第16章 愛するもの(解散)
この章は、もともと詩の数が12本と少なく、内容に統一感が無いので、章自体を解散し、各詩は内容によって、他の章に振り分けします。詩212〜216は型の中に異なる単語を入れる詩が5本並んでいて、これら自体は、第24章 執着と欲望と汚れに属するべき詩です。詩218も同章に配置を変えます。
詩217は、第21章のさまざまなこと 詩303に非常に似通っているので、この詩の前に移動します。
また、詩219と220は対なのですが、これがこの章に配置される必然性が感じられませんので、第16章 楽しみ に配置を変えます。
さらに、冒頭の詩209はとても含蓄のある詩ですが、こちらは第9章 悪へ配置を転換します。
詩210と211詩は、内容が虚偽なので削除しました。
以上により、第16章 愛するものは、章ごと無くなります。
詩番号 209
***(元データ)*************209)
道に違(タゴ)うたことになじみ、道に順(シタガ)ったことにいそしまず、目的を捨てて快いことだけを取る人は、みずからの道に沿って進む者を羨むに至るであろう。
***(判定)*************
A
***(コメント)*************
209)第9章 悪の冒頭に移動。
***(書換え詩)*************
209)書換え不要
詩番号 210、211
***(元データ)*************210)
愛する人と会うな。愛しない人とも会うな。愛する人に会わないのは苦しい。また愛しない人に会うのも苦しい。
211)
それ故に愛する人をつくるな。愛する人を失うのはわざわいである。愛する人も憎む人もいない人々には、わずらいの絆が存在しない。
***(判定)*************
210)、211)D
***(コメント)*************
「愛する人と会うな」etc. なんて、人間の一存でできるわけないのです。「神になるよう修行せよ」とか、「欲望をなくせ」とか、土台人間では無理な事を言って、頑張らせるのが、悪魔の常套手段です。人間って真面目ですから、できるはずと思い込んで、それでできないと、自分を責めてしまって、発狂するのです(そうですよね、百済の王様。)。できない理由が本当はどこにあるのかを、冷静に考えることが、実は人間の務めです。
人間である以上、できないものはできないと、本当は、教えで宣言しなくてはならないのでしょう。この2詩などは、虚偽で、悪しきところに引っ張られる人たちを増やすので、削除しなくてはなりません。
***(書換え詩)*************
210)削除
211)削除
詩番号 212〜216
***(元データ)*************212)
愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生ずる、愛するものを離れたならば、憂いは存在しない。どうして恐れることがあろうか?
213)
愛情から憂いが生じ、愛情から恐れが生ずる。愛情を離れたならば憂いが存在しない。どうして恐れることがあろうか?
214)
快楽から憂いが生じ、快楽から恐れが生じる。快楽を離れたならば憂いが存在しない。どうして恐れることがあろうか?
215)
欲情から憂いが生じ、欲情から恐れが生じる。欲情を離れたならば、憂いは存しない。どうして恐れることがあろうか。
216)
妄執から憂いが生じ、妄執から恐れが生じる。妄執を離れたならば、憂いは存しない。どうして恐れることがあろうか。
***(判定)*************
全てD
***(コメント)*************
212)〜216) 第24章 執着と欲望と汚れ 詩359の後に移動します。
これらの5詩は、「◯から憂いが生じ、◯から恐れが生じる。◯を離れたならば憂いが存在しない。どうして恐れることがあろうか?」という詩形が共通です。
◯の部分は、愛するもの、愛情、快楽、情欲、妄執です。これらの言葉を一つ一つ考えてみましょう。
(1)愛するもの自体が悪いというよりかは、愛するものへの執着がNGなのです。
(2)愛情は、慈悲に昇華できると思いますが、愛欲への執着と劣化する場合もあり、愛情自体は、定義をしない限りは、NGともOKとも判断がつきません。ただ、憂い、恐れの元として愛情を捉えるのであれば、愛欲への執着と捉えるべきでしょう。
(3)快楽は、無くすことは難しいです。快楽への執着と書くべきでしょう。
(4)情欲は、愛欲とほぼ同じと考えますので、情欲や愛欲への執着と捉えるべきでしょう。
(5)妄執は、“ 第24章の愛執(1)導入”で考察したように、煩悩の三毒の痴に属し、汚れの一つです。
分類結果をまとめると、
・愛するもの、愛情、快楽、情欲→執着
・妄執→心の汚れ
となります。したがって、
◯=執着、心の汚れ
で書き換えれば、すべてを網羅すると考えることもできます。
次に、詩形を考えます。「憂いが存在しない。どうして恐れることがあろうか?」という後半部分は、憂いと恐れの関係を言及していないにもかかわらず、両者があたかも関係あるように書いてあります。しかし、前半では、憂いと恐れが対等に書かれています。両者の関係をいたずらに考察する必要もないと考えますので、ここでは、前半にならって、後半を、憂いと恐れが対等な表現「憂いと恐れが存在しない。」とします。
***(書換え詩)*************
212)〜216)
執着から憂いが生じ、執着から恐れが生じる。執着を離れたならば憂いと恐れが存在しない。
212)〜216)
心の汚れから憂いが生じ、心の汚れから恐れが生じる。心の汚れを離れたならば憂いと恐れが存在しない。
詩番号 217、218
***(元データ)*************217)
徳行と見識とをそなえ、法にしたがって生き、真実を語り、自分のなすべきことを行なう人は、人々から愛される。
218)
ことばで説き得ないもの(ニルヴァーナ)に達しようとする志を起し、意(オモイ)はみたされ、諸の愛欲に心の礙げられることのない人は、(流れを上る者)とよばれる。
***(判定)*************
217)A
218)A
***(コメント)*************
217)第21章 さまざまなこと 詩303の前に移動。
218)第24章 執着と欲望と汚れ 詩355の後に移動。“ことば”を漢字に変えます。
***(書換え詩)*************
217)書換え不要
218)
言葉で説き得ないもの(ニルヴァーナ)に達しようとする志を起し、意(オモイ)はみたされ、諸の愛欲に心の礙げられることのない人は、(流れを上る者)と呼ばれる。
詩番号 219、220
***(元データ)*************219)
久しく旅に出ていた人が遠方から無事に帰って来たならば、親戚・友人・親友たちは彼が帰って来たのを祝う。
220)
そのように善いことをしてこの世からあの世に行った人を善業が迎え受ける。──親族が愛する人が帰って来たのを迎え受けるように。
***(判定)*************
219)A
220)A
***(コメント)*************
219)220)第16章 楽しみ 詩199の後に移動。
***(書換え詩)*************
219)書換え不要
220)書換え不要
(第16章 愛するもの(解散)終わり)