2018年12月13日木曜日

教科書と先生

 歴史の訂正は急務でした。それが日本国紀だったのですよね、きっと。
 日本国紀は、教科書を目指したからこそ、脱線も少なく、無理な議論はしないスタンダードな書物になりました。
 出版する交換条件で色々と飲まされた条件もあるのでしょう。公の発表物だから、さまざまな人たちの利害が対立したので、仕方なかったと思います。その中では最大限のことをおやりになったと思います。

 しかし、今の教科書全般には欠点が多いけれど利点もあるのです(ただ、中学英語だけは全改定が必要かも)。やはり、個人レベルで授業を練るよりは偏りが少ないのです。

 そして、現在進行形で修学している人たちもいるし、教えている人にだって良心がある人も多くはないけれど少なくもないのです。現時点で一辺倒な議論で教科書の破壊工作に協力するのは危険です。

 教科書を使わなかった悪い授業の例です(大学ではこんなのが横行していますが;爆笑。)


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高校時代の現代文の授業で、

太宰治の人間失格、
安部公房の砂の女、
小林多喜二の蟹工船

を立て続けに習ったことがありました。もう、気持ちが暗くなるので授業が聞けませんでした。その国語の先生の嗜好です。センコウ、グレイかよ?仁義、お礼参りに伺わせていただきます。」なんちゃって。
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 教科書や指導要領がない世界なら、現文に限らず、全ての教科でもっとひどいことになるでしょう。
 教科書が酷いと言えども、現時点では、これを上手に活用し、先生の良心が加わえるのが最良の手段です。急な改善を目指すと足をすくわれますので、徐々に改良をする気持ちを忘れずに持っておく事が必要です。
 教科書の改定も必要ですが、どちらかと言えば、教員採用が急務です。

2018年11月27日火曜日

再考「真理のことば」を記すにあたっての方針とルール

再考「真理のことば」を記すにあたっての方針とルール

(1)新旧の章と詩番号の対応

 本書では、章番号と詩番号に新旧があり、さらに、前身のブログにも詩番号をつけています。また、章や詩の整理で は、番号が非常に重要ですので、ここで番号の付け方について取り決めを行います。
• 中村元氏の取りまとめた「真理のことば」(岩波文庫)に記されている章番号を接頭文字 OS(Original Section) を 使って表します。
• 本書で使用した章の並び順を表した章番号を接頭文字 FS(Final Section) を使って表します。
• O 番号 (Original Number) は、中村氏の付けた番号を記しています。
• B 番号 (Blog Number) は、前身となりました私のブログ「真理のことば 月夜の龍改定版」で用いた詩番号です。
• F 番号 (Final Number) は、再考「真理のことば」で使用する詩の並び順を表した詩番号です。


(2)章編成は予定(以下の順)

なお、便宜上、第1節、第2節、第3節と分けました。

第1節  ひと組ずつ
FS1 心
FS2 自己
FS3 はげみ
FS4 老いること
FS5 世の中
FS6 道
FS7 千という数にちなんで
FS8 花にちなんで
FS9 象
FS10 楽しみ
FS11 さまざまなこと
FS12 ひと組ずつ

第2節  悪
FS13 悪
FS14 暴力
FS15 怒り
FS16 汚れ
FS17 執着と欲望
FS18 悪いところ

第3節  さまざまな人
FS19 愚かな人
FS20 賢い人
FS21 真人
FS22 道を実践する人
FS23 修行僧
FS24 仏弟子
FS25 バラモン
FS26 ブッダ


(3)途中まで進んだらPDF形式でアップ

最終的なファイルもPDFですが、途中でアップしたものは、その1、その2…とファイル名を付けていきます。

(2018/11/27)

2018年11月14日水曜日

魂と脳と守護霊 最終版


 記事を丸ごと差し替え

魂と脳と守護霊 最終版
1.はじめに
 私がマシューさんに、「人間の魂と身体、また、守護霊と言われる方との関係をはっきりとさせてみてはどうですか?自分と自分の先祖のことについても、あなたは先祖と自分を切り離して考えているところがありますが、それは甚大な誤解なのですよ。」と言われて、2017年6月19日現在ですでに一年以上が経っていました。
 私自身も、自分と先祖、身体を持たないバックアップしている存在との関係には強い興味を持っていました。
 そこで、二つの命題
 人間の魂と心とは何か?
 人間の身体と心の繋がりはあるのか、否、あるのは確実ですが、どういう関係なのか?
を立てました。
 壮大な命題であると同時に、現在の人間の科学では、残念ながら、証明は不可能です。したがって、この記事も科学的バックアップは受けられないでしょう。でも、腑に落ちる説というものを、私の審神者を使った上で、情報を集め、考えをまとめてみたいと思った次第です。
 なせならば、今後生きていく私たちが有意義な人生を送るための情報になると確信したからです。さらに、重大な病気で苦しんでいる方々にとっても有益ではないかと考えたのです。

 でも、半年くらい思索を続けた2017年9月あたりに、「とても大変な課題に手を出してしまった。」と、かなり後悔した時期がありました。
 審神者を行い、ネットで色々調べても、誰も答えが出せないのを良い事に、似て非なるような説が飛び交う世界が広がっているではありませんか。悪魔の広めている情報を拾い集めながら正しいものを考えるという作業は、審神者を使う私にとっては、神経に与えるダメージがとても強いのです。「なかったことに。」なんて思ったこともありますが、マシューさんはきっとアメリカ上空でこのネットを見ていると思うと…。「まだ宿題、終わってないよ!」って、お声が聞こえる私でした。
 しかし、当時、並行して「真理のことば」の読み直しを始めました。その時に、達成するためには、変じ改めるべし、いろいろな情報(山)を重ね合わせて、正しいもの(お釈迦様の教えとマシューさんからの宿題の解)との出会いをする時期なのだというご託宣が降りてきました。
 「真理のことば」を変じ改めるためには、どうしても、マシューさんからの宿題の解が必要であることに気づき、これらが別立てで存在しているのではなく、同じ源から発生している事を理解しました。
 上記の命題の解を考えるにあたって、情報を細かく調べて吟味し、熟考しますが、核は審神者の情報になりました。
 また、私の魂と脳と守護霊シリーズの記事は、過去に訂正がたくさん入っていて、混乱した状態でした。この状態にピリオドを打つために、最終版記事を書きますが、この記事は「再考 真理のことば」の付録1としても使用します。

