2018年5月7日月曜日

第19章 道を実践する人(元データと判定・解釈・考察と書き換え)

訂正履歴 
サブタイトル “在家修行者に向けて”と “以上”の言葉を追加 (180605)
詩番号268,269のナンバリングミスの訂正 (180605)
詩番号258,259のコメントの修正するために追加した言葉を黄色のマーカーで示す。180607)
詩番号260,261のコメントの修正するために追加した言葉を黄色のマーカーで示す。180607)
詩番号264,265のコメントと詩句の修正を黄色のマーカーで示す。(180607)
詩番号266,267のコメントの修正で追加した言葉を黄色のマーカーで、削除した言葉を訂正線で示す。(180607)


真理のことば 

第19章 道を実践する人;在家修行者に向けて
“道を実践する人”(在家側の賢い人以上)に対する戒律と教えと考えられます。

詩番号 256〜259
***(元データ)*************
256) あらあらしく事がらを処理するからとて、公正な人ではない。賢明であって、義と不義との両者を見きわめる人、

257)粗暴になることなく、きまりにしたがって、公正なしかたで他人を導く人は、正義を守る人であり、道を実践する人であり、聡明な人であるといわれる。

258) 多く説くからとて、それゆえにかれが賢明なのではない。こころおだやかに、怨むことなく、恐れることのない人、_かれこそ<賢者>と呼ばれる。

259)多く説くからとて、それゆえにかれが道を実践している人なのではない。たとい教えを聞くことが少なくても、身をもって真理を見る人、怠って道からはずれることの無い人_かれこそ道を実践している人である。
***(判定)*************
256)B
257)B
258)A
259)A
***(コメント)*************
256)と257)
 “道を実践する人”と“賢い人”がどういう人なのかをうたっていますから、長くなりますが、一つにします。“聡明な人”を“賢い人”と書き変えましょう。
 “賢明であって…”だと、「賢明な人は聡明である」という論法になり、ループするので、“賢明であって”は省きます。

258)と259)
 “道を実践する人”に課せられる条件を記しています。259)の詩から、“道を実践する人”は、出家側ではなく在家側の賢い人以上を指していると考えられます。出家側にいる人は、教えを聞く機会が多いですが、在家側の人は教えを聞くことが少ないのです。しかし、教えを聞かなくても、人格の立派な人はいて、そのような人を“道を実践する人”と、詩259)は定義していると考えられます。
 私は、以前、“道を実践する人”は出家側と述べましたが、訂正します。

 賢者は賢い人に置き換え、文末を揃えます。
***(書換え詩)*************
256)+257)あらあらしく事がらを処理するからとて、公正な人ではない。義と不義との両者を見きわめる人、粗暴になることなく、きまりにしたがって、公正なしかたで他人を導く人は、正義を守る人であり、道を実践する人であり、賢い人であるといわれる。

258)多く説くからとて、それゆえにかれが賢明なのではない。こころおだやかに、怨むことなく、恐れることのない人、_かれこそ<賢い人>である。

259)多く説くからとて、それゆえにかれが道を実践している人なのではない。たとい教えを聞くことが少なくても、身をもって真理を見る人、怠って道からはずれることの無い人_かれこそ<道を実践している人>である。



詩番号 260,261
***(元データ)*************
260)頭髪が白くなったからとて<長老>なのではない。ただ年をとっただけならば「空しく老いぼれた人」と言われる。

261)誠あり、徳あり、慈しみがあって、傷わず、つつしみあり、みずからととのえ、汚れを除き、気をつけている人こそ「長老」と呼ばれる。
***(判定)*************
260)A
261)A
***(コメント)*************
 この当時、“長老”と言われる人がどのような社会的位置を占めていたのか分かりませんが、正しい“長老”というポジションの人は、“賢い人”以上であり、“道を実践する人”であったのでしょう。このことから、“長老”という存在は、在家側である可能性が高いです。私は、“長老”は、政治家に近い存在ではなかったかと思います。お釈迦様は、この二つの詩で、長老の資質をご教示なさっているのでしょう。
***(書換え詩)*************
260)書き換え不要
261)書き換え不要



詩番号 262、263
***(元データ)*************
262)嫉みぶかく、吝嗇(りんしょく=けち)で、偽る人は、ただ口先だけでも、美しい容貌によっても、「端正な人」とはならない。

263)これを断ち、根絶やしにし、憎しみをのぞき、聡明である人、_かれこそ「端正な人」とよばれる。

***(判定)*************
262)A
263)A
***(コメント)*************
 端正とは、“行儀や姿などが整っていて立派なこと。乱れた所がなく見事なこと。”と辞書に書かれています。お釈迦様は、在家で生活する立派に見える人たちが、本当に「端正な人」なのかの見分け方を伝授なさっています。
 私は、“端正な人”は、社長等の社会的に高い地位を占めている人たちではなかったかと考えています。
 長くなりますが、詩を一つにまとめましょう。

***(書換え詩)*************
262)+263)嫉み、吝嗇(りんしょく=ケチ)、偽りを断ち、根絶やしにし、さらに、憎しみをのぞき、聡明である人、_かれこそ「端正な人」とよばれる。口先や美しい容貌では、「端正な人」とはならない。



詩番号 264、265
***(元データ)*************
264)頭を剃ったからとて、いましめをまもらず、偽りを語る人は、<道の人>ではない。欲望と貪りにみちている人が、どうして<道の人>であろうか?

