2018年10月12日金曜日

第24章 愛執(1)導入(元データと判定・解釈・考察と書き換え)

訂正・変更履歴
・①愛執と欲望についての言葉の整理 の最後の部分では、③煩悩での論理展開と不一致ががありましたので、③煩悩での論理展開に合わせて、訂正文を入れました。(181015)

・⑤まとめにおいて、決定したタイトルを、“執着と汚れと欲望と欲望”と修正します。(181016)

真理のことば 第24章 愛執(1)導入

注)真理のことば 第24章 愛執 についての考察(URL https://longtext.blogspot.com/2018/10/blog-post_10.html)の記事を充実させました。
*******目次******************
§1 導入
 ①愛執と欲望についての言葉の整理 
 ②執着と欲望を仏教によって捉えると 
 ③煩悩 
 ④憑依と心の汚れ 
 ⑤まとめ

§2 詩の読み下し
記事  第24章 愛執(2)(元データと判定・解釈・考察と書き換え)に掲載
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§1 導入

①愛執と欲望についての言葉の整理 

 愛執(あいしゅう)やこの章内で使われる愛欲というのは、仏教用語です。
 中村氏の真理のことばでは、愛執と愛欲は同じ意味で使われている場合もあり、そうでない場合もあり、また、明らかに誤りではないかと思われる箇所などが多々あります。そのため、全体としてぼやけた感じが残る章になっていると感じます。
 中村氏は、真理のことばを、伝統的な仏教の立場に立ち、学術的に訳しているだけですから、愛執と愛欲について、もちろん、ご自身の定義はなさっていません。
 しかし、おそらく、故意、過失にしろ、口伝で伝えられたとされる原文誤りを正さないことには、ラチがあきません。まず愛欲、愛執という言葉を調査し再定義して、詩を整理しましょう。

 両者の意味を調べて再定義すると、
(1)愛欲とは、主に異性ですが、他者からの愛情を求める欲
(2)愛執とは、様々な対象に対しての執着を愛する心
として問題がないようです。以前、「真理のことば 第24章 愛執 についての考察」(https://longtext.blogspot.com/2018/10/blog-post_10.html)で考察した愛欲の定義では、愛欲は異性からの愛情に対してだけに限定していましたが、親子間などの愛情がもつれた時に現れる障害の大きさを目の当たりにしてきたので、異性からの愛情に限定することはやめました。
 
 つまり、愛欲については、欲の一つと考えます。この考えのもと、詩335を読みくだしてみましょう。
 “此の世において執著(しゅうじゃく;執着で良いでしょう。)のもとであるこのうずく愛欲のなすがまま”と書いてあるのですが、愛欲とは執着(執心)を引き起こす元であるということです。しかし、今回定義した愛欲では、意味としては限定されすぎています。ですから、欲の総称として欲望と置き換えるのが適切です。しまいます。また、前後して大変申し訳ありませんが、③煩悩 A部の下線で記したように、煩悩の中でも、瞋(じん)、痴(ち)は心の汚れを増やす働きがあると同時に、執着の元(肥やし)になってしまうという議論をしています。したがって、この詩でも執着の元は、心の汚れという論法で話しを進めましょう。

②執着と欲望を仏教によって捉えると

 複雑ですが、大切な部分ですので、考えていきましょう。
 仏教では、五欲(ごよく)として、食欲、財欲、色欲、名誉欲、睡眠欲があります。他にもあるのでしょう。これらの欲は、この三次元の世界で、設定されているもので、執着を起こす側の人間には無くすことはできないのです。そして、これら全てをひっくるめて、欲(望)と言っていると考えるのです。話が前後しますが、私は、五欲に愛欲を加えたほうが良いと思います。性欲だけだと足りないと感じるのです。特定の異性の愛を求めるのが愛欲、ひたすら性的な行為に惹かれる対象不特定の欲を性欲とします。だいぶ、すっきりしたと思います。 
 以上のイメージと、これから記す内容を分かりやすくするために、図1を参照してください。
この世の中に設定されている欲望をイメージ化
・色によって欲望の種類を分けています。私は、食欲、財欲、色欲、名誉欲、睡眠欲に愛欲を加えて六欲が主な欲であると考えています。この図では、4本の流れしか書いていませんが、心がこれらの流れに乗って流される様子を表しました。流れに乗って、心が悪魔の領域に近づくと、悪魔たちにトラップされやすくなるイメージがあります。
・ニルヴァーナに正しく近づいている心もあります。心の丸とベクトルの色を違えているのは、バランスが取れていることを表します。

 他方、お釈迦様は、この世の中には激流が存在して、その激流と一緒に流れている無常のものに恋い焦がれて、精一杯追いかけるのが人間の心であるとしています。この激流に引っ張られる要因が、愛執、執着、執心なのです。また、実際には、愛執、執着、執心によって激流に一緒に流されているだけなのですが、その求めているものは、激流の中なので、なかなか掴めません。しかし、自分では激流の中で一生懸命追い求めている気になっているのです。激流とは、先ほど述べたすでに設定されている欲の数々で、すでに設定されているのです。しかし、どの欲の流れに流されるかは、その心の執着する癖によります(詩339)。食欲に弱い人もいれば、名誉欲に弱い人もいるっていうのが、現実ですから、この辺りはわかりやすいと思います。
 ちなみに、人間が恋い焦がれて追い求める“激流と一緒に流れている無常のもの”は、流れによって形作られたもので、実体のないもの、すなわち空であると認識するべきであるというのが、般若心経の教えです。

