第18章 汚れ
全体に二人称が汝となっているので、お釈迦様がいつも通じていらっしゃる上位の存在とは異なる別の上位の存在からの教えであると考えています。
詩243は無明について語っているのですが、無明は人間が持つ汚れの中でも最も根源的な汚れだと言われています。お釈迦様の説かれた仏道の教えの中では、諸行無常、諸法無我、一切皆苦、八正道(=悟りのよすが、五根)と肩を並べるほど大切だと考えていますので、字数を割いて記述しました。
しかし、当方は、このテキストで初めて仏教を系統的に学んでいる上に、なんだか思いもよらない文章が頭に浮かんできてしまいました。こんな時は、なかなか文章を整えるのに苦労するので、何度も読み返したりしましたが、説明に不備が多いと思います。
このテキストは仏道に詳しい方ばかりのために記しているのではなく、当方のように別の畑で生きてきて、縁があってお釈迦様の旗のもとに集ったような一般の方のために記しておりますので、その方々の何かのお役に立てたらと思っています。僧侶の皆様にとっては、無明についての記述は読み苦しい段階かもしれませんが、ご容赦ください。
詩番号 235~240
***(元データ)*************
235)汝はいまや枯葉のようなものである。閻魔王の従卒もまた汝に近づいた。汝はいま死出の門路に立っている。しかし汝には資糧(かて)さえも存在しない。
236)だから、自己のよりどころをつくれ。すみやかに努めよ。賢明であれ。汚れをはらい、罪過がなければ、天の尊い処に至るであろう。
237) 汝の生涯は終りに近づいた。汝は、閻魔王の近くにおもむいた。汝には、みちすがら休らう宿もなく、旅の資糧も存在しない。
238)だから、自己のよりどころをつくれ。すみやかに努めよ。賢明であれ。汚れをはらい、罪過がなければ、汝はもはや生と老いとに近づかないであろう。
239)聡明な人は順次に少しずつ、一刹那ごとに、おのが汚れを除くべし、___鍛冶工が銀の汚れを除くように。
240)鉄から起った錆が、それから起ったのに、鉄自身を損なうように、悪をなしたならば、自分の業が罪を犯した人を悪いところ(地獄)にみちびく。
***(判定)*************
235)A
236)E
237)E
238)A
239)A
240)A
***(コメント)*************
中村氏は、236)、237)の二つの詩は、漢訳には見当たらないとのことから、後代に付け加えられた詩ではないかと注釈なさっています。
詩237は詩235とほぼ同じなので、詩235を残せば十分ですから、詩237は削除します。
仏教は、死後の世界をよりよくするために説かれているのではなく、精神性(霊性 or 魂)の向上を目指し、今、自分がどう努め励むべきかを説いた教えですから、詩236の“天の尊い処に至る”という部分は不適当です。他方、詩238では、“汝はもはや生と老いとに近づかないであろう”という部分は、転生からの離脱を説いているので、よりお釈迦様の教えを忠実に述べています。したがって、詩236は削除して、詩238を残します。
これらの作業によって、詩235、238と並ぶのですが、とても順序が良くなり、教えがスムーズに頭に流れてくるようになります。
239)なし
240)詩中の地獄を削除します。
***(書換え詩)*************
235)汝はいまや枯葉のようなものである。閻魔王の従卒もまた汝に近づいた。汝はいま死出の門路に立っている。しかし汝には資糧(かて)さえも存在しない。
238)だから、自己のよりどころをつくれ。すみやかに努めよ。賢明であれ。汚れをはらい、罪過がなければ、汝はもはや生と老いとに近づかないであろう。
239)聡明な人は順次に少しずつ、一刹那ごとに、おのが汚れを除くべし、___鍛冶工が銀の汚れを除くように。
240)鉄から起った錆が、それから起ったのに、鉄自身を損なうように、悪をなしたならば、自分の業が罪を犯した人を悪いところにみちびく。
詩番号 241~243
***(元データ)*************
241)読誦しなければ聖典が汚れ、修理しなければ家屋が汚れ、身なりを怠るならば容色が汚れ、なおざりになるならば、つとめ慎しむ人が汚れる。
242)不品行は婦女の汚れである。もの惜しみは、恵み与える人の汚れである。悪事は、この世においてもかの世においても(つねに)汚れである。
243)この汚れよりもさらに甚だしい汚れがある。無明こそ最大の汚れである。修行僧らよ。この汚れを捨てて、汚れ無き者となれ。
***(判定)*************
241)A
242)A
243)D
***(コメント)*************
241)なし
