2018年5月23日水曜日

修正版)第25章 修行僧(元データと判定・解釈・考察と書き換え)

訂正履歴
・記事名「修正版)真理のことば 第25章 修行僧(元データと判定・解釈・考察と書き換え)」から
修正版)第25章 修行僧(元データと判定・解釈・考察と書き換え)」へと変更(180611)
・390)〜392)の3詩の挿入が不完全だったので、挿入し直し完了。すみません。完全に更新ボタン押し忘れミスです。(180611)
・368)381)の判定は、368)だけ判定Bとしましたが両者ともにBとして、一つにまとめます。(180611)
・390)〜392)の書き換え詩の文章を整えました。取り消し線とカッコと黄色のマーカーで示しますバラモンの章から修行僧の章へ移動する3詩第25、25甲 章  修行僧,仏弟子 書換え詩一覧 その5と連動済み。(180611)
・363)の書き換え詩の文章を整えました。取り消し線と黄色のマーカーで示します。(180611)
・前書きの最後の3行を付け足しました。(180611)
詩番号 141、142を第10章暴力から移動:黄色いライン部分(180925)
第22章悪いところ(地獄改め)の詩308)、311)、313)をこの順に第25章 修行僧 詩371の後に配置します。(181022)



真理のことば 第25章 修行僧(元データと判定・解釈・考察と書き換え)修正版
黄色いラインを引いた詩390)、391)、392)をバラモンの章から移動詳細は記事バラモンの章から修行僧の章へ移動する3詩」を参照ください。

1、詩の並び順を、整理して、変更します。修行僧は、とても広い範囲の霊格の人を指し示しているので、初段→慎み励行→不浄の断捨離→瞑想に各詩を分けて昇順(矢印順)で並べていきます。これにより、360)→382)の順番が、
380、375、365,366,360,361,362,363,376,379,369,377,370,372,371,373,374,381(368),364,378,367,382となります。

2、“修行僧”は“出家者”の中の役職(地位)名称だと考えています。
“修行者”という場合は、すべての人が修行にこの世の中に生を受けて生きているので、全ての人=“修行者”と考えます。
ですから、今後、読み進める上で、“修行僧”と“修行者”は違いますので、注意してください。

3、また、この章は、修行僧の戒律について修行僧に与えられたのです。しかし、修行僧の正邪を判定するための基準として在家にも示されているのでしょう。

バラモンは、瞑想を体現してこそですが、修行僧にも当然ながら、瞑想、禅定が必要になります。これらについては、「悟りのよすが」、「八正道」、「五根」についてのまとめで、2018/6/11にさらに詳しく記述しましたので、そちらをご覧ください。



詩番号 141、142
***(元データ)*************
141)
 裸の行も、髻に結うのも、身が泥にまみれるのも、断食も、露地に臥すのも、塵や泥を身に塗るのも、蹲って動かないのも、_疑いを離れていない人を浄めることはできない。

142)
 身の装いはどうあろうとも、行ない静かに、心おさまり、身をととのえて、慎みぶかく、行ない正しく、生きとし生けるものに対して暴力を用いない人こそ、<バラモン>とも、<道の人>とも、また<托鉢遍歴僧>ともいうべきである。

***(判定)*************
141)A
142)D

***(コメント)*************
 この二つの詩は、この章にあるのは不適切です。第25章 修行僧 の一番初めに置くことにします。第10章暴力から移動。
 詩141)はジャイナ教の修行者が行っていた苦行に関する記述だそうです。
 詩142)に示された性質だけを満たすのでは、到底バラモンとは言えなず、また、階層構造上、“道の人”、また“托鉢遍歴僧”に満たされる良い性質は、“バラモン”にも備わっているはずなので、“<バラモン>とも、<道の人>とも、また<托鉢遍歴僧>ともいうべきである”と言う詩句は、“<修行僧>と言うべきである”に置き換えます。
 さらに、文章を整えます。
 お釈迦様は、従来の信仰(ヒンズー教やジャイナ教)の教えと苦行は全面的に否定なさいました。お釈迦様に帰依する修行僧への指針は、第25章 修行僧 に書かれているのです。

***(書換え詩)*************
141)書き換え不要

142)
 身の装いはどうあろうとも、行ない静かに、心を治め、身をととのえて、慎みぶかく、行ない正しく、生きとし生けるものに対して暴力を用いない人こそ、<修行僧>である。


