換え不要

289)心ある人はこの道理を知って、教えをまもり自らを清めすみやかに安らぎに至る道を清くせよ。安らぎに至る仏道をすみやかに進め。
 

(第20章 道 終わり)