訂正・変更履歴
・[142](298) の詩が重複していましたので、重複部分を取り消し線で消しました。(20181005)
・第9章 悪の冒頭に、[209](350) を 第16章 愛するものから移動しました。(181022)
書換え詩一覧(その11)第9, 10, 17章 悪、暴力、 怒り
第9章 悪
[209](350) 第16章 愛するものから移動
道に違(タゴ)うたことになじみ、道に順(シタガ)ったことにいそしまず、目的を捨てて快いことだけを取る人は、みずからの道に沿って進む者を羨むに至るであろう。
[116](276)
善をなすのを急げ。悪から心を退けよ。善をなすのにのろのろしたら、心は悪事をたのしむ。
[117](277)
人がもしも悪いことをしたならば、それを繰り返すな。悪事を心がけるな。悪が積み重なるのは苦しみである。
[118](278)
人がもし善いことをしたならば、それを繰り返せ。善いことを心がけよ。善いことが積み重なるのは楽しみである。
[119](279)
まだ悪い報いが熟さない間は、悪人でも幸運に遭うことがある。しかし悪の報いが熟したときは、悪人は災いに遭う。
[120](280)
まだ善い報いが熟さない間は、善人でもわざわいに遭うことがある。しかし善の果報が熟したときは、善人は幸福(サイワイ)に遭う。
[121](281)
「その報いは私には来ないであろう」と思って、悪を軽んずるな。水が一滴ずつ滴り落ちるならば、水瓶でも満たされるのである。愚かな者は、水を少しずつでも集めるように悪を積むならば、やがて災いに満たされる。
[122](282)
「その報いはわたしには来ないであろう」と思って、善を軽んずるな。水が一滴ずつ滴り落ちるならば、水瓶でも満たされる。気をつけている人は、水を少しずつでも集めるように善を積むならば、やがて福徳に満たされる。
[123](283)
同行する仲間が少ないのに多くの財を運ばねばならぬ商人が、危険な道を避けるように、また生きたいと願う人が毒を避けるように、人はもろもろの悪を避けよ。
[124](284)
もしも手に傷が無いならば、その人は手で毒をとり去ることもできるであろう。傷の無い人に、毒は及ばない。悪をなさない人には、悪の及ぶことがない。
[125](285)
汚れの無い人、清くて咎のない人をそこなう者がいるならば、その災いは、かえってその浅はかな人に至る。風にさからって細かい塵を投げると、(その人にもどって来る)ように。
[126](286)
汚れの無い人々は全き安らぎに入り輪廻を離れ、それ以外の人々は輪廻にとどまり、行いにより死後に赴く場所が決まる。
[127](287)
大空の中にいても、大海の中にいても、山の中の奥深いところに入っても、およそ世界のどこにいても、悪業から脱れることのできる場所は無い。
[128](288)
大空の中にいても、大海の中にいても、山の中の洞窟に入っても、およそ世界のどこにいても、死の脅威のない場所は無い。
(第9章 悪 終わり)
第10章 暴力
[129](289)
全ての者は暴力におびえ、全ての者は死を恐れる。
(己への)この思いを忘れず、生きものを不当に殺してはならぬ。他者に不当に殺させてはならぬ。
[130](290)
全ての者は暴力におびえ、全ての(生きもの)にとって生命は愛しい。
(己への)この思いを忘れず、生きものを不当に殺してはならぬ。他者に不当に殺させてはならぬ。
[131](291)
生きとし生ける者は幸せを求めている。もしも暴力によって生きものを害するならば、その人は自分の幸せを求めていても、死後には幸せが得られない。
[132](292)
生きとし生ける者は幸せを求めている。もしも暴力によって生きものを害さないならば、死後に、その人は自分の求めていた幸せが得られる。
[133](293)
荒々しい言葉を言うな。言われた人々は汝に言い返すであろう。怒りを含んだ言葉は苦痛である。報復が汝の身に至るであろう。
[134](294)