詩番号 380、375
***(元データ)*************
380)実に自己は自分の主(あるじ)である。自己は自分の帰趨(よるべ)である。 故に自分をととのえよ。_商人が良い馬を調教するように。

375)これは、この世において明らかな知慧のある修行僧の初めのつとめである。_感官に気をくばり、満足し、戒律をつつしみ行ない、怠らないで、淨らかに生きる善い友とつき合え。

***(判定)*************
380)D
375)D
***(コメント)*************
380)自己、自分の定義をしないまま、この詩を書いても、よくわからないと思います。ヴェーダには、これらの言葉の定義があるのかもしれませんが、私は知りませんので、引用“魂と脳と守護霊(ver 2017.9.12 )”https://newbuddhawords.blogspot.jp/2017/09/ver-2017.html を参考にして、自己=魂(=商人)、自分=心(=馬)と定義をして書き換えます。下に引用のページに掲載した図を載せます。
 魂は、守護神と繋がっているので、心をそちらに向ければ、心が必要とする様々な回答が得られます。

 
375)は、明らかな智慧を持っていなければ修行僧ではないという詩になっています。しかし、この世において明らかな智慧を有するのが、修行僧の修行の目的の一つなので、“明らかな知慧のある”を“明らかな知慧を求める”としましょう。最後に日本語を整えます。
***(書換え詩)*************
380)実に魂は心の主(あるじ)でり、帰趨(よるべ)である。 故に魂により心をととのえよ。_商人が良い馬を調教するように。


375)この世において明らかな知慧を求める修行僧の初めのつとめは、
感官に気をくばり、
満足し、
戒律をつつしみ行ない、
怠らないで、
淨らかに生きる善い友とつき合うことである。


詩番号 392 
  ***(元データ)*************   
392)正しく覚った人(=ブッダ)の説かれた教えを、はっきりといかなる人から学び得たのであろうとも、その人を恭しく敬礼せよ、──バラモンが祭の火を恭しく尊ぶように  
***(判定)*************  
 D   
***(コメント)*************  
 バラモンの章から、修行僧の章の詩375の後へ移動。    
 修行僧は、仏弟子とは限りませんし、正しく悟った人にブッダとつけてしまうと、仏教の僧の教え限定みたいになってしまい、もったいないので、ブッダを削除します。   
   また、時間が経てば、人格が変わることはありますよね。私は、教えてくれた人が、身体は同じであっても、同じ人格が続くとは考えないほうが、安全だと経験的に考えています。これは、人間の身体に所属する人格よりは諸行無常のほうが上位にあるとも考えられますね。師匠ですら、常に自分で考えて師の立ち位置を判断しなくてはならないのです。ですから、教えてくださった人へのその時の敬意を忘れてはいけないけれど、その敬意を固定させてしまうと、これが束縛や依存になってしまうのです。この詩の云い切りは、その束縛や依存を発生させてしまいます。  
   霊能力が上がってくると、人(身体)ではなく、魂を捉えることができてきますので、その力が備わる前の人たちに伝えている教えでしょう。
***(書換え詩)*************  
 392)正しく覚った人の説かれた教えを、はっきりと学び得たなら、教示した人が、いかなる人であろうとも、その時のその人を恭しく敬礼しつつ、(しかし、その)師に頼ることなく、常に自分で考え判断する自立した心を養え。


詩番号 365、366
***(元データ)*************
365)(托鉢によって)自分の得たものを軽んじてはならない。他人の得たものを羨むな。他人を羨む修行僧は心の安定を得ることができない。

366)たとい得たものは少なくても、修行僧が自分の得たものを軽んずることが無いならば、怠ることなく清く生きるその人を、神々も称讃する。
***(判定)*************
365)C
366)A
***(コメント)*************
 両方の詩とも、修行僧に托鉢の決まりを示しています。
 しかし、ここで托鉢によって得たものと限定してしまうことは、もったいないです。修行僧が得るものとは、瞑想による教えや気づきもあるので、そのような全般的な物と捉えたほうが、修行僧にとって的確な教えとなりそうです。