2. 人間の霊的システム
2-1 守護神 
  まず、守護神と心を導入しましょう。本守護神+正副守護神については、資料に載せた、ひふみ神示冬の巻第1帖を参考にしてください。
 我々人間に働き掛ける霊的存在は、守護神だけではなく、外部霊もあります。身体を持たない霊体ですが、これは、正しい方向に導こうとする光系外部霊(神)と、悪い道に誘う闇系外部霊(神)がいます。副守護神は、闇系外部霊と共鳴しやすいです。それを起こさないように頑張るのが魂や正守護神です。
 働きかけの詳細は、主に4節で論じ、図2にまとめました。
2-2. 心
 「真理のことば」 第3章「心」では、訳者の中村元氏が注釈で、漢訳版で「心意品」と記されている題名を「心」と意訳したことを記されています。中村氏は、別の箇所でも、漢訳では「意」と表記されている部分を「心」と意訳しています。
 「意」というと認識できる意識(顕在意識)を思い浮かべてしまいます。それはまんざら間違えではなく、「意」を心の音と漢字の成り立ち通りに捉えてたら、音がある心、つまり気づきやすい心とでも言えば、顕在意識となるのがお分かりかと思います。一方、中国人は心を潜在意識と捉えたのだと思います。ですから、題名は「心意品」となっているのでしょう。漢訳は、あまりにも的確な訳出が多く、脱帽の連発です。
 しかし、ここではあえて、潜在意識も含めたもの、つまり、
 心(自分)=顕在意識+潜在意識         定義(1)
 と定義します。

 しかし、古来日本人は、わざわざ定義しなくても、心は顕在部分と潜在部分の集合体と感じていたのではないかと推測しています。「心意」と書かれるより、「やまと言葉」の「心」を使いたかった、中村氏の訳出も、日本人としては非常に賛同できます。ただし、一歩間違えると、心という概念があやふやになる訳出であるとも言えます。


2-3. 魂

  次に、“魂”について考えましょう。資料のひふみ神示では
人間の肉体は想念の最外部、最底部をなすものであるから肉体的動きの以前に於て霊的動きが必ずあるのであるぞ」と記されています。
 体はDNAによって、設計されています。これは先祖から受け継いだものが多いでしょう。
 また、DNAは体質を決めるDNAと、働きが全くわからないDNAがあることがわかっています。ここで、DNAを導入し、議論を展開してみましょう。
 前者は数パーセントしかないのですから、働きがわからないDNAの多さにびっくりします。そこで、DNA①を三次元の肉体を設計する(頭の良し悪し、体の丈夫さ、運動神経 等)とDNA②をいまだに役割が特定できていないものに分類しましょう。
 私は、資料のひふみ神示の情報から、神様やご先祖様からの指令やその人の元来の性格などは、DNA②に情報があるのではないかと考えています。したがって、DNA②は、生きている間も、神霊界や幽界との交信、外部霊との、そして潜在意識とも交信を行なっているものだと考えています。ただ、顕在意識への働きかけはあまりなく、顕在意識が認識しにくいと考えています。
 ここで、潜在意識、顕在意識、そしてDNA①とDNA②を合わせて、魂(=自己)と考えます。
魂(=自己) =心(=自分)+ DNA① + DNA②      定義(2)

3. 人間の身体システムと霊性
3-1. 人型図上の指によるエネルギー測定の試行
 今回の題目に取り掛かる前に、白い紙に人型を書いて、目をつぶって人型の上を自分の指で撫でていく試行を行いました。どうして、そんな事をしたのかと言えば、指先に意識を集中すると何かを感じ取ることができるのかなと言う、疑問からです。ですから、このテキストのためにこの試行を行なったわけではないのです。しかし、私の指は、違いを感知しました。ちょっとした振動が伝わってくる場所があったのです。3回の試行ともほぼ同じ結果をえました。

心臓部は全く疑う余地がないほど、強く振動を伝えてきました。
喉部が次に強い振動を伝えてきました。
頭とお腹は同じくらいの振動ですが、心臓と喉に比べるとだいぶ小さくなりました。
手と股間は同じくらいですが、弱かったです。
足は、振動を感じませんでした。
  図1に人型図上の指によるエネルギー測定の試行の結果を書き込みます。

そして、前述した半年の停滞期間に、この試行結果が、顕在意識や潜在意識、守護神と関係があるのではないかと考えるようになりました。
 この辺りは、私が訂正を入れまくったことからもわかるように、非常に苦労した部分です。しかし、初期にはツイッターでの記事だったので、バラバラになっています。ちなみに、この記事に至るまでの最終の記事はhttps://newbuddhawords.blogspot.com/2017/09/ver-2017.htmlです。
 脳も身体の一つの器官ですから、私が感じた身体から放出されるエネルギーが頭の部分で他の器官よりは多く感じられたのは当然だと思います。しかし、心臓はさらに一桁以上多いエネルギーです(紙の人型を使って、指で感知してみてください。心臓だけは分かる方も多いと思います。)。これには本当に驚愕しました。頭が一番大きなエネルギーを出していると思っていたので、とても意外でした。

3-2. 心臓と脳
 それほどまでに特異な心臓ですから、心臓には何があるのかな?と調べるのは簡単で、二つの文献がありました。
 一つ目は、「真理のことば OS03章 心 O37」の詩の中村氏による注釈に、
「胸の奥の洞窟;(略)古ウパニシャド以来、アートマン(心)は心臓の内にある空処に住すると考えられていた。それを受けている。」
と記述があったのです。

 2つ目は、マシュー君のメッセージを掲載してらっしゃる森田玄さんのブログ(http://moritagen.blogspot.jp)
2017/5/4の記事の一部が参考になりますので、ご紹介します。
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「心(ハート)に聞きなさい」と昔からあらゆる文化で言われてますが、ではどうしたら聞こえるのか、その方法が具体的に示されたことはありません。

英語ではハート(心)と心臓は同じ言葉(Heart)ですが、日本語は心と心臓は別です。でも、どうして昔の人は「心の臓器」と呼んだのでしょう?

過去20年間の心臓神経学の発達によって、心臓には「心臓脳」と呼ばれる脳と同じ神経節ネットワークがあること、心臓と脳が常にコミュニケーションしていること、そして心臓から脳に送られる情報量は脳から心臓に送られるものより100倍以上も多いなどが発見されています。

単なる血液の循環ポンプだと思われていた心臓が、脳と全身の機能だけでなく、人間の感情、認知、行動、反応、能力に決定的な影響を与えていることが科学的に実証されています。
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 以上、森田氏の文献から、脳と心臓の連携が強いのは、頭で理解した事象に対して、それによって焦った時に心臓がドキドキするばかりで適切な対応策ができないなんてことからも、容易に想像できるのです。つまり、脳と心臓は、顕在意識と潜在意識と同様に不可分であると言えるのです。