壊れた鐘のように、声を荒げないならば、汝は安らぎに達している。汝はもはや怒り罵ることがないからである。
[135](295) 第11章 老いること の詩番号148の後に移動
牛飼いが棒をもって牛どもを牧場に駆り立てるように、老いと死とは生きとし生けるものどもの寿命を駆り立てる。
[136](296) 第5章 愚かな人 詩番号69の後に移動
愚かな者は、悪い行いをしておきながら、気がつかない。しかし浅はかな愚者は自分自身のしたことによって悩まされる。
[137](削除)
[140](削除)
[141](297) [141]、[142]は第25章 修行僧 の一番初めに移動
裸の行も、髻に結うのも、身が泥にまみれるのも、断食も、露地に臥すのも、塵や泥を身に塗るのも、蹲って動かないのも、_疑いを離れていない人を浄めることはできない。
[142](298) [141]、[142]は第25章 修行僧 の一番初めに移動
身の装いはどうあろうとも、行い静かに、心を治め、身をととのえて、慎みぶかく、行い正しく、生きとし生けるものに対して暴力を用いない人こそ、<修行僧>である。
[143, 144](299) 第6章 賢い人 の最後に移動
自ら恥じて自己を制し、良い馬が鞭を気にかけないように、世の非難を気にかけない人が、この世に誰か居るだろうか?
賢い人よ、鞭をあてられた良い馬のように勢いよく努め励めよ。
正しい信仰・戒しめ、はげみ、精神統一や禅定により思念をこらし、真理を確かに知り、この少なからぬ苦しみを除けよ。そして、知慧と行いを完成させよ。
[145](削除)
(第10章 暴力 終わり)
第17章 怒り
[221](削除)
[222](300)
走る車をおさえるようにむらむらと起る怒りをおさえる人___かれをわれは<御者>とよぶ。他の人はただ手綱を手にしているだけである。(<御者>とよぶにはふさわしくない。)
[223](301)
怒りを制すことによって怒りに、
善いことによって悪いことに、
わかち合うことによって物惜しみに、
真実によって虚言の人にう立ち向かわなくてはならない。
[224](削除)
[225](削除)
[226](302)
人が、ニルヴァーナを得ようとめざし、常に目ざめていているように昼も夜も努め学ぶならば、もろもろの汚れは消え失せる。
[227p](303)
アトゥラたちは、お釈迦様に帰依した三人の長老に教えを請い求めましたが、十分に納得出来る教えを示されませんでした。彼らは不満を抱いて、ついに、お釈迦様の元を訪ね、今までの経緯を述べて、教えを請いました。そのアトゥラたちにお釈迦様は、次のように語られました。
[227](304)
アトゥラよ。これは昔にも言うことであり、いまに始まることでもない。沈黙している者も非難され、多く語る者も非難され、すこしだけ語る者も非難される。世に非難されない者はいない。
[228](305)
ただ誹られるだけの人、またただ褒められるだけの人は、過去にもいなかったし、未来にもいないであろう、現在にもいない。
[229](306)
もしも心ある人が日に日に考察して、「この人は賢明であり、行いに欠点がなく、知慧と徳行とを身にそなえている」といって称讃するならば、
[230](307)
その人を誰が非難し得るだろうか? かれはジャンブーナダ河から得られる黄金でつくった金貨のようなものである。神々もかれを称讃する。梵天でさえもかれを称讃する。
[231](308)
身体がむらむらするのを、まもり落ち着けよ。身体について慎んでおれ。身体による悪い行いをやめよ。
[232](309)
言葉がむらむらするのを、まもり落ち着けよ。言葉について慎んでおれ。言葉による悪い行いをやめよ。
[233](310)
心がむらむらするのを、まもり落ち着けよ。心について慎んでおれ。心による悪い行いをやめよ。
[234](311)
落ち着いて思慮ある人は、いかなる時でも、身を慎み、ことばを慎み、心を慎しむ。このように彼らは実によく己れをまもっている。
(第17章 怒り 終わり)