 私は、研究職という人たちは、修行僧と在家の中間的存在で、厄介だと感じています。その、厄介な立場を利用して、いろいろな罠が仕掛けられている業界だとも思っています。
 私が、研究畑にいた時に、いい結果を持っている人や出した人への羨望の感をちょくちょく経験しました。自分は自分のやっている仕事に努力すれば良いだけで、参考にする点や指摘すべき点については議論しても、他人の持つ結果が良いことを羨む必要はなく、むしろそれが足かせになることを、その経験から学びました。
 結局、私はマイペースなので、さほど囚われずに仕事を越えましたが、やはり囚われてしまった人たちは、仕事にハマってしまった感じです。

 仕事は遂行するもので、ハマるものではないのです。
 これは、在家も修行者も同じです。ハマって良いのは、趣味です。趣味にハマれることが許されているのは、在家です。出家者や在家でも上位の霊格の人たちは、趣味はせいぜいハマらない程度にしか許されません。

 また、研究者は得られた研究成果が、世間的に評価が低いとしても、それを自分が、嘆いたり、軽んじてはならないことを、恩師から教わりました。今から思えば、世間の評価と思っても、これは本当にごく一部の人たちが作り出した評価のことが多いのですが、それは、なかなか、当事者では判断できないのです。
 結果が得られたこと自体が素晴らしいのです。その上下を付けるのは、人間ではありません。
 私の考えは、研究者は、基本的には在家者で、原則は、研究や成果の度合いで、給料(報酬)が出されるのですが、その判断基準が正しいとも限らないので、お給料は、生活ができるだけの保障が必要です。きちんと誠意を持ってやっている人は、その報酬は支払われていると思います。悪い世の中ですから、不正の多い輩が、派手に振る舞い、良い報酬を得ているかもしれませんが、地道に研究を行って、暮らしに困らない程度の収入が得られているのであれば、自分は研究職でいることに、良い勢力から合格が出ていると考えて良いでしょう。ちなみに、笑話ですが、私は在家的研究者はNGだったのですが、修行僧的研究者への転換点が、クビだったということです(光もきついな〜)。

 しかし、研究者自身が、自分が在家だとタカをくくったらいけません。自身が修行僧という立場で、自分の立ち位置を考えるようにすれば、人類の研究がより幅の広い豊かなものとなるでしょう。これは、どの職業人にも言えることですが、貰った以上のことはしないぞ!なんていう了見でいくと、将来的には厳しいことになるかと思われます。
 もちろん、生活ができなければ、職種を変更するしかないのですが、評価は、悪い支配層ばかりがしているわけではありません。良い勢力と悪い勢力のぶつかり合いの中で、評価や報酬が決まるものです。今まで、研究者を見てきて思うことは、誠意を持って精一杯、研究業務に励んでいれば、悪い勢力に魅入られず、良い勢力の保護下にあるようです。結局は、本人の持つ因(撒いた種)によるので、悪い勢力にハマると、「どんぐり ころころ どんぶりこ お池にはまってサア大変」ってことと同じようになるのです。ドジョウが出てきて遊んでくれるかもしれませんが、助けてくれることはないようです。そんな時は、過去のどこが自分を苦しめる状況へと進路を切った分岐点かを熟考して、反省し、その当時の償いをすることです。
***(書換え詩)*************
365)自分の得たものを軽んじてはならない。他人の得たものを羨むな。他人を羨む修行僧は心の安定を得ることができない。

366)書き換え不要



詩番号 360、361
***(元データ)*************
360) 眼について慎しむのは善い。耳について慎しむは善い。鼻について慎しむのは善い。舌について慎しむのは善い。

361)身について慎むのは善い。ことばについて慎しむのは善い。心について慎しむのは善い。あらゆることについて慎しむのは善いことである。修行僧はあらゆることがらについて慎しみ、すべての苦しみから脱れる。

***(判定)*************
360)D
361)D
***(コメント)*************
 この2つの詩で1つの詩と考えられますので、詩の編成を変えます。営利活動を行わない修行僧が全ての苦しみから逃れる方法は、あらゆる事柄について慎むことなので、文章をわかりやすく変更します。
***(書換え詩)*************
360)修行僧は、眼について、耳について、鼻について、舌について、身について、ことばについて、心について慎しもう。

