2018年10月15日月曜日

真理のことば 第24章 愛執(2)詩文考察編(元データと判定・解釈・考察と書き換え)

訂正・変更履歴
・タイトルを“執着と汚れと欲望から“執着と欲望と汚れ”と変更(181016)
詩212~215を第16章愛するものから詩349の前に移動します。(181022)
詩218を第16章愛するものから詩355の後に移動します。(181022)

真理のことば 第24章 愛執(2) 詩文の考察 

真理のことば  第24章 (愛執 改め)執着と汚れと欲望と汚れ  

詩番号 334

***(元データ)*************
334)
 恣(ほしいまま)のふるまいをする人には愛執が蔓草(つるくさ)のようにはびこる。林の中で猿が果実を探し求めるように、(この世からかの世へと)あちこちにさまよう。

***(判定)*************
B
***(コメント)*************
 恣(ほしいまま)のふるまいをする人とは、(言動を)慎まない(=自制しない)、努めない、励まない、学ばない人のことです。
 愛執は執着に変えます。執着が蔓草ならば、心の汚れはそれを潤す水とか肥料といったところです。
(この世からかの世へと)は、輪廻転生していることなので、そのように表現します。

***(書換え詩)*************
334)
 (ほしいまま)のふるまいをする人には執着が蔓草(つるくさ)のようにはびこる。林の中で猿が果実を探し求めるように、輪廻転生し、あちこちさまよう。

詩番号 335、336

***(元データ)*************
335)
 この世において執著のもとであるこのうずく愛欲のなすがままである人は、もろもろの憂いが増大する。__雨が降ったあとにはビーラナ草がはびこるように。

336)
 この世において如何ともし難いこのうずく愛欲を断ったならば、憂いはその人から消え失せる。__水の滴が蓮華から落ちるように。

***(判定)*************
335)B
336)B
***(コメント)*************
 執著を執着に変えます。
 執着の元は心の汚れですから、愛欲を心の汚れと置き換え、文章を整えます。
 詩335)は第24章 愛執(1)(元データと判定・解釈・考察と書き換え)(https://newbuddhawords.blogspot.com/2018/10/blog-post_12.html)の議論で使用しましたが、この議論には訂正が入っていますので(赤字で訂正が入れてあります)、前出の記事を読み返してください。

***(書換え詩)*************
335)
 この世において、執着のもとである汚れによりうずく心のなすがままである人は、もろもろの憂いが増大する。_雨が降ったあとにはビーラナ草がはびこるように。

336)
 この世において如何ともし難いこのうずく心の汚れを断ったならば、憂いはその人から消え失せる。_水の滴が蓮華から落ちるように。

詩番号 337

***(元データ)*************
337)
 さあ、みなさんに告げます。__ここに集まったみなさんに幸あれ。欲望の根を掘れ。_(香しい)ウシーラ根を求める人がビーラナ草を掘るように。葦が激流に砕かれるように、魔にしばし砕かれてはならない。

***(判定)*************
B
***(コメント)*************
 欲望は、我々人間にはどうにもできないという立場なので、“欲望の根を掘れ”ではなく、「執着の根を掘れ」と書き換えます。
また、中間の詩は、
 ・“(香しい)ウシーラ根は、前後関係から考えると、執着の根、つまり心の汚れです。これが香しいと形容すること、
 ・“ビーラナ草を掘る”は、“ビーラナ草を刈る”としたほうが正しいのではないのか?
など、疑問が多く、ただの比喩の詩として挿入されているだけなので、削除します。

