2018年10月4日木曜日

第9, 10, 17章 悪、暴力、 怒り 書換え詩一覧 その11

訂正・変更履歴
・[142](298) の詩が重複していましたので、重複部分を取り消し線で消しました。(20181005)
・第9章 悪の冒頭に、[209](350) を 第16章 愛するものから移動しました。(181022)

書換え詩一覧(その11)第9, 10, 17章 悪、暴力、 怒り
第9章 悪
[209](350)  第16章 愛するものから移動
 道に違(タゴ)うたことになじみ、道に順(シタガ)ったことにいそしまず、目的を捨てて快いことだけを取る人は、みずからの道に沿って進む者を羨むに至るであろう。

[116](276)
 善をなすのを急げ。悪から心を退けよ。善をなすのにのろのろしたら、心は悪事をたのしむ。

[117](277)
 人がもしも悪いことをしたならば、それを繰り返すな。悪事を心がけるな。悪が積み重なるのは苦しみである。

[118](278)
 人がもし善いことをしたならば、それを繰り返せ。善いことを心がけよ。善いことが積み重なるのは楽しみである。

[119](279)
 まだ悪い報いが熟さない間は、悪人でも幸運に遭うことがある。しかし悪の報いが熟したときは、悪人は災いに遭う。

[120](280)
 まだ善い報いが熟さない間は、善人でもわざわいに遭うことがある。しかし善の果報が熟したときは、善人は幸福(サイワイ)に遭う。

[121](281)
 「その報いは私には来ないであろう」と思って、悪を軽んずるな。水が一滴ずつ滴り落ちるならば、水瓶でも満たされるのである。愚かな者は、水を少しずつでも集めるように悪を積むならば、やがて災いに満たされる。

[122](282)
「その報いはわたしには来ないであろう」と思って、善を軽んずるな。水が一滴ずつ滴り落ちるならば、水瓶でも満たされる。気をつけている人は、水を少しずつでも集めるように善を積むならば、やがて福徳に満たされる。

[123](283)
 同行する仲間が少ないのに多くの財を運ばねばならぬ商人が、危険な道を避けるように、また生きたいと願う人が毒を避けるように、人はもろもろの悪を避けよ。

[124](284)
 もしも手に傷が無いならば、その人は手で毒をとり去ることもできるであろう。傷の無い人に、毒は及ばない。悪をなさない人には、悪の及ぶことがない。

[125](285)
 汚れの無い人、清くて咎のない人をそこなう者がいるならば、その災いは、かえってその浅はかな人に至る。風にさからって細かい塵を投げると、(その人にもどって来る)ように。

[126](286)
 汚れの無い人々は全き安らぎに入り輪廻を離れ、それ以外の人々は輪廻にとどまり、行いにより死後に赴く場所が決まる。

[127](287)
 大空の中にいても、大海の中にいても、山の中の奥深いところに入っても、およそ世界のどこにいても、悪業から脱れることのできる場所は無い。

[128](288)
 大空の中にいても、大海の中にいても、山の中の洞窟に入っても、およそ世界のどこにいても、死の脅威のない場所は無い。
(第9章 悪 終わり)
第10章 暴力
[129](289) 
 全ての者は暴力におびえ、全ての者は死を恐れる。
(己への)この思いを忘れず、生きものを不当に殺してはならぬ。他者に不当に殺させてはならぬ。

[130](290)
 全ての者は暴力におびえ、全ての(生きもの)にとって生命は愛しい。
(己への)この思いを忘れず、生きものを不当に殺してはならぬ。他者に不当に殺させてはならぬ。

[131](291)
生きとし生ける者は幸せを求めている。もしも暴力によって生きものを害するならば、その人は自分の幸せを求めていても、死後には幸せが得られない。

[132](292)
 生きとし生ける者は幸せを求めている。もしも暴力によって生きものを害さないならば、死後に、その人は自分の求めていた幸せが得られる。

[133](293)
 荒々しい言葉を言うな。言われた人々は汝に言い返すであろう。怒りを含んだ言葉は苦痛である。報復が汝の身に至るであろう。

[134](294)
 壊れた鐘のように、声を荒げないならば、汝は安らぎに達している。汝はもはや怒り罵ることがないからである。
 
[135](295) 第11章 老いること の詩番号148の後に移動
 牛飼いが棒をもって牛どもを牧場に駆り立てるように、老いと死とは生きとし生けるものどもの寿命を駆り立てる。