 さらに、一つ目の参考文献に出てくるアートマンは、調べると意識の最も深い内側にある個だと言う、難しい表現が出てきますが、これも中村氏がカッコ書きで心であると注を入れてくださっていますので、アートマンは潜在意識であり、心臓にいると読み取ることができるのです。そして、顕在意識は、常に表に出て、感じることができるのですから、脳にいると考えて問題ないです。
 ゆえに、潜在意識は心臓を中心にいて、顕在意識が脳を中心にいると言えます。
 また、心臓は身体を存続させるかどうかのスイッチです。このスイッチは、基本的に本守護神が管理しているようです(審神者です。)。もちろん、正守護神や自分の意見を聞きつつも、最終的な決定権を持つのが、本守護神のようです。
 
3-3. 丹田
 次に、丹田(下っ腹)です。
 禅定(瞑想)を行う時に、丹田に意識を集中するのは、禅定のいろはです。
 私は、気分的に荒んでいる時というのは、必ず腸の調子が悪くなります。腸の調子が良くなってくると、非常に意識は明朗になってきます。私の場合、腸の不調は、私の守護神さんたちが、悪魔たちに攻撃をされている時ではないかと考えています。
 これらのことから考えると、守護神達が出現する場所で、心に働きかける場所が主に下っ腹(丹田)だと考えられます(実は、審神者では、すぐにこの情報が来るのです。)。 
 そのため、魂が守護神と相談したいときは、下っ腹に心(意識)を集中させるのが有効で、禅定のいろはに「丹田に意識を集中する。」があるのだと思います。
 よって、実は、本当に重要なことはハート(心臓)に聞くのではなく、下っ腹に意識を集中して考えることが有意義だと思います。
 ちなみに、脳(器官)と心臓(魂)の連絡は、物理的に神経細胞が介しているようです(森田氏の文献)。しかし、下っ腹と心臓の間は、両端が魂なので、テレパシーのような別の情報伝達手法がメインではないかと思っています。

4. 連携による人間システムの維持
4-1. 身体への情報伝達
 次に、我々が日常過ごすために行っている、情報伝達と行動を考えてみます。
 末端器官の情報が集まり、それらを動かすメイン器官はやはり脳だとは思います。
 では、過程を詳しく見ましょう。情報に応じた最適な物理的反応は、守護神たちから魂へのアドバイス(基本は潜在意識に送られるようです)や過去の経験など潜在意識にある情報を、魂が潜在意識から顕在意識へと送り、それから魂が最適な反応を割り出し、脳に命じて、脳が身体の隅々に命じるという形ではないかと思います。しかし、これらが、潜在意識のみで行われる場合もあるでしょう(身体の不調に関する対応など)。

 身体の器官・末端の細胞が発する情報は何も外界の音や映像などの5感情報だけではなく、守護神からの働きかけの情報もあるようです。その情報は、身体のすべての部分で受け取ることができ、その情報は魂の潜在意識の領域に伝わることが圧倒的に多いようです。それらを潜在意識から顕在意識に変換する作業を担っているのも魂です。身体の各器官を通して得られた守護神さんからの情報は、一度、潜在意識に情報を運んで、そこで過去の経験などのデータとともに情報処理して顕在意識に運び、そこから脳へ神経で伝達して、身体の器官へと命を下すという方式で身体の動きが制御されていると思います。時間がかかっても正確な行動がとれるのでしょう。

 ただ、潜在意識などの吟味を介さずに直接に顕在意識に情報が届くのも例外的にあると思います。怖くてドキドキするとか、もう嬉しくて心臓がバクバクするような時は、守護神、魂、他の霊体の身体の細部からの情報が、顕在意識に直接  届けられた場合です。論理的なバックアップがなく、何だか感じるというものです。虫の知らせもこの類だと思います。

 脳を通さずに、守護神や魂は体の各器官へ物理的対応を指示することもあるでしょう。“反射”と言われる反応(これは、熱いものに触れて、すぐに手を離し、その後に熱いと感じる)や“火事場のバカ力”と言われるものがこれらに属するのでしょう。こちらも緊急性が高い時です。

 また、精神障害には、1. 身体の脳が誤動作する場合と、2. 心の歪みが魂の歪みになり生じる誤動作の場合の2通りがあるのではないかと思い始めました。どちらも、霊的な作用があるのですが、1の場合は死に至るために生じた場合が多いと考えています。
 2. の場合は、軽症の場合は、心の歪みを解き放つことで治る可能性が高いと考えています。

 最後に、心臓死より脳死が先というのは、魂が駆動部である脳のスイッチを切るからでしょう。そして、心臓のスイッチは守護神が切るのです。これは、魂が安全に身体から抜けるためです。

4-2. 守護神と魂と身体とDNAの連携
 前節では、どんな(論理的も)思考も、潜在意識の大きなタンクがなければできないということがわかってきました。思考を司っているのは、主に潜在意識で心臓部分であろうということは、私にとっては驚愕の事実です。なぜならば、日常的に使われる“頭を使う”という表現を疑ったことはなく、信じきっていたからです。
  ここまで議論をしてきた結果、顕在意識と脳によって身体の器官を使って魂の情報が体現されると言えます。その一方で、守護神>魂>脳という厳然とした関係があるために脳は魂を制御できないのです
 しかし、外部と魂との通路も脳です。よって、魂を封印する、もしくは攻撃する糸口が、脳(顕在意識)です。顕在意識から潜在意識を壊すのです。洗脳するために、プロパガンダを流したり、教育を劣化させているのです。これにより、顕在意識での思考回路に滞りを作り、顕在意識による潜在意識の書き換えなども行なってしまうのです。どうしても考えがスムーズに流れなければ、その原因をきちんと見直して、その事象を取り払った時に、頭の中がどう動くかを観察してください。これによる洗脳防衛は有効だと思います。
 他にも、様々な薬物や電磁波により身体の末端の器官に誤信号を脳に送らせたり、DNAを損傷させたり、脳に異常を加えて、潜在意識を攻撃する方法もあります。
 また、脳はDNAの管理業務をしていると思います。書き換えもできるようです。例えば、魂が出した解決策が本守護神や正守護神の意図することであれば、脳にDNAの書き換えを命じることが可能で、その命令に従って、脳はDNAを書き換えます。奇跡的なガンの治癒などは、この例だと思います。
 同様に、悪魔の言いなりになって、脳がDNAを書き換えてしまうこともあります。この場合は、奇跡的な飛躍などはなく、連続した劣化が主になります。
 このようなシステムのもとで、我々の三次元の体が保たれ、修行ができているのです。すごいシステムだと感じるばかりです。
 最後に、図1に魂と守護神と身体部位のまとめ図で、体の各器官の役割や人型図上の指によるエネルギー測定結果を示し、図2に守護神と魂とDNAと外部霊の情報伝達図を載せました。
 ちなみに、二つの命題の答えは、
・人間の魂と心とは何か?→定義1と定義2と定義したというのが答え
・人間の身体と心の繋がりはあるのか、否、あるのは確実ですが、どういう関係なのか?
 →第4節に詳しく論じました。
以上です。お付き合いいただきありがとうございました。
マシューさん、ありがとうございました。2018/11/14                (合掌)
 
