2018年9月28日金曜日

第17章 怒り(元データと判定・解釈・考察と書き換え)

訂正・変更履歴
詩番号227の詩を「すこしく」を「すこしだけ」と書換え。赤字で対応(20181004)

第17章 怒り
詩番号 221
***(元データ)*************
221)
怒りを捨てよ。慢心を除き去れ。いかなる束縛をも超越せよ。名称と形態とにこだわらず、無一物となった者は、苦悩に追われることがない。
***(判定)*************
D

***(コメント)*************
 怒りは全てが悪いことではないのです。それに振り回されてはなりませんが、怒りを捨てる、や、殺すでは、悪人のやりたい放題です。
 この詩をわざわざ直して残すほどの情報量でもないので、削除します。

***(書換え詩)*************
221)削除


詩番号 222
***(元データ)*************
222)走る車をおさえるようにむらむらと起る怒りをおさえる人___かれをわれは<御者>とよぶ。他の人はただ手綱を手にしているだけである。(<御者>とよぶにはふさわしくない。)

***(判定)*************
A

***(コメント)*************
 間違いなく、お釈迦様のお口から出たお言葉でしょう。
 怒りを制御することは、人間が自己を治めるための一つの重要課題です。個々の怒りの元を、考察し正しく認識することは、その人にとって大切な課題です。決して、全ての怒りを無条件で捨てることが大切なのではなく、それを制御することが大切だという教えです。
***(書換え詩)*************
222)書き換え不要


詩番号 223
***(元データ)*************
223)怒らないことによって怒りにうち勝て。善いことによって悪いことにうち勝て。わかち合うことによって物惜しみにうち勝て。真実によって虚言の人にうち勝て。

***(判定)*************
A

***(コメント)*************
 怒ることは必要ですから、その部分が整合が取れるように書き換えます。
 打ち勝てるかどうかは、その時の天の運みたいなところがあり、たかが人間が勝ちにこだわると、痛い目にあうので、「打ち勝つ」を「立ち向かう」と表現を変えます。
***(書換え詩)*************
223)
怒りを制すことによって怒りに、
善いことによって悪いことに、
わかち合うことによって物惜しみに、
真実によって虚言の人にう立ち向かわなくてはならない。



詩番号 224
***(元データ)*************
224)真実を語れ。怒るな。請われたならば、乏しいなかから与えよ。これらの三つの事によって(死後には天の)神々のもとに至り得るであろう。

***(判定)*************
D

***(コメント)*************
 時と場合によって、語って良い真実も、語ってはまずい真実もあるのですが、真実なら全部語らなくてはならないと誤解を生じる詩句になっています。
 怒りを制し、怒るべきことは怒らなくてはなりません。
 詩中の3つを守ったなら、死後に神々のもとに至り得る保証をお釈迦様がお与えになるとは考えられません。お釈迦様の教えは、死後に神々の元や天国に行くためのものではなく、生きている間に、自分と人類を含めた生類に尽力し、自らが進化するための道筋を示されているのです。

 この詩の中で、否定できない部分は、「請われたならば、乏しいなかから与えよ。」ですが、これは分かち合いの教えです。これに関する詩は別立てに詩177(第13章 世の中)、詩242(第18章 汚れ)にあります。

 以上から、この詩は削除します。
***(書換え詩)*************
224)削除


詩番号 225
***(元データ)*************
225)
 生きものを殺すことなく、つねに身をつつしんでいる聖者は、不死の境地(くに)におもむく。そこに至れば、憂えることがない。

***(判定)*************
D

***(コメント)*************
 肉体は滅んでも、魂はなかなか滅ばないというのが、お釈迦様の教えです(第14章 ブッダ 181 詩参照。)。基本的に、魂は不死なのです。さらに、不死の境地が何を意味するのかはっきりしません。
 生き物を殺すとは、不当に殺すことはいけないけれど、正当性があれば仕方ないと言わざるおえません。もちろん、怒りの章にあるのですから、怒りに任せて生き物を殺してはならないということなのかもしれませんが、この部分も意味がはっきりしません。

 憂えることがないという部分も、よく意味がわかりません。

 以上から、全体的に意味がわからなくなり過ぎているので、この詩は削除します。
***(書換え詩)*************
225)削除


詩番号 226
***(元データ)*************
226)
 ひとがつねに目ざめていて、昼も夜もつとめ学び、ニルヴァーナを得ようとめざしているならば、もろもろの汚れは消え失せる。

***(判定)*************
D
***(コメント)*************
 努め励むことは人が目覚める(覚醒する)ための第一段階の修行です。
 ですから、この教えは展開が逆です。
 ひらがなを漢字へ書き換えます。
 この章“怒り”にあるのは、不適当なので、第6章賢い人 詩86の後に挿入します。
 この詩の教えと類似の教えが、第15章 楽しみ 詩205です。
***(書換え詩)*************
226)
 人が、ニルヴァーナを得ようとめざし、常に目ざめていているように昼も夜も努め学ぶならば、もろもろの汚れは消え失せる。


詩番号 227〜230
***(元データ)*************
227) アトゥラよ。これは昔にも言うことであり、いまに始まることでもない。沈黙している者も非難され、多く語る者も非難され、すこしく語る者も非難される。世に非難されない者はいない。