[136](296) 第5章 愚かな人 詩番号69の後に移動
 愚かな者は、悪い行いをしておきながら、気がつかない。しかし浅はかな愚者は自分自身のしたことによって悩まされる。

[137](削除)

[140](削除)

[141](297) [141]、[142]は第25章 修行僧 の一番初めに移動
 裸の行も、髻に結うのも、身が泥にまみれるのも、断食も、露地に臥すのも、塵や泥を身に塗るのも、蹲って動かないのも、_疑いを離れていない人を浄めることはできない。

[142](298) [141]、[142]は第25章 修行僧 の一番初めに移動
  身の装いはどうあろうとも、行い静かに、心を治め、身をととのえて、慎みぶかく、行い正しく、生きとし生けるものに対して暴力を用いない人こそ、<修行僧>である。
 身の装いはどうあろうとも、行い静かに、心を治め、身をととのえて、慎みぶかく、行い正しく、生きとし生けるものに対して暴力を用いない人こそ、<修行僧>である。

[143, 144](299) 第6章 賢い人 の最後に移動
 自ら恥じて自己を制し、良い馬が鞭を気にかけないように、世の非難を気にかけない人が、この世に誰か居るだろうか?
 賢い人よ、鞭をあてられた良い馬のように勢いよく努め励めよ。
 正しい信仰・戒しめ、はげみ、精神統一や禅定により思念をこらし、真理を確かに知り、この少なからぬ苦しみを除けよ。そして、知慧と行いを完成させよ。

[145](削除)
(第10章 暴力 終わり)

第17章 怒り
[221](削除)
[222](300)
 走る車をおさえるようにむらむらと起る怒りをおさえる人___かれをわれは<御者>とよぶ。他の人はただ手綱を手にしているだけである。(<御者>とよぶにはふさわしくない。)

[223](301)
怒りを制すことによって怒りに、
善いことによって悪いことに、
わかち合うことによって物惜しみに、
真実によって虚言の人にう立ち向かわなくてはならない。

[224](削除)

[225](削除)

[226](302)
 人が、ニルヴァーナを得ようとめざし、常に目ざめていているように昼も夜も努め学ぶならば、もろもろの汚れは消え失せる。

[227p](303)
 アトゥラたちは、お釈迦様に帰依した三人の長老に教えを請い求めましたが、十分に納得出来る教えを示されませんでした。彼らは不満を抱いて、ついに、お釈迦様の元を訪ね、今までの経緯を述べて、教えを請いました。そのアトゥラたちにお釈迦様は、次のように語られました。

[227](304)
 アトゥラよ。これは昔にも言うことであり、いまに始まることでもない。沈黙している者も非難され、多く語る者も非難され、すこしだけ語る者も非難される。世に非難されない者はいない。

[228](305)
 ただ誹られるだけの人、またただ褒められるだけの人は、過去にもいなかったし、未来にもいないであろう、現在にもいない。

[229](306)
 もしも心ある人が日に日に考察して、「この人は賢明であり、行いに欠点がなく、知慧と徳行とを身にそなえている」といって称讃するならば、

[230](307)
 その人を誰が非難し得るだろうか? かれはジャンブーナダ河から得られる黄金でつくった金貨のようなものである。神々もかれを称讃する。梵天でさえもかれを称讃する。

[231](308)
 身体がむらむらするのを、まもり落ち着けよ。身体について慎んでおれ。身体による悪い行いをやめよ。

[232](309)
 言葉がむらむらするのを、まもり落ち着けよ。言葉について慎んでおれ。言葉による悪い行いをやめよ。

[233](310)
 心がむらむらするのを、まもり落ち着けよ。心について慎んでおれ。心による悪い行いをやめよ。

[234](311)
 落ち着いて思慮ある人は、いかなる時でも、身を慎み、ことばを慎み、心を慎しむ。このように彼らは実によく己れをまもっている。


(第17章 怒り 終わり)