361)修行僧は、あらゆることについて慎しめば、すべての苦しみから脱れる。



詩番号 363
***(元データ)*************
363)口をつつしみ、思慮して語り、心が浮わつくことなく、事がらと真理とを明らかにする修行僧_かれの説くところはやさしく甘美である。
***(判定)*************
363)B
***(コメント)*************
363)詩中の言葉を使って文章を整理すると、分かりやすくなります。
***(書換え詩)*************
363)修行僧が、心が浮わつくことなく、言葉をつつしみ、思慮して語り、事実と真理とを明らかにするならば、かれその人の説くところはやさしく甘美になる。



詩番号 376、379
***(元データ)*************
376)その行ないが親切であれ。(何ものでも)わかち合え。善いことを実行せよ。そうすれば、喜びにみち、苦悩を減するであろう。

379)みずから自分を励ませ。みずから自分を反省せよ。修行僧よ。自己を護り、正しい念いをたもてば、汝は安楽に住するであろう。
***(判定)*************
376)A
379)B
***(コメント)*************
自己を魂と書き換えます。自分は、心と記さず、自分のままで、十分意味が通ると思います。
***(書換え詩)*************
376)書換え不要
379)みずから自分を励ませ。みずから自分を反省せよ。修行僧よ。魂を護り、正しい念いをたもてば、汝は安楽に住するであろう。



詩番号 390

***(元データ)*************
390)愛好するものから心を遠ざけるならば、このことはバラモンにとって少なからずすぐれたことである。害する意(オモイ)がやむにつれて、苦悩が静まる。
***(判定)*************
D
***(コメント)*************
 バラモンの章から、修行僧の章の詩379の後へ移動。
 中村氏も、注釈で解釈に苦しんでいます。愛好するものは、家族ではないかと論じていますが、それは厳しいと思います。言葉通り、趣味くらいに考えましょう。しかし、どちらの場合でも、後半の害する意との関連性が全くわかりません。害する意という言葉が曖昧ですし、大切とも思えませんので、後半部は削除して、前半部分だけ言葉を整えて、書き換えます。この時、バラモンまで進んでいる魂に、趣味はほどほどになんて言う必要はないので、これは修行僧への教えだと思います。詩365、366を考察した際に、修行僧への趣味に関する教えがないのが不思議だと思っていたのです。そしたら、こんな詩句がバラモンの章にありましたので、修行僧の章へと移しました。
***(書換え詩)*************
390) 愛好するものから心を遠ざけるならばこと、このことは修行僧にとって必要なことである。



詩番号 391
***(元データ)*************
391)身にも、ことばにも、心にも、悪い事を為さず、三つのところについてつつしんでいる人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
***(判定)*************
D
***(コメント)*************
バラモンの章から、修行僧の章の詩366の後へ移動。
 これは、慎みの励行をしているので、修行僧への教えと考えています。
***(書換え詩)*************
391)身にも、ことばにも、心にも、悪い事を為さず、(この)三つのところについてつつしんでいる人、──かれをわれは<修行僧>と呼ぶ。




詩番号 369、377
***(元データ)*************
369)修行僧よ。この舟から水を汲み出せ。汝が水を汲み出したならば、舟は軽やかにやすやすと進むであろう。貪りと怒りとを断ったならば、汝はニルヴァーナにおもむくであろう。
377)修行僧らよ。ジャスミンの花が花びらを捨て落とすように、貪りと怒りとを捨て去れよ。
***(判定)*************
369)B
***(コメント)*************
369)中村氏の注釈によると、
舟:個人存在
水:誤った思考
です(異論ありません。)。
 一般に貪りの中に怠惰は含まれていると思いますが、“貪りと怒り”に、怠惰を足したいと思います。
 両方の詩ともに、“貪りと怒りと怠惰”について、断つことと捨て去ることを謳っているので、一つにまとめます。
 ニルヴァーナは安らぎにします。
***(書換え詩)*************
369)+377)修行僧よ。この舟から水を汲み出せ。汝が水を汲み出したならば、舟は軽やかにやすやすと進むであろう。貪りと怒りと怠惰を断ち、ジャスミンの花が花びらを捨て落とすように、貪りと怒りと怠惰を捨て去れば、汝は安らぎにおもむくであろう。