228) ただ誹られるだけの人、またただ褒められるだけの人は、過去にもいなかったし、未来にもいないであろう、現在にもいない。

229)もしも心ある人が日に日に考察して、「この人は賢明であり、行いに欠点がなく、知慧と徳行とを身にそなえている」といって称讃するならば、

230)その人を誰が非難し得るだろうか? かれはジャンブーナダ河から得られる黄金でつくった金貨のようなものである。神々もかれを称讃する。梵天でさえもかれを称讃する。
***(判定)*************
全てA
***(コメント)*************
 アトゥラとはお釈迦様の在俗信者です。しかし彼には500人も信者がいました。
 全員揃って、レーヴァタ長老のところに行って教えを聞こうとしましたが、この長老は1人静かに瞑想を行っていたために、何も説いてくれません。
 次に彼らは、サーリプッタ長老のところに行きますが、難解なアビダルマに関する議論をやたらに聞かされただけで、彼は憤ります。
 そして次に、アーナンダ長老のところに行きますが、ここではほんのちょっとの教えを説かれるだけでした。
 ついに祇園精舎にいらっしゃるお釈迦様のところに行き着いた時の、アトゥラの怒りは頂点だと想像してみることは簡単です。そして、アトゥラが、怒りに任せて、3名の長老のことをお釈迦様に申し立てたのでしょう。その時に、お釈迦様がアトゥラ達に説いた教えがこの4つの詩です(中村氏の注釈より)。

 ついこみ上げる怒りなどの一時的な感情で、いろいろな評価・避難(・礼賛)が起こるのが、この世の中だから、ただ誹られるだけの人、また、ただ褒められるだけの人なんていないのだと教えてくださります。だから、世の中の評価・避難・礼賛を安易に信じたり、その流れに乗って「自らが無責任な批評を繰り返すことはおやめなさい。」とアトゥラに教えているのが、詩227,228なのです。

 さらに、世の中で信じて良い評価もあることを説いてらっしゃいます。それは、賢い人々や真人が時間をかけて熟考した評価だとおっしゃっています。各自もこのように簡単に人を批判・礼賛せず、熟考して評価しなさいという教えが、詩229, 230です。お釈迦様ご自身は、先の3長老に対して、賞賛の気持ちがおありだという旨も、ここで暗に宣言なさっています。

 以上から、この詩が、怒りの章にあるのは、怒りを抱えた人に説いた詩だからだと、私は考えています。

 ト書きとして、以下の文章を追加しましょう。

  アトゥラたちは、お釈迦様に帰依した三人の長老に教えを請い求めましたが、十分に納得出来る教えを示されませんでした。彼らは不満を抱いて、ついに、お釈迦様の元を訪ね、今までの経緯を述べて、教えを請いました。そのアトゥラたちにお釈迦様は、次のように語られました。

***(書換え詩)*************
 アトゥラたちは、お釈迦様に帰依した三人の長老に教えを請い求めましたが、十分に納得出来る教えを示されませんでした。彼らは不満を抱いて、ついに、お釈迦様の元を訪ね、今までの経緯を述べて、教えを請いました。そのアトゥラたちにお釈迦様は、次のように語られました。

227) アトゥラよ。これは昔にも言うことであり、いまに始まることでもない。沈黙している者も非難され、多く語る者も非難され、すこしだけ語る者も非難される。世に非難されない者はいない。

227228)〜230)書き換え不要


詩番号 231〜234
***(元データ)*************
231) 身体がむらむらするのを、まもり落ち着けよ。身体について慎んでおれ。身体による悪い行いを捨てて、身体によって善行を行なえ。

232) ことばがむらむらするのを、まもり落ち着けよ。ことばについて慎んでおれ。語(コトバ)による悪い行いを捨てて、語によって善行を行なえ。

233)心がむらむらするのを、まもり落ち着けよ。心について慎んでおれ。心による悪い行いを捨てて、心によって善行を行なえ。

234)落ち着いて思慮ある人は身をつつしみ、ことばをつつしみ、心をつつしむ。このようにかれらは実によく己れをまもっている。
***(判定)*************
B
***(コメント)*************
 「護身悪行」、「護口悪行」、「護意悪行」の三つのことを表した詩だそうですが、漢文だと、細かい部分がわかりません。これらは、怒りにだけに関係するとは思えませんが、詩註のむらむらという表現は怒りを表していると思われます。よって、これらの詩は、この章に置かれているのでしょう。
 原始仏教では怒りは不運だと捉えているようです(詩番号251)。この不運に襲われた時には、より一層、「護身悪行」、「護口悪行」、「護意悪行」に注意を払わなければならないということを教えてらっしゃるのでしょう。
 
 “捨てよ”は“やめよ”に書き換えます。
 「善行を行え」という部分は不要ですので、削除します。

 また、“つつしむ”という訳は、「悪の汚れに侵されないように自分を守る」という原義の意訳として中村氏は使ったそうです。

***(書換え詩)*************
231) 身体がむらむらするのを、まもり落ち着けよ。身体について慎んでおれ。身体による悪い行いをやめよ。

232) 言葉がむらむらするのを、まもり落ち着けよ。言葉について慎んでおれ。言葉による悪い行いをやめよ。

233)心がむらむらするのを、まもり落ち着けよ。心について慎んでおれ。心による悪い行いをやめよ。

234)落ち着いて思慮ある人は、いかなる時でも、身を慎み、ことばを慎み、心を慎しむ。このように彼らは実によく己れをまもっている。

(第17章 怒り 終わり)