資料
ひふみ神示 第30巻 冬の巻
第一帖
 宇宙は霊の霊と物質とからなってゐるぞ。人間も又同様であるぞ。宇宙にあるものは皆人間にあり。人間にあるものは皆宇宙にあるぞ。人間は小宇宙と申して、神のヒナガタと申してあらう。人間には物質界を感知するために五官器があるぞ。霊界を感知するために超五官器あるぞ。神界は五官と超五官と和して知り得るのであるぞ。この点 誤るなよ。霊的自分を正守護神と申し、神的自分を本守護神と申すぞ。幽界的自分が副守護神ぢゃ。本守護神は大神の歓喜であるぞ。
 神と霊は一つであって、幽と現、合せて三ぞ。この三は三にして一、一にして二、二にして三であるぞ。故に肉体のみの自分もなければ霊だけの自分もない。神界から真直ぐに感応する想念を正流と申す幽界を経て又幽界より来る想念を外流と申すぞ人間の肉体は想念の最外部、最底部をなすものであるから肉体的動きの以前に於て霊的動きが必ずあるのであるぞ。故に人間の肉体は霊のいれものと申してあるのぞ。
 (…)
 人間は霊界より動かされるが、又 人間自体よりかもし出した霊波は反射的に霊界に反影するのであるぞ。人間の心の凸凹によって、一は神界に、一は幽界に反影するのであるぞ。幽界は人間の心の影が生み出したものと申してあろうがな。
 (…)
故に、人間の生活は霊的生活、言の生活であるぞ。肉体に食ふことあれば霊にもあり、言を食べているのが霊ぞ。霊は言ぞ。この点が最も大切なことじゃから、くどう申しておくぞ。
 死んでも物質界とつながりなくならん。生きてゐる時も霊界とは切れんつながりあること、とくと会得せよ。そなた達は神をまつるにも、祖先まつるにも物質のめあてつくるであろうがな。それはまだまだ未熟な事ぞ。
(…) 
 更に祖先は過去の自分であり、子孫は新しき自分、未来の自分であるぞ。兄弟姉妹は最も近き横の自分であるぞ。人類は横の自分、動、植、鉱物は更にその外の自分であるぞ。切りはなすこと出来ん。
 自分のみの自分はないぞ。縦には神とのつながり切れんぞ。限りなき霊とのつながり切れんぞ。故に、神は自分であるぞ。一切は自分であるぞ。一切がよろこびであるぞ。
 霊界に於ける自分は、殊に先祖との交流、交渉深いぞ。よって、自分の肉体は自分のみのものでないぞ。先祖霊と交渉深いぞ。神はもとより一切の交渉あるのであるぞ。その祖先霊は神界に属するものと幽界に属するものとあるぞ。中間に属するものもあるぞ。神界に属するものは、正流を通じ、幽界に属するものは外流を通じて自分に反応してくるぞ。正流に属する祖先は正守護神の一柱であり、外流に加はるものは、副守護神の一柱と現はれてくるのであるぞ。外流の中には、動植物霊も交ってくることあるぞ。それは己の心の中にその霊と通ずるものあるためぞ。
 一切が自分であるためぞ。常に一切を浄化せなならんぞ。霊は常に体を求め、体は霊を求めて御座るからぞ。霊体一致が喜びの根本であるぞ。一つの肉体に無数の霊が感応し得るのざ。それは霊なるが故にであるぞ。霊には霊の霊が感応する。又 高度の霊は無限に分霊するのであるぞ。
 (…) 人間は現界、霊界共に住んで居り、その調和をはからねばならん。自分は自分一人でなく、タテにもヨコにも無限につながってゐるのであるから、その調和をはからねばならん。それが人間の使命の最も大切なことであるぞ。
 調和乱すが悪ぞ。人間のみならず、総て偏してならん。霊に偏してもならん。霊も五、体も五と申してあらう。ぢゃが主は霊であり体は従ぞ。神は主であり、人間は従であるぞ。五と五と同じであると申してあろう。差別則平等と申してあらう。取り違い禁物ぞ。




図1 魂と守護神と身体部位の役割と人型図上の指によるエネルギー測定結果








図2 守護神と魂とDNAと外部霊の情報伝達説明を追加




2018年10月22日月曜日

書換え詩一覧(その13)第16, 22章 愛するもの(解散)、悪いところ(地獄改め)

訂正・変更履歴
(219)[355] 第1章 楽しみ 詩199の後に(219)(220)の順に移動と修正(181022)

書換え詩一覧(その13)第16, 22  愛するもの(解散)、悪いところ(地獄改め)

第16章 愛するもの(解散)
(209)[350]  第9章 悪の冒頭へ移動
 道に違(タゴ)うたことになじみ、道に順(シタガ]ったことにいそしまず、目的を捨てて快いことだけを取る人は、みずからの道に沿って進む者を羨むに至るであろう。

(210)[削除]
(211)[削除]

(212216)[351] 第24章 執着と欲望と汚れ 詩359の後に(351)(352)の順に移動
 執着から憂いが生じ、執着から恐れが生じる。執着を離れたならば憂いと恐れが存在しない。

(212216)[352]
 心の汚れから憂いが生じ、心の汚れから恐れが生じる。心の汚れを離れたならば憂いと恐れが存在しない。

(217)[353] 第21章 さまざまなこと 詩303の前に移動
 徳行と見識とをそなえ、法にしたがって生き、真実を語り、自分のなすべきことを行なう人は、人々から愛される。

(218)[354] 第24章 執着と欲望と汚れ 詩355の後に移動
 言葉で説き得ないもの(ニルヴァーナ)に達しようとする志を起し、意(オモイ]はみたされ、諸の愛欲に心の礙げられることのない人は、(流れを上る者]と呼ばれる。

(219)[355] 第1章 楽しみ 詩199の後に(219)(220)の順に移動
 久しく旅に出ていた人が遠方から無事に帰って来たならば、親戚・友人・親友たちは彼が帰って来たのを祝う

(220)[356]
 そのように善いことをしてこの世からあの世に行った人を善業が迎え受ける。──親族が愛する人が帰って来たのを迎え受けるように。
(第16章 愛するもの(解散) 終わり)
第22章 悪いところ(地獄 改め)
(306)[357] 
 偽りを語る人、あるいは自分でしておきながら「私はしませんでした」と言う人、──この両者は死後には等しくなる、──来世では行ないの下劣な業を持った人々なのであるから。

(309)[358]
 放逸で他人の妻になれ近づく者は、四つの事がらに遭遇する。──すなわち、禍をまねき、臥して楽しからず、第三に非難を受け、第四に悪しきところに墜ちる。