***(書換え詩)*************
337)
 さあ、皆さん告げます。_ここに集まった皆さんに幸あれ。執着の根(心の汚れ)を掘れ。葦が激流に砕かれるように、魔にしばし砕かれてはならない。

詩番号 338

***(元データ)*************
338)
 たとえ樹を切っても、もしも頑強な根を断たなければ、樹が再び成長するように、妄執(渇愛)の根源となる潜勢力をほろぼさないならば、この苦しみはくりかえし現われ出る。

***(判定)*************
B
***(コメント)*************
 妄執(渇愛)は、度合いの高い執着なのでしょうか?ここでは、ただの執着と置き換えます。
 潜勢力は、わずかに残る心の汚れのことです。
 この苦しみとはどんな苦しみか?具体的に書かないといけないでしょう。それは、執着しても得られないという苦しみでしょう。

***(書換え詩)*************
338)
 たとえ樹を切っても、もしも頑強な根を断たなければ、樹が再び成長するように、執着の根源となる潜勢力(わずかな心の汚れ)を滅ぼさなければ、執着による苦しみはくりかえし現われ出る。

詩番号 339

***(元データ)*************
339)
 快いものに向って流れる三十六の激流があれば、その波浪は、悪しき見解をいだく人を漂わし去る。__その波浪とは貪欲にねざした想いである。

***(判定)*************
D
***(コメント)*************
 三十六の激流は、色々な説があり、これといって決め手となる説がないので、記述から外します。
 この詩の波浪とは、この激流によってできる流れや波ですから、私たち人間が止める事はできないとするのが我々の立場でした。よって、後半部分で、「波浪が想い」というのは、当方が提案したこの立場から逸脱するので、ここでは削除します。第24章 愛執(1)(元データと判定・解釈・考察と書き換え)(https://newbuddhawords.blogspot.com/2018/10/blog-post_12.html)で立てた前提とは異なるために削除していますが、当方としても100%の自信を持って立てている前提ではなく90%くらいの自信で立てている前提であることを了解願います。ですから、今回の前提には多少の訂正は入る可能性があります(すでに詩335)で、一箇所、訂正が入っています。)。

***(書換え詩)*************
339)
 この世の中には、快いものに向って流れる激流があり、その波浪は、悪しき見解をいだく人を漂わし去る。

詩番号 340、341

***(元データ)*************
340)
  (愛欲の)流れは至るところに流れる。(欲情の)蔓草は芽を生じつつある。その蔓草が生じたのを見たならば、知慧によってその根を断ち切れ。
341)
 人の快楽ははびこるもので、また愛執で潤される。実に人々は歓楽にふけり、楽しみをもとめて、生れと老衰を受ける。

***(判定)*************
340)D
341)D
***(コメント)*************
340)“知慧によって”とは、努めること、励むこと、学ぶこと、慎むこと、禅定することなどなど総合的にということでしょう。これは、仏道をきちんと学んでいる修行僧に説かれた教えだと思います。

341)はびこりやすいものは快楽を求める執着としたほうが正しいと思います。また、執着を潤すものは心の汚れとしました。これにしたがって、詩を書き換えます。

 この二つの詩は順番を入れ替えます。

***(書換え詩)*************
341)
 人の快楽を求める執着は、はびこるもので、また心の汚れで潤される。実に人々は歓楽にふけり、楽しみをもとめて、生れと老衰を受ける。
340)
  流れ(欲望)は至るところに流れる。蔓草(執着)は芽を生じつつある。その蔓草が生じたのを見たならば、知慧によってその根を断ち切れ。

詩番号 342、343

***(元データ)*************
342)
 愛欲に駆り立てられた人々は、わなにかかった兎のように、ばたばたする。束縛の絆にしばられ愛著になずみ、永いあいだくりかえし苦悩を受ける。
343)
  愛欲に駆り立てられた人々は、わなにかかった兎のように、ばたばたする。それ故に修行僧は、自己の愛欲を除き去れ。

***(判定)*************
B
***(コメント)*************
二つの詩を一つに合体します。
前提に合うように内容を判断し、言葉を定義したものに置き換え、
愛欲→欲望への執着、
愛著になずみ→欲望になずみ
束縛の絆にしばられ→欲望の激流に束縛され
と書き直します。ちなみに2個目の欲望になずむのは、執着があるからです。