242)なし
243)
無明(avija)という言葉は、お釈迦様が初めて使われたのかどうか?はわかりませんが、このようなものが存在するとは、私も最近は切に感じています。詩241、242のような汚れは、表に現れている汚れですが、これらを取り払うのは、普段の生活を正しく送るように心がければ順次なくなっていき、自分の努力が物を言います。これも、洗脳などの怪しいバイアスがかかることによって、なかなか汚れを取り除けない人が増えた昨今です。
しかし、この無明というのが、感じる事すら出来ないので、なくすのが難しいのです。そして、この無明は変化(へんげ)して行為で汚れとして表に現れるので、その度ごとに、自分の努力で表に現れている汚れとしてなくさなければなりません。そして、無明が変化した汚れが徐々に表に現れないようにしていかなくてはなりません。そうしてようやく無明が感じられるようになってきます。
この無明は、努力して自力で取るというより、仏道(“真理のことば”)で説かれている教えに従って、常に慎み、努め励んだ人が、より上位の存在によって取り払ってもらえるというイメージを持っています。
ですから、無明を取っても大丈夫と判断してもらえるまでに、自分でできることは日々精進しかないのです。最後のスイッチは上位のお方が持ってらっしゃるようです(多分、本守護神さんではないかと思っています。)。
この無明が取れてしまうと、魂が、荒波や激流だらけのこの世の中に、真の意味で直接つながってしまうので、魂がそれに耐えうる強さを持っているか否かで、上位の方は判断なさるようです。しかし、上位の存在とも直接つながるので、自分が何をなすべきか、直接のご指導ご鞭撻が受けられるというメリットがあります。
したがって、無明は外してもらえるように精進するのが我々人間の務め・課題ではあるのですが、まだ直接、この世の中では修行できない普通の魂の保護バリアとしての役割があるのではないかとも思います。無明が、最大の汚れであると同時に、魂の保護バリアであるという二面性は、とても興味深いです。
無明については、良いブログ(http://www.st.rim.or.jp/~success/mumyou_ye.html)を発見しましたので、以下に重要な部分を引用します。
ー引用開始ー
仏教に無明(むみょう)という言葉がある。無明とは、人間が根本的に持っている無知のことである。人生における人間の苦しみは、すべてこの無明から始まることをブッダは、瞑想の中から発見した。人は、その無明というものを取り払うことで、心安らかに生きていける。何だ、人生の秘密とは、こんなことだったのか。ブッダは、余りに簡単な人生の秘密を知って、興奮し、感激し、どきどきしながら、世界の誰もが知っていないはずの、この純粋で微妙な感覚の余韻にしばらく浸っていたのである。
次にブッダは悩んだ。この自分が知ったことを、世の中に伝えたいのだが、この内容が余りに簡単で単純であるのに、実に微妙で、奥深い意味をはらんでいることなので、とても理解してはもらえないだろう。と思ってしまったのである。
しばらく考えたブッダは、ついに意を決して、以前一緒に修業をしていた仲間に、初めてその人生の秘密を伝えたのである。やはり最初、その仲間達は、ブッダの発見を聞いて、「無明が人間の苦の根元である。だからこの無明さえ取り払って、真の智慧を獲得すれば、全ては解決する」というその余りの簡単な答を馬鹿にして、取り合わなかった。
それでもブッダは真剣に、持論に誠意を持って説いたのである。「人生というものは、人が思っているほど、複雑ではない。ごく単純な法則が、根底にあり、それが絡み合って見えるから、複雑に見えているだけなのである。」と熱弁をふるった。やがて一人が、ブッダのその考えを理解した。すると次々と無明の意味を理解し始めた。これが仏教の始まりである。
ー引用終了ー
***(書換え詩)*************
241)書換え不要
242)書換え不要
243)これらの汚れより、さらに根元的な汚れが、無明である。修行僧らよ、努め励み、慎むことにより、もろもろの汚れを順次捨て、ついには自己を覆う無明が壊れ去るのを見とどけよ。
詩番号 244~248
***(元データ)*************
244)恥をしらず、烏のように厚かましく、図々しく、ひとを責め、大胆で、心のよごれた者は、生活し易い。
245) 恥を知り、常に清きをもとめ、執著をはなたれ、慎み深く、真理を見て清く暮す者は、生活し難い。
246、247)生きものを殺し、虚言(いつわり)を語り、世間において与えられないものを取り、他人の妻を犯し、穀酒・果実酒に耽溺する人は、この世において自分の根本を掘りくずす人である。