(310)[359]
 禍をまねき、悪しきところに墜ち、相ともにおびえた男女の愉楽は少なく、王は重罰を課する。それ故に人は他人の妻になれ近づくな。

(312)[360]
 その行ないがだらしなく、慎みが乱れ、清らかな行ないなるものもあやしげであるならば、大きな果報はやって来ない。

(314)[361]
 悪いことをするよりは、何もしない方が良い。悪いことをすれば、後で悔いる。単に何かの行為をするよりは、善いことをする方が良い。なし終わって、後で悔いがない。

(315)[362]
 辺境にある、城壁に囲まれた都市が内も外も守られているように、そのように自己を守れ。瞬時も空しく過ごすな。時を空しく過した人々は悪いところに墜ちて、苦しみ悩む。

(316)[363] 
 恥じなくてよいことを恥じ、恥ずべきことを恥じない人々は、邪な見解をいだいて、悪いところにおもむく。

(317)[364]  
 恐れなくてもよいことに恐れをいだき、恐れねばならぬことに恐れをいだかない人々は、邪な見解をいだいて、悪いところにおもむく。

(318)[365]
 避けねばならぬことを避けなくてもよいと思い、避けてはならぬ(=必ず為さねばならぬ)ことを避けてもよいと考える人々は、邪な見解をいだいて、悪いところにおもむく。

(319)[366]
 遠ざけるべきこと(=]を遠ざけるべきであると知り、遠ざけてはならぬ(=必らず為さねばならぬ)ことを遠ざけてはならぬと考える人々は、正しい見解をいだいて、善いところにおもむく。

(307)[367] 第26 バラモン の詩番号393の後に移動
 袈裟を頭から纒っていても、性質(タチ)が悪く、つつしみのない者が多い。かれら悪人は、悪いふるまいによって、悪いところに生まれる。

(308)[368] 第25 修行僧 の詩番号371の後に(308), (311), (313)の順で移動
 戒律を守らず、自ら慎むことがないのに国の信徒の施しを受けるよりは、火炎のように熱した鉄丸を食らうほうがましだ。

(311)[369]
 茅草でも、とらえ方を誤ると、手のひらを切るように、修行僧の行も、誤っておこなうと、地獄にひきずりおろす。

(313)[370]
 もしも為すべきことであるならば、それを為すべきである。それを断乎として実行せよ。行ないの乱れた修行者はいっそう多く塵をまき散らす。


(第22章 悪いところ(地獄 改め) 終わり)

2018年10月18日木曜日

第22章 悪いところ(地獄 改め)(元データと判定・解釈・考察と書き換え)

訂正・変更履歴
・詩番号 310)書換え詩のひとを漢字の人にします。(181022)

第22章 悪いところ(地獄 改め)

私が、地獄という言葉を使うことを、日月神示により禁じられていますので、この章のタイトルは、“地獄”から“悪いところ”に変えます。
 詩307はバラモンに関する詩なので第26章バラモンへ、詩308,311,313は修行僧に関する詩なので第25章修行僧へ移動します。
 従って、詩306,309,310,312,314〜319の順番で、この章を構成しますが、どの詩も、地獄を悪いところと書き換えるくらいしかありませんので、一挙に書き出します。
 最後に詩307,308,311,313の読み下しをします。

詩番号 209

***(元データ)*************
306)
 いつわりを語る人、あるいは自分でしておきながら「わたしはしませんでした」と言う人、──この両者は死後にはひとしくなる、──来世では行ないの下劣な業をもった人々なのであるから。

309)
 放逸で他人の妻になれ近づく者は、四つの事がらに遭遇する。──すなわち、禍をまねき、臥して楽しからず、第三に非難を受け、第四に地獄に墜ちる。

310)
 禍をまねき、悪しきところ(地獄)に墜ち、相ともにおびえた男女の愉楽はすくなく、王は重罰を課する。それ故にひとは他人の妻になれ近づくな。

312)
 その行ないがだらしなく、身のいましめが乱れ、清らかな行ないなるものもあやしげであるならば、大きな果報はやって来ない。

314)
  悪いことをするよりは、何もしないほうがよい。悪いことをすれば、後で悔いる。単に何かの行為をするよりは、善いことをするほうがよい。なしおわって、後で悔いがない。

315)
 辺境にある、城壁に囲まれた都市が内も外も守られているように、そのように自己を守れ。瞬時も空しく過ごすな。時を空しく過した人々は地獄に墜ちて、苦しみ悩む。

316)
 恥じなくてよいことを恥じ、恥ずべきことを恥じない人々は、邪な見解をいだいて、悪いところ(=地獄)におもむく。

317)
 恐れなくてもよいことに恐れをいだき、恐れねばならぬことに恐れをいだかない人々は、邪な見解をいだいて、悪いところ(=地獄)におもむく。

318)
 避けねばならぬことを避けなくてもよいと思い、避けてはならぬ(=必ず為さねばならぬ)ことを避けてもよいと考える人々は、邪な見解をいだいて、悪いところ(=地獄)におもむく。

319)
 遠ざけるべきこと(=罪)を遠ざけるべきであると知り、遠ざけてはならぬ(=必らず為さねばならぬ)ことを遠ざけてはならぬと考える人々は、正しい見解をいだいて、善いところ(=天上)におもむく。

***(判定)*************
全てA

***(コメント)*************
 地獄という表現ですが、悪いところと書き換えます。この悪いところとは、この世においても死後のあの世においても存在すると感じています。
 職務上、不正や不適切なことを行っている人たちと自分は全く別世界の人間だなと思うことがありました。同じ三次元のこの世に存在しても、存在する場所が違うと感じ取った時なのでしょう。私が見ていて、彼らはいつも苦しそうなんです。もっと言ってしまえば、窒息しているような感じなんです。しかし、本人たちは、精一杯やっている自分に自己陶酔していて、素晴らしいなんて感じているかもしれないです。
 地獄というと、どうしても死後の世界だと認識してしまいがちですが、そうではなく、現世から良いところから悪いところにかけて分別するふるいは存在すると思うのです。それが貧富の差や社会的ステイタスと、相関があるかと言われたら、もちろん答えは“No”なのです。
 逆に言えば、行いの正しい人たちや性質の良い人たちは、苦しい状況で、実際に苦しくても、なぜか悲壮感が少ないなと感じるのです。
306)ひらがなが多く、読みにくいので、漢字に変換します。
309)地獄→悪しきところ
310)(地獄)を削除。「すくなく」を「少なく」と漢字表記します。
312)「身のいましめ」という言葉は定義してないので、「慎み」と書き換えます。
314)ひらがなが多く、読みにくいので、漢字に変換します。
315)地獄→悪いところ
316)〜318)(=地獄)を削除
319)(=天上)を削除
***(書換え詩)*************
306)
 偽りを語る人、あるいは自分でしておきながら「私はしませんでした」と言う人、──この両者は死後には等しくなる、──来世では行ないの下劣な業を持った人々なのであるから。