***(書換え詩)*************
342)+343)
 欲望への執着に駆り立てられた人々は、わなにかかった兎のように、ばたばたする。欲望になずみ、欲望の激流に束縛され、永い間  繰り返し執着しては得られない苦悩を受ける。それ故に修行僧は、自己の執着を除き去れ。

詩番号 344

***(元データ)*************
344)
 愛欲の林から出ていながら、また愛欲の林に身をゆだね、愛欲の林から免れていながら、また愛欲の林に向って走る。その人を見よ! 束縛から脱しているのに、また束縛に向って走る。

***(判定)*************
B
***(コメント)*************
愛欲を欲望に置き換えます。
欲望を、激流ではなく林に喩えて説いてらっしゃいます。狂乱した修行僧のことを説明してらっしゃるのではないかと思います。
***(書換え詩)*************
344)
 欲望の林から出ていながら、また欲望の林に身をゆだね、欲望の林から免れていながら、また欲望の林に向かって走る。その人を見よ! 束縛から脱しているのに、また束縛に向かって走る。

詩番号 345、346

***(元データ)*************
345)+346)
 鉄や木材や麻紐でつくられた枷を、思慮ある人々は堅固な縛とは呼ばない。宝石や耳環・腕輪をやたらに欲しがること、妻や子にひかれること、___それが堅固な縛である、と思慮ある人々は呼ぶ。それは低く垂れ、緩く見えるけれども、脱れ難い。
かれらはこれをさえも断ち切って、顧みること無く、欲楽をすてて、遍歴修行する。

***(判定)*************
D
***(コメント)*************
 夫は、節度ある真面目な妻や子を捨ててはいけないでしょう。これらを守るのは、家庭を持った男性の務めです。しかし、悪になずんだ妻や子、家族に関しては、それなりに距離を保つなどの対応は必要ですので、この部分を補足します。
 遍歴修行とまで言わず、修行という言葉だけにしておきます。というのも、遍歴するかしないかで、修行の質が決まるとは考え難いからです。

***(書換え詩)*************
345)+346)
 鉄や木材や麻紐でつくられた枷を、思慮ある人々は堅固な縛とは呼ばない。
 財や宝石や耳環・腕輪をやたらに欲しがること、悪になずんだ妻や子にひかれること、_それが堅固な縛である、と思慮ある人々は呼ぶ。それは低く垂れ、緩く見えるけれども、脱れ難い。
 思慮ある人々は、己のためにならないこれらを断ち切って、欲楽を捨てて、修行する。

詩番号 347

***(元データ)*************
347)
 愛欲になずんでいる人々は、激流に押し流される、_蜘蛛がみずから作った網にしたがって行くようなものである。思慮ある人々はこれをも断ち切って、顧みることなく、すべての苦悩をすてて、歩んで行く。
***(判定)*************
B
***(コメント)*************
愛欲を欲望に変えます。
欲望になずむとは、執着が多いことを指します。
“苦悩をすてて”は、“汚れを捨てて”と意訳しましょう。
***(書換え詩)*************
347) 
 欲望になずんでいる人々は、激流に押し流される、_蜘蛛がみずから作った網にしたがって行くようなものである。思慮ある人々はこれをも断ち切って、顧みることなく、すべての汚れを捨てて、歩んで行く。


詩番号 212~216
***(元データ)*************
212)
 愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生ずる、愛するものを離れたならば、憂いは存在しない。どうして恐れることがあろうか?

213)
 愛情から憂いが生じ、愛情から恐れが生ずる。愛情を離れたならば憂いが存在しない。どうして恐れることがあろうか?

214)
 快楽から憂いが生じ、快楽から恐れが生じる。快楽を離れたならば憂いが存在しない。どうして恐れることがあろうか?