③煩悩

 ここまでで、執着と欲望が登場しましたが、実は、これだけでは人の心を語るには足らないのです。何が足りないのかというと、人の心を汚すとされる煩悩です。これが登場して、ようやく必要な役者が揃うといった感じです。これらによって、人の心と煩悩と執着と欲望の関連性の議論が完結できます。
 ここで、今回までの真理のことばの書き換え作業の考察で、お釈迦様の説かれた仏道の屋台骨が、全て登場したのではないかと、私は思っています。その屋台骨とは、

・人の心と煩悩と執着と欲望の関連性
・四諦(第25甲章 仏弟子(元データと判定・解釈・考察と書き換え)https://newbuddhawords.blogspot.com/2018/05/blog-post_28.html 参照)
・諸法非我
・諸行無常
・日々是精進
です。これらをおさえれば、煩雑な仏教教義の真偽を見極めることができ、個別のケースに適応できるようになると、私は考えています。

 では、煩悩について調べましょう。煩悩とは、原意では、心を汚すもの、仏教の教義を用いて言えば、身心を乱し悩ませ智慧を妨げる心の働きとされています。煩悩を分けると三つのものに分類され、三毒と呼ばれています。おそらく、お釈迦様もこの3分類で、仏道を説かれたのだと思います。後代になって、この分類が増え、日本では108つの除夜の鐘は人間の煩悩の数とされています。しかし、3分類の議論をきちんと行えば、個別の議論は各々がケースバイケースで、間違えずに行えることでしょう。人間には、すでにその力は備わっていると感じています。
 その3分類とは、
貪(とん);欲望への執着
瞋(じん);怒り,妬み、愚痴
痴(ち);無知(含無明)、慢心、疑惑、悪見
と言われています。
 執着は、流されたことにより誤った行動を起こしますが、どうしても流されてしまったという他力的な作用が働いているとも言えます。そのため、執着は欲望の激流に流される羽や触角みたいなものなのです。
 一方、心を正しく制御する方向性を失わせる自発的な原因を作るのは、瞋や痴です。さらに、瞋や痴は執着を増すための肥やしになってしまうことも簡単に理解できると思います(A部)
 よって、貪(執着)は、身心を乱し悩ませ智慧を妨げる心の働きの一つではありますが、瞋や痴とは異なる心の汚れとして、

・貪(とん):欲望への執着で、激流(欲望)を感知して心を激流れに乗せる役割

・瞋(じん)、痴(ち):心を汚し、魂や心の真理に従った舵取りを不能にさせる役割と執着を増やす役割

と2分類できるとも言えます。これらの話を図2にまとめたので参照してください。


図2 煩悩についてのまとめ

 この三毒が人間の心にどのように働きかけるかのイメージ図を図3に載せます。心の汚れが増えれば増えるほど、執着が増え、さらに正しい心の舵取りが困難になります。というのも、心が無明や汚れに覆われ、正しい情報が入ってこないからです。ちなみに、汚れというのは、実は思考の悪い癖なのです。もう、これが増えちゃうと、どうにも、動きが取れなくなり、魂向上のスパイラルに乗れなくなります。図4の良い循環パターンと悪い循環パターンを参考にしてください。これが、人の心と煩悩と執着と欲望の関連性なのです。
図3 心の構造と心の汚れと執着のイメージ図

“ 3. 魂と脳と守護霊の考察 ” の補足図を参考にしてください。



図4 三毒による心の進化と退化パターン


④憑依と心の汚れ

 悪霊団が心を覆い尽くしてしまうことがあります。大体は、その人の心の汚れ(思考パターン)と似た悪霊団が憑きます。よって、悪霊団が心を覆い尽くすのと、心の汚れが心を覆い尽くすのは、非常に似た状況を作り出します。しかし、封印を兼ねて強いパワーを持つ悪霊に心が覆い隠されることがごく稀にあります。ただ、普通の人は、そんなことはなく、自分と似たものを呼び寄せているのが現実で、心の汚れを増せば増すほど、悪霊団を呼び寄せてしまいます。

⑤まとめ

 自分が、この世の中で何かを一生懸命追いかけて苦しくなった時、実は自分は無駄なものを追いかけているのではないか?という疑問が起こる時が誰にだって何回かは経験があるはずです。そこが、実は、択法の機会なのです。正しい教えを探し求めて、今までの自分の生活が正しい教えに沿っていたのかを考えなくてはならない時期なのです。そして、幸運にもそれを見つけたら(守護神が示してくださるのですが)、疑わずに、その教えに沿って努め励み、激流の中を自己の人生が正しい真理に従って進めるように、守護神の力を借りて、心と魂は一体となって、全力で舵を取らなければいけないのです。そして、順調に流れを進み続けていたとしても、ちょっとした考え違いで、また激流に流されてしまうと、お釈迦様は人間たちに教えてらっしゃいます。ただ、心の汚れが増えすぎたら手の施しようがなくなることは、注意しないといけないでしょう。

 以上の考察から、第24章は、愛執という言葉はやめて、日本人にとって親しみのある執着を使い、タイトルを “愛執”から“執着と汚れと欲望と欲望”と変更します。

 また、詩334~347までは順を追って→詩349、350→詩355→詩354(第15章 楽しみへ移動)→詩348、351~353、356~359(第14章 ブッダへ移動)の順に、詩を読み下し、編成を変更します。

§2 詩の読み下し」は記事  “第24章 愛執(2)(元データと判定・解釈・考察と書き換え)”に掲載予定
(第24章 愛執(1)(元データと判定・解釈・考察と書き換え)終わり)