2018年5月17日木曜日

ブッダとバラモンの線引きについての考察

ブッダとバラモンの線引きについての考察

--第14章 ブッダ、第25章  バラモンの詩句の整理にあたって--
ピンクの斜体文字は、文章を書きなおした部分です。2018/5/18 20:34)
黄緑のマーカー(2、構成詩句の再編成についてラスト部分)は、文章を足した部分です。2018/5/28 10:31)

1、はじめに

ブッダとは目覚めた人を指しますが、曖昧です。
 自分自身が、この作業を始めて気付いたのですが、言葉をきちんと定義して、それに沿って“真理のことば”を整理しないと、普通の人は混乱をきたすと感じました。特に、修行僧、バラモンや真人、ブッダの章は、これらの定義が曖昧すぎて、混迷がひどいです。はっきり言って、字面を読んでも全体を理解できません。でも、仏道は字面を追っただけで、ある程度理解できないといけないのです。なぜかと言えば、一般的な人間に与えられた教えなのですから。

 今回は、バラモンとブッダを中心に、議論し再定義を行うことを目的にしました。

 今回も、過去の定義とで、大きな修正をする必要がなかったので安心しました。
 →実のところ、訂正なんかするのは、本当に嫌です。
 また、大きな訂正も、今後、出てくるかもしれないですが、そうならないように、その時その時は、きちんと考えるように最大限の努力をしていますので、そんな時は、笑って許してください。

 斜に構えてしまうような前置きになりましたが、宗教的に書換えが禁じられていた中で、中村元氏は哲学者でもありましたので、私と同様の苦しさをお感じになったかと思います。この曖昧な文献をさじを投げずに、最後まで注釈付きで丁寧に残してくださった同氏と出版して残してくださった岩波文庫には、強く感謝申し上げます。
 また、全文がhttp://hosai02.la.coocan.jp/dammapada-01/damma-all-text.htmに掲載されております。このような細かい文章をH.P.にまとめてくださっていることにも感謝致します。


2、構成詩句の再編成について

この2章に記されているものは、ブッダバラモン修行僧、そして仏弟子の4種類に分けられていて、それらが混在していて、並び方もバラバラになっていると判断しました。

 まずは、それらの分類のために、再度、ブッダ、バラモン、修行僧の厳密な線引きを行う必要が出てきました。また、仏弟子の定義を3章でします。

 まず、間違えなくこの詩句は正しく、さらにお釈迦様がおっしゃったであろう、詩387)

太陽は昼にかがやき、
月は夜に照し、
武士は鎧を着てかがやき、
バラモンは瞑想に専念してかがやく。
しかしブッダはつねに威力もて昼夜に輝く。

から考えて、ブッダ=バラモンではなく、ブッダ>バラモンなのです。

しかし、真理のことばでは、両者の区別が非常に曖昧です。

・バラモンは出生によってなる、
バラモンは個人の努力では如何ともできない、超人的なブッダと同等を有する。

という誤った概念を支持した存在が当時の社会に多数いたために、そのような詩句を作り出したと、私は考えています。さらに、仏道を狂わせるために、線引を曖昧にすることによって、故意的にこのような誤解を生じさせていると、私は考えています。

 本当の光の神は、すべての人の一挙手一投足、心持ちを全て見透かされていますから、それに応じた力をそれぞれの魂に与えます。ですから、問われるのは、常に自分の行いと心持ちなのです。

 ここで問題なのは、この世では、魂に力を与えられるのは、本当の光の神だけではなく、その裏の悪神(悪魔)も与えられるから、厄介が起こるのです…。

 それと、家柄判断も厄介です(過去では家柄完全否定だった私です。)。やはり、良い家柄の人は、それなりに力のある家系の子孫ですから、その人も力があるのです。さらに、その力の出処は、光のことが多いのです。悪魔からの力は、勢いはあっても持続性が乏しいのです。
 また、生まれてくる魂は、それは先祖代々の御霊から承認を受けないと、その家の子供として生まれてこれないようです(私の審神者に結果です。)。もちろん、はじめに志願をするのかスカウトするのかは、ケースバイケースでしょうが、最終的には、先祖代々の御霊からの許可があって生まれてこれるそうです。

 ですから、光の経脈の家系から、悪に浸かった魂が生まれにくいようです。同様に、悪の経脈の家系から、光の魂が生まれてきにくいようですが、最近では、アセンションの関係で、悪の経脈の家系から光の魂が生まれてきていると聞きます。私は光の中で守られているので、悪の世界に浸かったことが皆無ですから、経験的に申し上げているわけではなく、そういう話をよく聞くということで申し上げました。

 また、生まれてきてからの魂の変化によって、悪に傾倒することもあるし、善に傾倒することもあったり、悪の経脈の家系から光の魂が生まれることもあるようなので、一概に家柄によって、その人が人格が立派であると断定するのは、危険ですが、かなり、参考材料にはなると、最近では思っています。

 では、仏道が必要なレベルとはどのレベルなのでしょうか?と考えてみます。私は真人(出家者名称としては、バラモン)になるまでが、仏道が必要なレベルではないかと考えています。真人になったならば、次は神道を歩むことになると考えています(添付図参照)。

5/17公開の図を5/29に差替え


 
 また、ブッダは超人的な力を取得した真人(出家者名称としては、バラモン)に与えられる名称であって、この世で生きている限りにおいては、真人(バラモン)と扱われると考えています。真人相の人には両者の区別がつく人はいると思いますが、普通の人には、両者の見分けがつきません。

 ブッダとなるか真人となるかは、最終的には輪廻転生から外れる領域にいるかどうかと言うこと、その部分が線引きだと思います。つまり、無相の体現した(もしくは、いつでも念定が正しく行える)真人が、悪いカルマの生産が止み、溜まっていたカルマの清算を済ませた以降に、ブッダへと移行する権利を取得すると考えています。もちろん、「いやいや、私の役目と希望は、もう少し、記憶リセットで輪廻に留まる事です。」という魂は、生まれ変わるのでしょう(大乗仏典では菩薩様と言われています。)。そこまでは、我々では中々分からないと思います(ため息)。というより、ブッダも菩薩様も超人的でありますから、原始仏典の真理のことばでは、両者ともブッダと呼び区別せずに行きます。

 ブッダ、真人、バラモンは、普通の人間からは人間にしか見えないけれど、ブッダは神がかり(超人)的な人っているのです。正しい意味で神がかり(超人)的な人をブッダと呼ぶことにします。
 他方、悪いカルマの清算が終わっていないけれど、念定が正しく出来る、無相が体現できた人たち以上を、真人やバラモンとします。

3、仏弟子と修行僧

仏弟子は、修行僧の一部ではあるのですが、お釈迦様の教えに賛同してお釈迦様の教えの元に集まった修行僧とします。そのような修行僧へと向けられた詩句ではないかと推察して、新たな章として詩句を集めます。
 詩390、391は、修行僧に関する詩だと思いましたので、すでに仕上がっている第25章 修行僧の詩379)の後に挿入します。

4、あとがき

検証しなくてはならない詩が、第14章 ブッダ、第25章  バラモンで合わせて59もあるので、これからこの作業に着手します。結構、時間がかかると思いますが、お楽しみにお待ちください。  合掌