215)
 欲情から憂いが生じ、欲情から恐れが生じる。欲情を離れたならば、憂いは存しない。どうして恐れることがあろうか。

216)
 妄執から憂いが生じ、妄執から恐れが生じる。妄執を離れたならば、憂いは存しない。どうして恐れることがあろうか。

***(判定)*************
全てD

***(コメント)*************
 212)~215) 第24章 執着と欲望と汚れ 詩359の後に移動します。
 これらの5詩は、「◯から憂いが生じ、◯から恐れが生じる。◯を離れたならば憂いが存在しない。どうして恐れることがあろうか?」という詩形が共通です。

 ◯の部分は、愛するもの、愛情、快楽、情欲、妄執です。これらの言葉を一つ一つ考えてみましょう。

 (1)愛するもの自体が悪いというよりかは、愛するものへの執着がNGなのです。
 (2)愛情は、慈悲に昇華できると思いますが、愛欲への執着と劣化する場合もあり、愛情自体は、定義をしない限りは、NGともOKとも判断がつきません。ただ、憂い、恐れの元として愛情を捉えるのであれば、愛欲への執着と捉えるべきでしょう。
 (3)快楽は、無くすことは難しいです。快楽への執着と書くべきでしょう。
 (4)情欲は、愛欲とほぼ同じと考えますので、情欲や愛欲への執着と捉えるべきでしょう。
 (5)妄執は、“ 第24章の愛執(1)導入で考察したように、煩悩の三毒の痴に属し、汚れの一つです。
 分類結果をまとめると、
 ・愛するもの、愛情、快楽、情欲→執着
 ・妄執→心の汚れ
となります。したがって、
◯=執着、心の汚れ
 で書き換えれば、すべてを網羅すると考えることもできます。

 次に、詩形を考えます。「憂いが存在しない。どうして恐れることがあろうか?」という後半部分は、憂いと恐れの関係を言及していないにもかかわらず、両者があたかも関係あるように書いてあります。しかし、前半では、憂いと恐れが対等に書かれています。両者の関係をいたずらに考察する必要もないと考えますので、ここでは、前半にならって、後半を、憂いと恐れが対等な表現「憂いと恐れが存在しない。」とします。

***(書換え詩)*************
212)~216)
 執着から憂いが生じ、執着から恐れが生じる。執着を離れたならば憂いと恐れが存在しない。

212)~216)
 心の汚れから憂いが生じ、心の汚れから恐れが生じる。心の汚れを離れたならば憂いと恐れが存在しない。


詩番号 349、350(348は次に考察)

***(元データ)*************
349)
 あれこれ考えて心が乱れ、愛欲がはげしくうずくのに、愛欲を淨らかだと見なす人には、愛執がますます増大する。この人は実に束縛の絆を堅固たらしめる。
350)
 あれこれの考えをしずめるのを楽しみ、つねに心にかけて、(身体などを)不浄であると観じて修する人は、実に悪魔の束縛の絆をとりのぞき、断ち切るであろう。
***(判定)*************
349)D
350)B
***(コメント)*************
349)愛欲がはげしくうずく→汚れにより心がうずく、愛執→執着と変更。
350)不浄という言葉は、よく使うのですが、このテキストで出てくる汚れと同じだと思います。修する、観じてに関しては、わかりやすいように現代語に意訳しました。
***(書換え詩)*************
349)
 あれこれ考えて心が乱れ、汚れにより心がはげしくうずくのに、心の汚れ(不浄)を淨らかだと見なす人には、執着がますます増大する。この人は実に束縛の絆を堅固たらしめる。

350)
 あれこれの考えをしずめるのを楽しみ、常に心身の汚れ(不浄)を観察して心を治める人は、実に悪魔の束縛の絆を取り除き、断ち切るであろう。

詩番号 355

***(元データ)*************
355)
 彼岸にわたることを求める人々は享楽に害われることがない。愚人は享楽のために害われるが、享楽を妄執するがゆえに、愚者は他人を害うように自分も害う。

***(判定)*************
A
***(コメント)*************
妄執→執着
彼岸に関しては、意味を付け加え、文脈に合うように言葉を付け足しました。
***(書換え詩)*************
355)
 激流の中で、解脱(彼岸、ニルヴァーナ)を求める人々は享楽に害われることがない。愚人は享楽のために害われるが、享楽を執着するがゆえに、愚者は他人を害うように自分も害う。