248)人よ。このように知れ、___慎みがないのは悪いことである。
___貪りと不正とのゆえに汝が永く苦しみを受けることのないように。
***(判定)*************
全て A
***(コメント)*************
その通りだと思いますので、コメントはありません。
***(書換え詩)*************
244)~248)全て書換え不要
詩番号 249、250
***(元データ)*************
249)人は、信ずるところにしたがって、きよき喜びにしたがって、ほどこしをなす。だから、他人のくれた食物や飲料に満足しない人は、昼も夜も心の安らぎを得ない。
250)もし人がこの(不満の思い)を絶ち、根だやしにしたならば、かれは昼も夜も心のやすらぎを得る。
***(判定)*************
D
***(コメント)*************
施しを為す人と、なされる人に対する詩として、間違いがない部分と判断した部分を残し、施しに対する注意事項を付け足します。その注意事項とは、修行僧や托鉢僧、ひいては神様への供物などの施しに関して、施主は、見返りを求めてはならないという大原則があるので、この大原則を付け足します。
また、施し物を受ける方は、正しくなされた施し物に感謝しないのは反則ですが、正しくなされなかった施しは、感謝する必要はありません。
***(書換え詩)*************
249)
人は、信ずるところにしたがって、きよき喜びにしたがって、正しくほどこしをなさなくてはならない。
また、施しに見返りを求めてはならない。なぜならば、これにより汚れが増す。
250)正しくほどこされた食物や飲料に満足しない人は、昼も夜も心の安らぎを得ず、汚れが増す。
詩番号 251~253
***(元データ)*************
251)情欲にひとしい火は存在しない。不利な骰(さい)の目を投げたとしても、怒りにひとしい不運は存在しない。迷妄にひとしい網は存在しない。妄執にひとしい河は存在しない。
252)他人の過失は見やすいけれど、自己の過失は見がたい。ひとは他人の過失を籾殻のように吹き散らす。しかし自分の過失は、隠してしまう。
___狡猾な賭博師が不利な骰(さい)の目をかくしてしまうように。
253)他人の過失を探し求め、つねに怒りたける人は、煩悩の汚れが増大する。かれは煩悩の汚れの消滅から遠く隔っている。
***(判定)*************
全てA
***(コメント)*************
251、252)ひらがなを漢字に書き換えました。
***(書換え詩)*************
251)情欲に等しい火は存在しない。不利な骰(さい)の目を投げたとしても、怒りに等しい不運は存在しない。迷妄に等しい網は存在しない。妄執に等しい河は存在しない。
252)他人の過失は見やすいけれど、自己の過失は見がたい。人は他人の過失を籾殻のように吹き散らす。しかし自分の過失は、隠してしまう。
___狡猾な賭博師が不利な骰(さい)の目をかくしてしまうように。
253)書換え不要
詩番号 254、255
***(元データ)*************
254)虚空には足跡が無く、外面的なことを気にかけるならば、<道の人>ではない。ひとびとは汚れのあらわれをたのしむが、修行完成者は汚れのあらわれをたのしまない。
255) 虚空には足跡が無く、外面的なことを気にかけるならば、<道の人>ではない。造り出された現象が常住であることは有り得ない。真理をさとった人々(ブッダ)は、動揺することがない。
***(判定)*************
D
***(コメント)*************
“虚空には足跡が無く、外面的なことを気にかけるならば、<道の人>ではない”は、両詩とも前半とのつながりが全く意味不明です。さらに、両詩とも、後半部分が大切ですので、この前半の部分は削除します。
詩255は、真理をさとった人は、どうして動揺することがないのかを考えてみました。この章の無明を含めた“汚れ”が、悪縁となって不安が起こるというのが基本的な仏道の教え(私もこれは賛成です)ですから、ここがはっきりするように詩を書換えます。これにより、この詩が“汚れの章”にある意味が鮮明になると思います。
***(書換え詩)*************
254)人々は汚れのあらわれを楽しむが、修行完成者は汚れのあらわれを楽しまない。
255) 造り出された現象が常住であることは有り得ない。真理をさとった人々(ブッダ)は、全ての汚れがなくなったので、動揺することがない。
(第18章 汚れ 終わり)