詩番号 370
***(元データ)*************
370)五つ(の束縛)を断て。五つ(の束縛)を捨てよ。さらに五つ(のはたらき)を修めよ。五つの執著を超えた修行僧は、<激流を渡った者>とよばれる。
***(判定)*************
370)B
***(コメント)*************
370)これは、お釈迦様がおっしゃったとは、到底、考えられません。しかし、後代になってできた教えだとしても、仏教に携わった霊能師全てがイカサマなわけではないのです。むしろ、良心的な霊能師が多かったと、私は確信しています。その人たちが、原始仏教の阿含経(真理のことばやブッダのことば)の教えから、大乗仏典へと仏教を発展させたのでしょう。そして、それを陣頭指揮なさったのも、お釈迦様ではないかと思っています。お釈迦様の肉体は滅びましたが、厳然と生きてらっしゃる気がしてなりません。
 壮大な話は止めておきましょう。私は、阿含経が大乗仏典より優れているとは考えていません。どちらかと言えば、進化系の大乗仏典の方が優れているとは思うのですが、量が莫大なので、はじめの一歩である阿含経の中の真理のことばを、大乗仏典の教えや日月神示の内容を踏まえて検証するのが、効率的ではないかと思うのです。今さら、原点に立ち返るのは悔しいのですが、、仏魔に憑かれた今の仏教の見直しをするには、これしか、方法がないと思っています。
 私の力では、“真理のことば”ですらやりきれるか、現在のところ非常に不安です。でも、たくさんの人が、頑張って活動しれらっしゃいますので、私もなんとか終わらせたいと思っています。


 次に、詩を具体的に読み進めるために、中村氏の注釈の書き下しと、五下分結と五上分結[仏教の基礎知識(7)] さんよりの抜粋でご紹介いたします。このサイトはとてもよく書いてあると思いますので、ぜひ立ち寄ってご一読ください。書き下し部分や引用部分は青字で記します。

 まず、三界ですが、欲界、色界、無色界と呼ばれる3つの世界のことを指します(下図参照)。最下層が欲界、その上が欲界、さらにその上が無色界となっていますが、この三界に属している状態は、ニルバーナ(涅槃)=安らぎ、や 解脱状態ではありません。


“五つ(の束縛)を断て”の五つ(の束縛)は、五下分結と言い、魂を欲界に結びつける5つの煩悩です。5つの煩悩とは、以下のものです。

1.身見(しんけん:有身見)
私という不変の存在があるという見解のことである。
私(私の身体、私という心身の集合体)など、とにかく私というものが変わらず存在すると思うことである。
無知に分類される、誤った見解・邪見である。

2.疑惑(ぎわく:疑)
何が真実か分からない状態のことである。
仏道の真実が分らない無知な状態といえる。

3.戒取(かいしゅ:戒禁取見)
こだわりに、とらわれることである。
しきたりや苦行など、いろいろなことにとらわれ、こだわることである。

4.欲貪(よくとん)
激しい欲のことである。

5.瞋恚(しんに)
激しい怒りのことである。

②“五つ(の束縛)を捨てよ”の五つ(の束縛)は、五上分結と言い、魂を上界(色界と無色界)に結びつける5つの煩悩です。大切なことは、これらは五下分結と違い、捨てるものだということです。ということは、つい心に持ってしまうものだということです。

1.色貪(しきとん)
色界に対する執着のことで、色界の禅定のすばらしさに対する執着である。

2.無色貪(むしきとん)
無色界に対する執着のことで、無色界の禅定のすばらしさに対する執着である。

3.掉挙(じょうこ)
私は到達した、というような心のたかぶりの感覚である。掉挙とはあまり使わない言葉であるが、心のたかぶりを指している。
私はこの段階まで達したというような達成感のような、心のたかぶりの感覚である。
欲界でも掉挙はあるが、ここでは色界、無色界のかすかで微妙な心のたかぶりである。

4.我慢(がまん、慢)
私がなした、というような慢心の感覚である。ここでは、慢心のことを我慢と呼んでいる。
欲界でも慢はあるが、ここでは色界、無色界のかすかで微妙な慢心である。

5.無明(むみょう)
どうしても最後まで、僅かに残っている根本の無知のことである。


③“五つ(のはたらき)” 悟りを得させる5つの力(五根)のこと。信(正しいことを信じる)、精進(正しい精進をする)、念(正しい思いを持つ)、定(心を集中し乱さないこと)、慧(正しい知恵を持つ)。ここで使う正しいとは、法則から外れないということです。ですから、方便等の概念は含みません。正しいものは正しいという立ち位置に立つことです。7項目からなる悟りのよすが、八正道、五根の比較をhttps://newbuddhawords.blogspot.jp/2018/05/blog-post.htmlで行いましたので、ご覧ください。

