2018年9月22日土曜日

第10章 暴力 (元データと判定・解釈・考察と書き換え)

訂正・変更履歴
・詩135)のコメント欄の146を148に訂正(180925)
第10章 暴力
暴力と言う言葉の説明のために、ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説(https://kotobank.jp/word/暴力-132521 )を引用します。
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 (1) 政治学的には,物理的強制力の行使一般をいう。
 (2) 法学的には,不当ないし不法な方法による物理的強制力の使用をいう。

 (1) の政治学的および社会学的意味における暴力の概念には,単に法的考察によって定義される不当不法な力の行使をいうのではなく,いわゆる革命集団による国家秩序の暴力的転覆 (武装蜂起) や暴力団による腕力などの行使から,国家が合法的かつ正当的に所有する軍隊や警察のいわゆる実力行使までも内包されるのが普通である。

 (2) の法学的見地の暴力は,法によって許容されない力の行使をいう。したがって軍隊や警察の実力行使は,それが法に依拠しているかぎり,正当化され暴力とは呼称されない。また正当防衛のような場合,個人による実力の行使であっても,それは法の許容内と考えられ,暴力とは呼称されない。
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 法学的見地の暴力の意味が、この章で使われる暴力の意味です。そして、本来使われるべき意味です。政治学的・社会学的見地の暴力の捉え方をすると、正当性のある武力が否定されてしまうので、非常に不当で危険な言葉の使われ方となります。

 次に、私が考える暴力と正当な武力(腕力)行使を記します。

 ある問題が起こるとしましょう。この問題の当事者たちは、この問題を解決するために、この問題の原因と経緯をまずは調べなくてはなりません。この原因と経緯をはっきりさせる目的は、発端となったきっかけや経緯で、過失であれ故意であれ、どの当事者に非があったのかをはっきりさせる必要があるのです。そして、ここまで来て、ようやく話し合いによって非がある当事者に改善を促します。ここまでの段階までで、この非のある当事者に武力を一方的に使うと暴力と認定されても仕方ありません。火を見るより明らかって時もあるのですが。
 しかし、正当な話し合いをしたにも関わらず、その当事者が改善を行わなければ、武力を用いて滅ぼす、もしくは、制圧する事を暴力と定義することは不当な定義で、悪魔のものです。

 正当な話し合いだったかどうかを認定するのが、大変ですが、これは多少でも関わった人たちが、自分の利害に関係なくとも、各自で、なるべく正しく判断するように心がけなければなりません。というのも、自分が、何時、このような事態に落ちるかわかりません。世の中は、そのような相互保証で成り立っているのです。もし、この時に、みんなが知らん顔をしたら、不当行為が勝ってしまうのです。そうして、世の中が悪魔の支配になっていくのです。「他人のことに関わると、厄介な上に、自分が変な勢力から攻撃されるから嫌だ」という人々の姿勢が世の中を圧巻した、ここ30年で、散々、味わった悪夢です。

 以上から、この章では、暴力を不当ないし不法な方法による物理的強制力の使用という意味で使用します。

 真理のことばは、分類を含めて順序がかなり乱されていると思います。これだけで、人間の頭は混乱して、正しく状況が掴めなくなります。私も、これを書いている時に、頭が混乱して爆発しそうになりますが、分類を考えて順番を考えていくと、こんがらがった糸が解けるように、情報が頭の中を流れます。日月神示では、
「何事も順正しくやりて下されよ、神は順であるぞ、順乱れた所には神の能(はたらき)現はれんぞ。」
と教えています。
 人間が世の中の乱れを収めるためにできる事は、本当にほとんどないのが現状です。唯一できることがあるとすれば、悪魔によって乱された順番を気づいた場所から正していくことでしょう。そこで、私も真理のことばの解釈を始めたのです。
 この章は、特に、分類と順番が乱れています。詩135を11章(老いること)、詩136を5章(愚かな人)、詩141、142を25章(修行僧)、詩143、144を6章(賢い人)に分類しました。また、詩137+140)と詩145を削除としました。

詩番号 129、130
***(元データ)*************
129)すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。已が身をひきくらべて、殺してはならぬ。殺させてはならぬ。