265)大きかろうとも小さかろうとも悪をすべてとどめた人は、もろもろの悪を静め滅ぼしたのであるから、<道の人>と呼ばれる。
***(判定)*************
264)B
265)B
***(コメント)*************
264)+265)
 詩中の<道の人>は<修行僧>ではないかと考えます。正しい修行僧の見極め方を、お釈迦様が在家の“道を実践する人”に説いてらっしゃるのでしょう。
→(書き直し)記事 第26章 バラモン(元データと判定・解釈・考察と書き換え)で、バラモン、修行僧、出家者について考察した結果、265)はバラモンについて謳っている詩であると考えられます。バラモンは悪を全てとどめた、つまり、悪いカルマの生産をやめたということです。
 正しいバラモンや修行僧の見極め方を、お釈迦様が在家の“道を実践する人”に説いてらっしゃるのでしょう。
 “止(とど)める”を“止(や)める”としましょう。
***(書換え詩)*************
264)頭を剃ったからとて、いましめをまもらず、偽りを語る人は、<修行僧>ではない。欲望と貪りにみちている人が、どうして<修行僧>であろうか?

265)大きかろうとも小さかろうとも悪を全て止(や)めた人は、もろもろの悪を静め滅ぼしたのであるから、<修行僧バラモン>と呼ばれる。



詩番号 266、267
***(元データ)*************
266)他人に食を乞うからとて、それだけでは<托鉢僧>なのではない。汚らわしい行ないをしているならば、それでは<托鉢僧>ではない。

267)この世の福楽も罪悪も捨て去って、清らかな行ないを修め、よく思慮して世に処しているならば、かれこそ<托鉢僧>と呼ばれる。
***(判定)*************
266)A
267)D
***(コメント)*************
 この詩句も、<道を実践する者>に<托鉢僧>の正邪の見分け方を伝授しているのでしょう。
 <道を実践する人>と<賢い人>の違いは、256)〜259)に述べたように、<賢い人>以上中の、在家的な生活を送る人を<道を実践する人>、出家的生活を送る人を<出家者>としています(第6章 賢い人 参照)。
 前者は托鉢を行いませんが、後者は、托鉢をします。托鉢をする<出家者>(修行僧やバラモン)や<修行僧>を<托鉢僧>と呼んでいるのです。
  267)の“捨て去って”という表現は、“執着せず”にしないと言葉足らずで、強すぎます。ですから、「罪悪や福楽について見極めた上で執着しない」という表現にします。

 この2つの詩は、在家の<道を実践する人>たちへ、お布施にふさわしい正しい<托鉢僧>とそうでないものの見分け方を示されています。それと、同時に、きちんと見分けることが賢い人以上の責務であることも、暗に示しています。
***(書換え詩)*************
266)他人に食を乞うからとて、それだけでは<托鉢僧>なのではない。汚らわしい行ないをしているならば、それでは<托鉢僧>ではない。

267)この世の福楽も罪悪も見極め、執着せず、清らかな行ないを修め、よく思慮して世に処しているならば、かれこそ<托鉢僧>である。



詩番号 268、269、270
***(元データ)*************
268)+269) ただ沈黙しているからとて、愚かに迷い無智なる人が<聖者>なのではない。秤を手にもっているように、いみじきものを取りもろもろの悪を除く賢者こそ<聖者>なのである。かれはそのゆえに聖者なのである。この世にあって善悪の両者を(秤りにかけてはかるように)よく考える人こそ<聖者>とよばれる。

270)生きものを害うからとて<聖者>なのではない。生きとし生けるものどもを害わないので<聖者>と呼ばれる。
***(判定)*************
268)+269)D
270)D
***(コメント)*************
 これら3つの詩は、在家の<道を実践する人>たちへ<真人>という人たちの特徴を教えてらっしゃいます。
 <聖者>を<真人>に言い換えましょう。
 長くなるので、268)と269)の詩を二つに分割します。
 “害う”には、“無益に”という修飾語を足しておきます。
***(書換え詩)*************
268)
  ただ沈黙しているからとて、<真人>と思ってはならない。そのような中には、愚かに迷い無智なる人がたくさんいる。