④“五つの執著”は、貪り、怒り、迷妄、高慢、誤った見解です。

以上を元に、文章を整えます。
***(書換え詩)*************
370)
まず、五下分結を断ち、次に、五上分結を捨てよ。
さらに、信、精進、念、定、慧による五つ(のはたらき)を修めよ。
そうすれば、修行僧は、五つの執著-貪り、怒り、迷妄、高慢、誤った見解-を超え、<激流を渡った者>とよばれる。


詩番号372
***(元データ)*************
372)明らかな知慧の無い人には精神の安定統一が無い。精神の安定統一していない人には明らかな知慧が無い。精神の安定統一と明らかな知慧とがそなわっている人こそ、すでにニルヴァーナの近くにいる。
***(判定)*************
B
***(コメント)*************
 「すでにニルヴァーナの近くにいる。」は、「すでに安らぎに帰している。」としたほうが正しいと思います。これが修められたら、バラモンになれるのですが、修行僧でも最終段階にいる人に向けた教えだと思います。
 念を平らにする事と定(禅定、瞑想)が精神の安定統一の手段です。これができると知慧を得るのですが、知慧を得たからといって、安定統一を心がけるのをやめてはダメで、常に安定統一と知慧を得る事を心がけなさいと言う事です。
 ニルヴァーナ=安らぎ=解脱と考えています。
 すでに述べましたが、念,定,慧は不可分です(https://newbuddhawords.blogspot.jp/2018/05/blog-post.html参照)。
 ***(書換え詩)*************
372)明らかな知慧の無い人には精神の安定統一が無い。精神の安定統一していない人には明らかな知慧が無い。精神の安定統一と明らかな知慧とがそなわっている人こそ、すでに安らぎに帰している。



詩番号 371
***(元データ)*************
371)修行僧よ。瞑想せよ。なおざりになるな。汝の心を欲情の対象に向けるな。なおざりのゆえに鉄丸を呑むな。(灼熱した鉄丸で)焼かれるときに、「これは苦しい!」といって泣き叫ぶな。

***(判定)*************
A
***(コメント)*************
 修行僧の立場でなおざりになったり情欲の対象に心を向けると、在家の人よりも来世(あの世)でひどい目にあうということなのでしょうか?よく分かりませんが、在家よりも出家側の方が、悪いことしにくく守られているのは確かですから、それをわざわざ悪いことしに行くのならば、そりゃ、お仕置きだって厳しくなります。厳しい言葉で、修行僧にとっては叱ってくださる有難い詩ですから、そのまま、とっておきます。
***(書換え詩)*************
371)書き換え不要

詩番号 308、311、313

***(元データ)*************
308)
 戒律をまもらず、みずから慎むことがないのに国の信徒の施しを受けるよりは、火炎のように熱した鉄丸を食らうほうがましだ。

311)
  茅草でも、とらえ方を誤ると、手のひらを切るように、修行僧の行も、誤っておこなうと、地獄にひきずりおろす。

313)
 もしも為すべきことであるならば、それを為すべきである。それを断乎として実行せよ。行ないの乱れた修行者はいっそう多く塵をまき散らす。
***(判定)*************
308)A
311)A
313)A
***(コメント)*************
第22章悪いところ(地獄改め)の詩308)、311)、313)をこの順に第25章 修行僧 詩371の後に配置します。
308)は漢字表記をします。
***(書換え詩)*************
308)
 戒律を守らず、自ら慎むことがないのに国の信徒の施しを受けるよりは、火炎のように熱した鉄丸を食らうほうがましだ。

311)書換え不要

313)書換え不要


詩番号 373、374
***(元データ)*************
373)修行僧が人のいない空家に入って心を静め真理を正しく観ずるならば、人間を超えた楽しみがおこる。