130)すべての者は暴力におびえ、すべての(生きもの)にとって生命は愛しい。已が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺させてはならぬ。
***(判定)*************
129)B
130)B

***(コメント)*************
 ひらがなを漢字に変換します。
“己が身にひきくらべて”を“(己への)この思いを忘れず、”と、訳を平易にします。

***(書換え詩)*************
129)
 全ての者は暴力におびえ、全ての者は死を恐れる。
(己への)この思いを忘れず、生きものを不当に殺してはならぬ。他者に不当に殺させてはならぬ。
130)
 全ての者は暴力におびえ、全ての(生きもの)にとって生命は愛しい。
(己への)この思いを忘れず、生きものを不当に殺してはならぬ。他者に不当に殺させてはならぬ。



詩番号 131、132
***(元データ)*************
131)
 生きとし生ける者は幸せをもとめている。もしも暴力によって生きものを害するならば、その人は自分の幸せをもとめていても、死後には幸せが得られない。

132)
 生きとし生ける者は幸せをもとめている。もしも暴力によって生きものを害しないならば、その人は自分の幸せをもとめているが、死後には幸せが得られる。


***(判定)*************
131)A
132)A

***(コメント)*************
 ひらがなを漢字に変換します。
 文章を直します。

***(書換え詩)*************
131)
 生きとし生ける者は幸せを求めている。もしも暴力によって生きものを害するならば、その人は自分の幸せを求めていても、死後には幸せが得られない。

132)
 生きとし生ける者は幸せを求めている。もしも暴力によって生きものを害さないならば、死後に、その人は自分の求めていた幸せが得られる。


詩番号 133、134
***(元データ)*************
133)
 荒々しいことばを言うな。言われた人々は汝に言い返すであろう。怒りを含んだことばは苦痛である。報復が汝の身に至るであろう。

134)
 壊れた鐘のように、声をあらげないならば、汝は安らぎに達している。汝はもはや怒り罵ることがないからである。
***(判定)*************
133)A
134)A

***(コメント)*************
  言葉の暴力について教えている詩です。
  特徴は、二人称に汝が使われています。
  ひらがなを漢字に直します。
***(書換え詩)*************
133)
 荒々しい言葉を言うな。言われた人々は汝に言い返すであろう。怒りを含んだ言葉は苦痛である。報復が汝の身に至るであろう。

134)
 壊れた鐘のように、声を荒げないならば、汝は安らぎに達している。汝はもはや怒り罵ることがないからである。


詩番号 135、136
***(元データ)*************
135)
 牛飼いが棒をもって牛どもを牧場に駆り立てるように、老いと死とは生きとし生けるものどもの寿命を駆り立てる。

136)
 しかし愚かな者は、悪い行ないをしておきながら、気がつかない。浅はかな愚者は自分自身のしたことによって悩まされる。_火に焼きこがされた人のように。

***(判定)*************
135)A
136)A

***(コメント)*************
135)
 第11章 老いること の詩番号146148の後に挿入します。

136)
 第5章 愚かな人 詩番号69の後に挿入します。
 “しかし”で、詩が始まるのは変ですから、文章の意味が通じるように書き換えます。
 比喩部分は不要なので削除します。

***(書換え詩)*************
135)書き換え不要

136)
 愚かな者は、悪い行ないをしておきながら、気がつかない。しかし浅はかな愚者は自分自身のしたことによって悩まされる。


詩番号 137、140
***(元データ)*************
137)+140)
 手むかうことなく罪咎の無い人々に害を加えるならば、次に挙げる十種の場合のうちのどれかに速やかに出会うであろう、
(1)激しい痛み、(2)老衰、(3)身体の傷害、(4)重い病い、(5)乱心、(6)国王からの災い、(7)恐ろしい告げ口、(8)親族の滅亡と、(9)財産の損失と、(10)その人の家を火が焼く。

 この愚かな者は、身やぶれてのちに、地獄に生まれる。

***(判定)*************
137)+140) E
***(コメント)*************
 第9章 悪 詩125)に近い内容の詩句です。
 詩番号の付き方も不明です。
 この詩に挙げられている10個の災いの根拠が不明なことや、“地獄に生まれる”といった表現がお釈迦様が使ったとは考えにくいこと、などから、この詩は、代替もありますし、削除することにします。