309)
 放逸で他人の妻になれ近づく者は、四つの事がらに遭遇する。──すなわち、禍をまねき、臥して楽しからず、第三に非難を受け、第四に悪しきところに墜ちる。

310)
 禍をまねき、悪しきところに墜ち、相ともにおびえた男女の愉楽は少なく、王は重罰を課する。それ故にひとは他人の妻になれ近づくな。
 
312)
 その行ないがだらしなく、慎みが乱れ、清らかな行ないなるものもあやしげであるならば、大きな果報はやって来ない。

314)
  悪いことをするよりは、何もしない方が良い。悪いことをすれば、後で悔いる。単に何かの行為をするよりは、善いことをする方が良い。なし終わって、後で悔いがない。

315)
 辺境にある、城壁に囲まれた都市が内も外も守られているように、そのように自己を守れ。瞬時も空しく過ごすな。時を空しく過した人々は悪いところに墜ちて、苦しみ悩む。

316)
 恥じなくてよいことを恥じ、恥ずべきことを恥じない人々は、邪な見解をいだいて、悪いところにおもむく。

317)
 恐れなくてもよいことに恐れをいだき、恐れねばならぬことに恐れをいだかない人々は、邪な見解をいだいて、悪いところにおもむく。

318)
 避けねばならぬことを避けなくてもよいと思い、避けてはならぬ(=必ず為さねばならぬ)ことを避けてもよいと考える人々は、邪な見解をいだいて、悪いところにおもむく。

319)
 遠ざけるべきこと(=罪)を遠ざけるべきであると知り、遠ざけてはならぬ(=必らず為さねばならぬ)ことを遠ざけてはならぬと考える人々は、正しい見解をいだいて、善いところにおもむく。

詩番号 307

***(元データ)*************
307)
 袈裟を頭から纒っていても、性質(タチ)が悪く、つつしみのない者が多い。かれら悪人は、悪いふるまいによって、悪いところに(地獄)に生まれる。

***(判定)*************
307)A

***(コメント)*************
307)第26章 バラモン 詩393の後に配置します。(地獄)を削除します。

***(書換え詩)*************
307)
 袈裟を頭から纒っていても、性質(タチ)が悪く、つつしみのない者が多い。かれら悪人は、悪いふるまいによって、悪いところに生まれる。


詩番号 308、311、313

***(元データ)*************
308)
 戒律をまもらず、みずから慎むことがないのに国の信徒の施しを受けるよりは、火炎のように熱した鉄丸を食らうほうがましだ。

311)
  茅草でも、とらえ方を誤ると、手のひらを切るように、修行僧の行も、誤っておこなうと、地獄にひきずりおろす。

313)
 もしも為すべきことであるならば、それを為すべきである。それを断乎として実行せよ。行ないの乱れた修行者はいっそう多く塵をまき散らす。
***(判定)*************
308)A
311)A
313)A
***(コメント)*************
308)、311)、313)の順に第25章 修行僧 詩371の後に配置します。
308)は漢字表記をします。
***(書換え詩)*************
308)
 戒律を守らず、自ら慎むことがないのに国の信徒の施しを受けるよりは、火炎のように熱した鉄丸を食らうほうがましだ。

311)書換え不要

313)書換え不要

(第22章 悪いところ(地獄 改め)終わり)

第16章 愛するもの(元データと判定・解釈・考察と書き換え)

訂正・変更履歴

第16章 愛するもの(解散)

この章は、もともと詩の数が12本と少なく、内容に統一感が無いので、章自体を解散し、各詩は内容によって、他の章に振り分けします。
 詩212〜216は型の中に異なる単語を入れる詩が5本並んでいて、これら自体は、第24章 執着と欲望と汚れに属するべき詩です。詩218も同章に配置を変えます。
 詩217は、第21章のさまざまなこと 詩303に非常に似通っているので、この詩の前に移動します。
 また、詩219と220は対なのですが、これがこの章に配置される必然性が感じられませんので、第16章 楽しみ に配置を変えます。
 さらに、冒頭の詩209はとても含蓄のある詩ですが、こちらは第9章 悪へ配置を転換します。
 詩210と211詩は、内容が虚偽なので削除しました。
 以上により、第16章 愛するものは、章ごと無くなります。

詩番号 209

***(元データ)*************
209)
  道に違(タゴ)うたことになじみ、道に順(シタガ)ったことにいそしまず、目的を捨てて快いことだけを取る人は、みずからの道に沿って進む者を羨むに至るであろう。
***(判定)*************
A

***(コメント)*************
209)第9章 悪の冒頭に移動。

***(書換え詩)*************
209)書換え不要


詩番号 210、211

***(元データ)*************
210)
 愛する人と会うな。愛しない人とも会うな。愛する人に会わないのは苦しい。また愛しない人に会うのも苦しい。

211)
 それ故に愛する人をつくるな。愛する人を失うのはわざわいである。愛する人も憎む人もいない人々には、わずらいの絆が存在しない。
***(判定)*************
210)、211)D

***(コメント)*************
 「愛する人と会うな」etc. なんて、人間の一存でできるわけないのです。「神になるよう修行せよ」とか、「欲望をなくせ」とか、土台人間では無理な事を言って、頑張らせるのが、悪魔の常套手段です。人間って真面目ですから、できるはずと思い込んで、それでできないと、自分を責めてしまって、発狂するのです(そうですよね、百済の王様。)。できない理由が本当はどこにあるのかを、冷静に考えることが、実は人間の務めです。
 人間である以上、できないものはできないと、本当は、教えで宣言しなくてはならないのでしょう。この2詩などは、虚偽で、悪しきところに引っ張られる人たちを増やすので、削除しなくてはなりません。

***(書換え詩)*************
210)削除
211)削除


詩番号 212〜216

***(元データ)*************
212)
 愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生ずる、愛するものを離れたならば、憂いは存在しない。どうして恐れることがあろうか?

213)
 愛情から憂いが生じ、愛情から恐れが生ずる。愛情を離れたならば憂いが存在しない。どうして恐れることがあろうか?

214)
 快楽から憂いが生じ、快楽から恐れが生じる。快楽を離れたならば憂いが存在しない。どうして恐れることがあろうか?