374)個人存在を構成している諸要素の生起と消滅とを正しく理解するに従って、その不死のことわりを知り得た人々にとって喜びと悦楽なるものを、かれは体得する。
***(判定)*************
B
***(コメント)*************
 二つの詩を一つにまとめます。
 修行僧が念と定の修行(=真理を正しく観ずる)を行うことにより、得られるメリットを示されていると思います。
 ここで言う喜びは、実際に体得しないと、言葉では説明できないと思うのです。だから、信じて修行を行ってくださいと御教示してくださっているのでしょう。
***(書換え詩)*************
373)+374)
 修行僧が念と定の修行のために、人のいない空家に入って心を静め真理を正しく観ずるならば、人間を超えた楽しみがおこる。
 この修行により、個人存在を構成している諸要素の生起と消滅とを正しく理解するにつれて、個人存在の不死のことわりを知る。そして、それによる喜びを、彼は体得する。



詩番号 368、381
***(元データ)*************
368)仏の教えを喜び、慈しみに住する修行僧は、動く形成作用の静まった、安楽な、静けさの境地に到達するであろう。

381) 喜びにみちて仏の教えを喜ぶ修行僧は、動く形成作用の静まった、幸いな、やすらぎの境地に達するであろう。
***(判定)*************
368)両詩ともに B
***(コメント)*************
368)“仏”は、超人的な存在である“ブッダ”としましょう。
“動く形成作用の静まった”は、“悪行(因)による、(悪)縁の再生産”を示します。善行(因)は、この三次元での存在縁を作らないようです。というのも、善行(因)は、その魂を、解脱(安楽な、静けさの境地)の方に導くようです。だからと言って、善行にとらわれてはいけないのです。なりゆきによって、自分に判断が回ってきた時に、善に従えばいいのです。また、その時に、その見返りを求めるあまりに善を行ったなら、その善業は大した善因を結ばないようです。
381)この詩は368)に含まれますので削除します。
***(書換え詩)*************
368)ブッダの教えを喜び、慈しみに住する修行僧は、この世での悪因の形成が止み、安楽な、静けさの境地に到達するであろう。

詩番号 364
***(元データ)*************
364)
 真理を喜び、真理を楽しみ、真理をよく知り分けて、真理にしたがっている修行僧は、正しいことわりから墜落することがない。
***(判定)*************
A
***(コメント)*************
修行僧は、とにかく真理の探究を楽しく喜んで履行しなさいと言う教えでしょう。
***(書換え詩)*************
364)書き換え不要



詩番号 378
***(元データ)*************
378)
修行僧は、身も静か、語(ことば)も静か、心も静かで、よく精神統一をなし、世俗の享楽物を吐きすてたならば、<やすらぎに帰した人>と呼ばれる。
***(判定)*************
A
***(コメント)*************
<やすらぎに帰した人>は解脱者のことでしょう。そうなると、<真人>か<バラモン>の方が、正確に伝わると思います。修行僧の延長線上と考えると<バラモン>の方が適切だと考えています。
***(書換え詩)*************
378)修行僧が、身も静か、語(ことば)も静か、心も静かで、よく精神統一をなし、世俗の享楽物を吐きすてたならば、<バラモン>と呼ばれる。

詩番号 367
***(元データ)*************
367)名称とかたちについて「わがもの」という想いが全く存在しないで、何ものも無いからとて憂えることの無い人、_かれこそ<修行僧>とよばれる。
***(判定)*************
367)D
***(コメント)*************
367)この詩は、“真人”や“バラモン”のことですので、修行僧は、延長線上にある“バラモン”を目指すのですが、その境界線を示しているのでしょう。
***(書換え詩)*************
367)名称とかたちについて「わがもの」という想いが全く存在しない、何ものも無いからとて憂えることの無い修行僧は、<バラモン>とよばれる。

詩番号 382
***(元データ)*************
382)
たとい年の若い修行僧でも、仏の道にいそしむならば、雲を離れた月のように、この世を照らす。
***(判定)*************
A
***(コメント)*************
 魂の成熟度と年齢を相関を持って考えてはいけないということでしょう。

 自分が20代、30代の頃は、この世の記憶はリセットから増やしていく時期で、今とは見えているものが全く違いました。ただし、その当時、私は在家でしたので、今のように教えも聞いていませんでした。でも、経験が少ないうちに、教えを聞いても、きっとよくわからないと思うのです。教えを聞くタイミングはとても重要で、それを司っているのは、その人の正守護神や本守護神だと思います。この世の経験を積むために効率的になるように働いてくださるのが、副守護神でしょう。そして、自分の魂と副守護神が、経験の中で、気づきを得て魂を成長させるというプロセスがあるようです。
***(書換え詩)*************
382)書き換え不要