詩番号 218
***(元データ)*************
218)
 ことばで説き得ないもの(ニルヴァーナ)に達しようとする志を起し、意(オモイ)はみたされ、諸の愛欲に心の礙げられることのない人は、(流れを上る者)とよばれる。
***(判定)*************
218)A

***(コメント)*************
218)第16章 愛するものから移動。
 “ことばを漢字に変えます。
***(書換え詩)*************
218)
 言葉で説き得ないもの(ニルヴァーナ)に達しようとする志を起し、意(オモイ)はみたされ、諸の愛欲に心の礙げられることのない人は、(流れを上る者)と呼ばれる。

詩番号 354

***(元データ)*************
354)
 教えを説いて与えることはすべての贈与にまさり、教えの妙味はすべての味にまさり、教えを受ける楽しみはすべての楽しみにまさる。妄執をほろぼすことはすべての苦しみにうち勝つ。
***(判定)*************
A
***(コメント)*************
 読みやすくするために、ひらがなを漢字に変えました。

***(書換え詩)*************
354)
 教えを説いて与えることはすべての贈与にまさり、教えの妙味はすべての味にまさり、教えを受ける楽しみはすべての楽しみにまさる。執着を滅ぼすことは全ての苦しみにうち勝つ。

詩番号 348(第14章ブッダへ移動)

***(元データ)*************
348)前を捨てよ。後を捨てよ。中間を棄てよ。生存の彼岸に達した人は、あらゆることがらについて心が解脱していて、もはや生れと老いとを受けることが無いであろう。

***(判定)*************
348)D
***(コメント)*************
348)
 第14章ブッダ 詩421と、構造が似ており、合わせて一つにした方が、理解しやすくなると考えます。 そして、詩348+421)として第14章 ブッダの詩421)と置き換えます。

 詩中の前、後ろ、中間は、過去の生存、未来の生存、現在の生存だそうです。さらに捨てるものは、執着です。

  詩421の元データと書換え詩は、
(元データ)前にも、後にも、中間にも、一物をも所有せず、無一物で、何ものをも執著して取りおさえることの無い人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
(書換え詩)前にも、後にも、中間にも、全てのものを所有し、何ものをも執著して取りおさえる必要の無い人、──その人を我は<ブッダ>と呼ぶ。
です。詩中の前,後ろ,中間は、過去,未来,現在だそうです。

***(書換え詩)*************
詩348+421)
 前(過去の執着)を捨てよ。後(未来の執着)を捨てよ。中間(今の執着)を棄てよ。
 その様な人を生存の彼岸に達したという。
 その様な人はあらゆることがらについて心が解脱していて、もはや生れと老いとを受けることが無いであろう。
 そして、前(過去)にも、後(未来)にも、中間(現在)にも、全てのものを所有し、何ものをも執着する必要がない。
 ─その人を我は<ブッダ>と呼ぶ。

詩番号351~352(第14章ブッダへ移動)

***(元データ)*************
351)
 さとりの究極に達し、恐れること無く、無欲で、わずらいの無い人は、生存の矢を断ち切った。これが最後の身体である。

352)
 愛欲を離れ、執著なく、諸の語義に通じ諸の文章とその脈絡を知るならば、その人は最後の身体をたもつものであり、「大いなる知慧ある人」と呼ばれる。
***(判定)*************
351)C
352)C
***(コメント)*************
351)、352)
 第14章ブッダ 詩403の後に置きます。続いて詩351)、352)を配置します。
 輪廻から外れるか否かが大切な問題ですが、最後の身体かどうかは、魂個人ではなく、全体から決定されるのでしょうから、あまり議論する価値はないと思います。従って、最後の身体についての部分は削除します。