269)秤を手にもっているように、いみじきものを取り、もろもろの悪を除く賢者こそ<真人>なのである。かれはそのゆえに真人なのである。この世にあって善悪の両者を(秤りにかけてはかるように)よく考える人こそ<真人>とよばれる。

270)<真人>と呼ばれる人は、生きとし生けるものを無益に害わない。生きものを無益に害うのは、<真人>ではない。



詩番号 271、272
***(元データ)*************
271)+272)わたしは、出離の楽しみを得た。それは凡夫の味わい得ないものである。それは、戒律や誓いだけによっても、また博学によっても、また瞑想を体現しても、またひとり離れて臥すことによっても、得られないものである。修行僧よ。汚れが消え失せない限りは、油断するな。
***(判定)*************
271)+272)A
***(コメント)*************
 “出離”は、“解脱”のことでしょう(仏魔が酷くて困ります。第7章 真人92,93詩を参照)。解脱は、在家的な生活を送っていても、到達できると、私は感じています。
 したがって、この詩は、<修行僧>と同時に、<道を実践する人>へ与えられた詩句と捉え、“修行僧よ”という言葉を、“賢明なものたちよ”と、広範囲な言葉で書きます。

 第7章 真人 97詩の生死の絆を断つのは、自分でなく自然と絶たれると書き記しましたが、解脱を得るのも同様だと思います。自力による“戒律や誓いだけによっても、また博学によっても、また瞑想を体現しても、またひとり離れて臥すこと”でも、自分の意思で解脱するものではなく、汚れが完全に消え失せれば、自然と解脱してしまうようです。では、汚れが完全に消えうせるとはどういうことかと言いますと、第7章 真人92,93詩のコメントで考察した通り、“空を体現”して、さらに“無相を体現”したら、解脱ができるということだと論じていますので、参照してください。

 <修行僧>、<バラモン>(<出家者>)とは、三次元世界では、職業的な意味合いでもありますが、営利活動にならないための行動のガイドラインとして戒律があるといった感じでしょう。そのような生活の中で、自己の霊性を磨くことが、彼らに与えられた道なのでしょう。
 一方、ある程度、在家的に生活をして、営利業に携わっている<道を実践する人>たちも、自己の霊性を磨くことが生きる目的です。その場合、その人たちの行動のガイドラインの戒律は、<出家者>らのそれとは異なるのは当然です。
 それぞれに与えられた道ですので、“出家者”>“道を実践する人”が必ずしも成立しません。
 さらに、全ての人が、霊性の向上を目的として生きているので、全ての人は修行者です。
 修行者については、お釈迦様がブッダのことば 第一 蛇(による編集)の章 5、チェンダで以下のように、述べられています。

84 師(ブッダ)は答えた、「チュンダよ。四種の修行者があり、第五の者はありません。面と向かって問われたのだから、それらをあなたに明かしましょう。──<道による勝者>と<道を説く者>と<道において生活する者>と及び<道を汚す者>とです。」

 <道を汚す者>が、我々 修行者に紛れていることをきちんと注意喚起なさっています。他の3つについては、<道による勝者>=<ブッダ>、<道を説く者>=<バラモン>、<道において生活する者>=<修行僧>or<道を実践する人>ではないかと、私は考えています。ちなみに、私は、このチュンダの章では、ここで抜粋した文章以外は、信頼ができないと考えています。

 <道を汚す者>は出家側が話題になりやすいのです。キリスト教を悪魔崇拝に導いた指導者だったり、日本で有名なサリンを撒いたオウム真理教の教祖だったり、統一教会だったりと枚挙に遑がないがありません。
 オウム真理教や桜田淳子さんのおかげで、ここ20年ぐらいで、出家側の宗教関係者というだけで、世間は厳しい目を向けますので、そういう点では、出家側が悪事をしにくくなっていると思います。
 
 一方、在家側にも、同様に<道を汚す者>が転がり込んでいます。こちらは、出家側に比べて、母数が多いので、変身もしくは猫かぶりの術が非常にしやすく、とても見極めが厄介です。特に、政治家等の社会的影響力を有するところに多いのです。言うことは立派ですが、ちっとも組織や社会が進歩しないどころか、後退させてしまう輩です。すぐに、見分けられない時には、仕方ないので、結果を見て判断するしか、我々凡夫には手がないようです。
***(書換え詩)*************
271)+272)私は、出離の楽しみを得た。それは凡夫の味わい得ないものである。それは、戒律や誓いだけによっても、また博学によっても、また瞑想を体現しても、またひとり離れて臥すことによっても、得られないものである。賢明な者達よ。汚れが消え失せない限りは、油断するな。