215)
 欲情から憂いが生じ、欲情から恐れが生じる。欲情を離れたならば、憂いは存しない。どうして恐れることがあろうか。

216)
 妄執から憂いが生じ、妄執から恐れが生じる。妄執を離れたならば、憂いは存しない。どうして恐れることがあろうか。

***(判定)*************
全てD

***(コメント)*************
 212)〜216) 第24章 執着と欲望と汚れ 詩359の後に移動します。
 これらの5詩は、「◯から憂いが生じ、◯から恐れが生じる。◯を離れたならば憂いが存在しない。どうして恐れることがあろうか?」という詩形が共通です。

 ◯の部分は、愛するもの、愛情、快楽、情欲、妄執です。これらの言葉を一つ一つ考えてみましょう。

 (1)愛するもの自体が悪いというよりかは、愛するものへの執着がNGなのです。
 (2)愛情は、慈悲に昇華できると思いますが、愛欲への執着と劣化する場合もあり、愛情自体は、定義をしない限りは、NGともOKとも判断がつきません。ただ、憂い、恐れの元として愛情を捉えるのであれば、愛欲への執着と捉えるべきでしょう。
 (3)快楽は、無くすことは難しいです。快楽への執着と書くべきでしょう。
 (4)情欲は、愛欲とほぼ同じと考えますので、情欲や愛欲への執着と捉えるべきでしょう。
 (5)妄執は、“ 第24章の愛執(1)導入”で考察したように、煩悩の三毒の痴に属し、汚れの一つです。
 分類結果をまとめると、
 ・愛するもの、愛情、快楽、情欲→執着
 ・妄執→心の汚れ
となります。したがって、
◯=執着、心の汚れ
 で書き換えれば、すべてを網羅すると考えることもできます。

 次に、詩形を考えます。「憂いが存在しない。どうして恐れることがあろうか?」という後半部分は、憂いと恐れの関係を言及していないにもかかわらず、両者があたかも関係あるように書いてあります。しかし、前半では、憂いと恐れが対等に書かれています。両者の関係をいたずらに考察する必要もないと考えますので、ここでは、前半にならって、後半を、憂いと恐れが対等な表現「憂いと恐れが存在しない。」とします。

***(書換え詩)*************
212)〜216)
 執着から憂いが生じ、執着から恐れが生じる。執着を離れたならば憂いと恐れが存在しない。

212)〜216)
 心の汚れから憂いが生じ、心の汚れから恐れが生じる。心の汚れを離れたならば憂いと恐れが存在しない。


詩番号 217、218

***(元データ)*************
217)
 徳行と見識とをそなえ、法にしたがって生き、真実を語り、自分のなすべきことを行なう人は、人々から愛される。

218)
 ことばで説き得ないもの(ニルヴァーナ)に達しようとする志を起し、意(オモイ)はみたされ、諸の愛欲に心の礙げられることのない人は、(流れを上る者)とよばれる。
***(判定)*************
217)A
218)A

***(コメント)*************
217)第21章 さまざまなこと 詩303の前に移動。
218)第24章 執着と欲望と汚れ 詩355の後に移動。“ことば”を漢字に変えます。
***(書換え詩)*************
217)書換え不要

218)
 言葉で説き得ないもの(ニルヴァーナ)に達しようとする志を起し、意(オモイ)はみたされ、諸の愛欲に心の礙げられることのない人は、(流れを上る者)と呼ばれる。


詩番号 219、220

***(元データ)*************
219)
 久しく旅に出ていた人が遠方から無事に帰って来たならば、親戚・友人・親友たちは彼が帰って来たのを祝う。

220)
 そのように善いことをしてこの世からあの世に行った人を善業が迎え受ける。──親族が愛する人が帰って来たのを迎え受けるように。
***(判定)*************
219)A
220)A

***(コメント)*************
219)220)第16章 楽しみ 詩199の後に移動。
***(書換え詩)*************
219)書換え不要
220)書換え不要

(第16章 愛するもの(解散)終わり)

2018年10月16日火曜日

書換え詩一覧(その12)第18, 24章 汚れ、執着と欲望と汚れ(愛執 改め)

訂正・変更履歴
・詩(356359)[342]の後に第16章 愛するもの から[212215](351) , [212215](352)を移動し挿入。(181022)

・詩(355)[345]の後に、詩[218](354) を第16章 愛するもの から移動。(181022)

書換え詩一覧(その12)

第18, 24章 汚れ、執着と欲望と汚れ(愛執 改め)


第18章 汚れ

(235)[312]
 汝はいまや枯葉のようなものである。閻魔王の従卒もまた汝に近づいた。汝はいま死出の門路に立っている。しかし汝には資糧(かて)さえも存在しない。l0m

(236)[削除 ]
(237)[削除 ]

(238)[313]
 だから、自己のよりどころをつくれ。すみやかに努めよ。賢明であれ。汚れをはらい、罪過がなければ、汝はもはや生と老いとに近づかないであろう。

(239)[314]
 聡明な人は順次に少しずつ、一刹那ごとに、おのが汚れを除くべし、__鍛冶工が銀の汚れを除くように。

(240)[315]
 鉄から起った錆が、それから起ったのに、鉄自身を損なうように、悪をなしたならば、自分の業が罪を犯した人を悪いところにみちびく。

(241)[316]
 読誦しなければ聖典が汚れ、修理しなければ家屋が汚れ、身なりを怠るならば容色が汚れ、なおざりになるならば、つとめ慎しむ人が汚れる。

(242)[317]
 不品行は婦女の汚れである。もの惜しみは、恵み与える人の汚れである。悪事は、この世においてもかの世においても(つねに)汚れである。
 
(243)[318]
 これらの汚れより、さらに根元的な汚れが、無明である。修行僧らよ、努め励み、慎むことにより、もろもろの汚れを順次捨て、ついには自己を覆う無明が壊れ去るのを見とどけよ。

(244)[319]
 恥をしらず、烏のように厚かましく、図々しく、ひとを責め、大胆で、心のよごれた者は、生活し易い。

(245)[320]
 恥を知り、常に清きをもとめ、執著をはなれ、慎み深く、真理を見て清く暮す者は、生活し難い。

(246, 247)[321]
 生きものを殺し、虚言(いつわり)を語り、世間において与えられないものを取り、他人の妻を犯し、穀酒・果実酒に耽溺する人は、この世において自分の根本を掘りくずす人である。

(248)[322]
 人よ。このように知れ、_慎みがないのは悪いことである。
_貪りと不正とのゆえに汝が永く苦しみを受けることのないように。

(249)[323]
 人は、信ずるところにしたがって、きよき喜びにしたがって、正しくほどこしをなさなくてはならない。
 また、施しに見返りを求めてはならない。なぜならば、これにより汚れが増す。

(250)[324]
 正しくほどこされた食物や飲料に満足しない人は、昼も夜も心の安らぎを得ず、汚れが増す。

(251)[325]
 情欲に等しい火は存在しない。不利な骰(さい)の目を投げたとしても、怒りに等しい不運は存在しない。迷妄に等しい網は存在しない。妄執に等しい河は存在しない。

(252)[326]
 他人の過失は見やすいけれど、自己の過失は見がたい。人は他人の過失を籾殻のように吹き散らす。しかし自分の過失は、隠してしまう。
_狡猾な賭博師が不利な骰(さい)の目をかくしてしまうように。