***(書換え詩)*************
137)+140)削除


詩番号 141、142
***(元データ)*************
141)
 裸の行も、髻に結うのも、身が泥にまみれるのも、断食も、露地に臥すのも、塵や泥を身に塗るのも、蹲って動かないのも、_疑いを離れていない人を浄めることはできない。

142)
 身の装いはどうあろうとも、行ない静かに、心おさまり、身をととのえて、慎みぶかく、行ない正しく、生きとし生けるものに対して暴力を用いない人こそ、<バラモン>とも、<道の人>とも、また<托鉢遍歴僧>ともいうべきである。

***(判定)*************
141)A
142)D

***(コメント)*************
 この二つの詩は、この章にあるのは不適切です。第25章 修行僧 の一番初めに置くことにします。
 詩141)はジャイナ教の修行者が行っていた苦行に関する記述だそうです。
 詩142)に示された性質だけを満たすのでは、到底バラモンとは言えなず、また、階層構造上、“道の人”、また“托鉢遍歴僧”に満たされる良い性質は、“バラモン”にも備わっているはずなので、“<バラモン>とも、<道の人>とも、また<托鉢遍歴僧>ともいうべきである”と言う詩句は、“<修行僧>と言うべきである”に置き換えます。
 さらに、文章を整えます。
 お釈迦様は、従来の信仰(ヒンズー教やジャイナ教)の教えと苦行は全面的に否定なさいました。お釈迦様に帰依する修行僧への指針は、第25章 修行僧 に書かれているのです。

***(書換え詩)*************
141)書き換え不要

142)
 身の装いはどうあろうとも、行ない静かに、心を治め、身をととのえて、慎みぶかく、行ない正しく、生きとし生けるものに対して暴力を用いない人こそ、<修行僧>である。


詩番号 143、144
***(元データ)*************
143)
 みずから恥じて自己を制し、良い馬が鞭を気にかけないように、世の非難を気にかけない人が、この世に誰か居るだろうか?

144)
 鞭をあてられた良い馬のように勢いよく努め励めよ。信仰により、戒しめにより、はげみにより、精神統一により、真理を確かに知ることにより、知慧と行ないを完成した人々は、思念をこらし、この少なからぬ苦しみを除けよ。

***(判定)*************
143)A
144)D

***(コメント)*************
 知慧と行ないを完成した人々=真人、バラモンですから、この方々に教える教えは、この世にはないです。あるとすれば、「こうすれば真人やバラモンになれます。」とか、「こういう存在が真人やバラモンです。」という教えです。また、この詩は霊格の高い存在への教えだと思います。霊格が上がれば、在家へも出家へも同じ教えになって来ます。今回は、どちらにも対応できるように、賢い人への教えと捉えます。
 以上の考察から、「知慧と行ないを完成した人々は…この少なからぬ苦しみを除けよ。」ではなく、「賢い人は…この少なからぬ苦しみを除けよ。」とします。
 精神統一は在家言葉、禅定(瞑想)は出家言葉で、両者とも同じ行為と考えますので、“精神統一”を“精神統一や禅定”と書き換えます。
 二つの詩を一つに書き換えます。
 第6章 賢い人 の最後に置きます。
 ひらがなを漢字に書き換えます。
***(書換え詩)*************
143+144)
 自ら恥じて自己を制し、良い馬が鞭を気にかけないように、世の非難を気にかけない人が、この世に誰か居るだろうか?
 賢い人よ、鞭をあてられた良い馬のように勢いよく努め励めよ。
 正しい信仰・戒しめ、はげみ、精神統一や禅定により思念をこらし、真理を確かに知り、この少なからぬ苦しみを除けよ。そして、知慧と行ないを完成させよ。


詩番号 145
***(元データ)*************
145)
水道をつくる人は水をみちびき、矢をつくる人は矢を矯め、大工は木材を矯め、慎しみ深い人々は自己をととのえる。

***(判定)*************
145)E

***(コメント)*************
 第6章 詩80とほぼ同じで、慎み深い人が、賢い人と変わっているだけです。
 どうして暴力の章にあるのか?不明です。
 以上より、この詩は削除します。

***(書換え詩)*************
145)削除
(第10章 暴力 終わり)