***(書換え詩)*************
351)
 さとりの究極に達し、執着なく、恐れること無く、わずらいの無く、汚れを滅ぼしつくした人は、生存の矢を断ち切った。
352)
 執着をなくし欲望の激流を離れ、諸の語義に通じ諸の文章とその脈絡を知るならば、「大いなる知慧ある人」と呼ばれる。

詩番号353(第14章ブッダへ移動)

***(元データ)*************
353)
 われはすべてに打ち勝ち、すべてを知り、あらゆることがらに関して汚されていない。すべてを捨てて、愛欲は尽きたので、こころは解脱している。みずからさとったのであって、誰を(師と)呼ぼうか。

***(判定)*************
353)D
***(コメント)*************
353)第14章ブッダのトップに置きます。
“すべてを捨てて、愛欲は尽きたので”→“全ての執着を捨てて、汚れが尽き”と書き換えます。
***(書換え詩)*************
353)
 我は全てに打ち勝ち、全てを知り、あらゆることがらに関して汚されていない。全ての執着を捨てて、汚れが尽き、心は解脱している。自らさとったのであって、誰を(師と)呼ぼうか。

詩番号 356~359

***(元データ)*************
356)
 田畑は雑草によって害われ、この世は人々は愛欲によって害われる。それ故に愛欲を離れた人々に供養して与えるならば、大いなる果報を受ける。
357)
 田畑は雑草によって害われ、この世は人々は怒りによって害われる。これ故に怒りを離れた人々に供養して与えるならば、大いなる果報を受ける。
358)
 田畑は雑草によって害われ、この世は人々は迷妄によって害われる。それ故に迷妄を離れた人々に供養して与えるならば、大いなる果報を受ける。
359)
 田畑は雑草によって害われ、この世は人々は欲求によって害われる。それ故に欲求を離れた人々に供養して与えるならば、大いなる果報を受ける。
***(判定)*************
356)~359)全てD
***(コメント)*************
356)~359)
 この4つの詩を一つにまとめ、詩347)の後に置きます。
 第18章 汚れ 詩249)で見返りを求める施し(供養)は禁止されましたので、大いなる果報を受けるための供養は反則です。したがって、全ての詩の後半部分は削除します。
 356)の愛欲は執着と置き換えることにします。
 書き出す順番は、欲求、執着、怒り、誤った見解(迷妄)とします。

 この詩は、第14章ブッダ 398)の書き換え詩にこの詩を付け加えると、第14章ブッダ 398)ががぜんわかりやすくなりますので考察しましょう。
 また、合体する398)の元データと書換え詩は以下の通りです。
(元データ)
 紐と革帯と網とを、手網ともども断ち切り、門をとざす閂(カンヌキ)を滅ぼして、めざめた人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
(書換え詩)
 怒りと愛執と誤った見解と、潜在的な煩悩ともども断ち切り、無明を滅ぼして、めざめた人、─その人を我は<ブッダ>と呼ぶ。

 この章の考察作業から、第14章ブッダ 398)の書き換え詩内で語句を
 愛執→執着、
 潜在的な煩悩→潜在的な汚れ(欲求、慢心でしょう)、
 無明を滅ぼして→無明が消失した
と置き換えることとします。

***(書換え詩)*************
356)~359)
 田畑は雑草によって害われ、この世の人々は、欲求、執着、怒り、誤った見解(迷妄)によって害われる。

398)の改良詩【398)+356)~359)】
 この世の人々は、欲求、執着、怒り、誤った見解(迷妄)によって害われる。怒りと執着と誤った見解を断ち切り、潜在的な汚れを滅ぼし、無明が消失した、めざめた人、─その人を我は<ブッダ>と呼ぶ。




(第24章 愛執(2)執着と汚れと欲望 終わり)