(253)[327]
 他人の過失を探し求め、つねに怒りたける人は、煩悩の汚れが増大する。かれは煩悩の汚れの消滅から遠く隔っている。

(254)[328]
 人々は汚れのあらわれを楽しむが、修行完成者は汚れのあらわれを楽しまない。

(255)[329]
 造り出された現象が常住であることは有り得ない。真理をさとった人々(ブッダ)は、全ての汚れがなくなったので、動揺することがない。
(第18章 汚れ 終わり)

第24章 執着と欲望と汚れ(愛執 改め)

詩番号334〜347は番号順に、その後は356〜359、349、350、355、354、348、351〜353の順で書き記す。


(334)[330]
 恣(ほしいまま)のふるまいをする人には執着が蔓草(つるくさ)のようにはびこる。林の中で猿が果実を探し求めるように、輪廻転生し、あちこちさまよう。

(335)[331]
  この世において、執着のもとである汚れによりうずく心のなすがままである人は、もろもろの憂いが増大する。_雨が降ったあとにはビーラナ草がはびこるように。

(336)[332]
 この世において如何ともし難いこのうずく心の汚れを断ったならば、憂いはその人から消え失せる。_水の滴が蓮華から落ちるように。

(337)[333]
 さあ、皆さん告げます。_ここに集まった皆さんに幸あれ。執着の根(心の汚れ)を掘れ。葦が激流に砕かれるように、魔にしばし砕かれてはならない。

(338)[334]
 たとえ樹を切っても、もしも頑強な根を断たなければ、樹が再び成長するように、執着の根源となる潜勢力(わずかな心の汚れ)を滅ぼさなければ、執着による苦しみはくりかえし現われ出る。

(339)[335]
 この世の中には、快いものに向って流れる激流があり、その波浪は、悪しき見解をいだく人を漂わし去る。

(341)[336]
 人の快楽を求める執着は、はびこるもので、また心の汚れで潤される。実に人々は歓楽にふけり、楽しみをもとめて、生れと老衰を受ける。

(340)[337]
  流れ(欲望)は至るところに流れる。蔓草(執着)は芽を生じつつある。その蔓草が生じたのを見たならば、知慧によってその根を断ち切れ。

(342、343)[338]
 欲望への執着に駆り立てられた人々は、わなにかかった兎のように、ばたばたする。欲望になずみ、欲望の激流に束縛され、永い間  繰り返し執着しては得られない苦悩を受ける。それ故に修行僧は、自己の執着を除き去れ。

(344)[339]
 欲望の林から出ていながら、また欲望の林に身をゆだね、欲望の林から免れていながら、また欲望の林に向かって走る。その人を見よ! 束縛から脱しているのに、また束縛に向かって走る。

(345、346 )[340]
 鉄や木材や麻紐でつくられた枷を、思慮ある人々は堅固な縛とは呼ばない。
 財や宝石や耳環・腕輪をやたらに欲しがること、悪になずんだ妻や子にひかれること、_それが堅固な縛である、と思慮ある人々は呼ぶ。それは低く垂れ、緩く見えるけれども、脱れ難い。
 思慮ある人々は、己のためにならないこれらを断ち切って、欲楽を捨てて、修行する。

(347)[341]
 欲望になずんでいる人々は、激流に押し流される、_蜘蛛がみずから作った網にしたがって行くようなものである。思慮ある人々はこれをも断ち切って、顧みることなく、すべての汚れを捨てて、歩んで行く。

(356〜359)[342]
 田畑は雑草によって害われ、この世の人々は、欲求、執着、怒り、誤った見解(迷妄)によって害われる。

[212215](351) 第16章 愛するもの から移動 
 執着から憂いが生じ、執着から恐れが生じる。執着を離れたならば憂いと恐れが存在しない。

[212215](352)
 心の汚れから憂いが生じ、心の汚れから恐れが生じる。心の汚れを離れたならば憂いと恐れが存在しない。

(349)[343]
 あれこれ考えて心が乱れ、汚れにより心がはげしくうずくのに、心の汚れ(不浄)を淨らかだと見なす人には、執着がますます増大する。この人は実に束縛の絆を堅固たらしめる。

(350)[344]
 あれこれの考えをしずめるのを楽しみ、常に心身の汚れ(不浄)を観察して心を治める人は、実に悪魔の束縛の絆を取り除き、断ち切るであろう。

(355)[345]
 激流の中で、解脱(彼岸、ニルヴァーナ)を求める人々は享楽に害われることがない。愚人は享楽のために害われるが、享楽を執着するがゆえに、愚者は他人を害うように自分も害う。

[218](354) 第16章 愛するもの から移動
 言葉で説き得ないもの(ニルヴァーナ)に達しようとする志を起し、意(オモイ)はみたされ、諸の愛欲に心の礙げられることのない人は、(流れを上る者)と呼ばれる。

(354)[346]
 教えを説いて与えることはすべての贈与にまさり、教えの妙味はすべての味にまさり、教えを受ける楽しみはすべての楽しみにまさる。執着を滅ぼすことは全ての苦しみにうち勝つ。

(348+421)[175] 第14章ブッダ 詩421と合体して詩421を置き換える。
 前(過去の執着)を捨てよ。後(未来の執着)を捨てよ。中間(今の執着)を棄てよ。
 その様な人を生存の彼岸に達したという。
 その様な人はあらゆることがらについて心が解脱していて、もはや生れと老いとを受けることが無いであろう。
 そして、前(過去)にも、後(未来)にも、中間(現在)にも、全てのものを所有し、何ものをも執着する必要がない。
 ─その人を我は<ブッダ>と呼ぶ。

(351)[347] 第14章ブッダの詩403の後へ移動
 さとりの究極に達し、執着なく、恐れること無く、わずらいの無く、汚れを滅ぼしつくした人は、生存の矢を断ち切った。
 
(352)[348] 第14章ブッダの詩403の後へ移動
 執着をなくし欲望の激流を離れ、諸の語義に通じ諸の文章とその脈絡を知るならば、「大いなる知慧ある人」と呼ばれる。

(353)[349] 第14章ブッダのトップへ移動
 我は全てに打ち勝ち、全てを知り、あらゆることがらに関して汚されていない。全ての執着を捨てて、汚れが尽き、心は解脱している。自らさとったのであって、誰を(師と)呼ぼうか。

(398)+(356)~(359) [170] 第14章ブッダ 詩398を置き換える。
 この世の人々は、欲求、執着、怒り、誤った見解(迷妄)によって害われる。怒りと執着と誤った見解を断ち切り、潜在的な汚れを滅ぼし、無明が消失した、めざめた人、─その人を我は<ブッダ>と呼ぶ。

(第24章 執着と欲望と汚れ 終わり シリアルNo. 349まで使用)