2018年9月19日水曜日

第9章 悪 (元データと判定・解釈・考察と書き換え)


訂正・変更履歴
詩209を第16章 愛するもの(解散)から冒頭へ移動。(20181022)

第9章 悪

書き直しが非常に少ない章です。

詩番号 209
***(元データ)*************
209)
  道に違(タゴ)うたことになじみ、道に順(シタガ)ったことにいそしまず、目的を捨てて快いことだけを取る人は、みずからの道に沿って進む者を羨むに至るであろう。
***(判定)*************
A

***(コメント)*************
209)第16章 愛するもの(解散)から移動。

***(書換え詩)*************
209)書換え不要

詩番号 116)〜125)

***(元データ)*************
116)善をなすのを急げ。悪から心を退けよ。善をなすのにのろのろしたら、心は悪事をたのしむ。

117)人がもしも悪いことをしたならば、それを繰り返すな。悪事を心がけるな。悪がつみ重なるのは苦しみである。

118)人がもし善いことをしたならば、それを繰り返せ。善いことを心がけよ。善いことがつみ重なるのは楽しみである。

119)まだ悪い報いが熟さないあいは、悪人でも幸運に遭うことがある。しかし悪の報いが熟したときは、悪人はわざわいに遭う。

120)まだ善い報いが熟しないあいだは、善人でもわざわいに遭うことがある。しかし善の果報が熟したときは、善人は幸福(サイワイ)に遭う。

121)「その報いはわたしには来ないであろう」とおもって、悪を軽んずるな。水が一滴ずつ滴りおちるならば、水瓶でもみたされるのである。愚かな者は、水を少しずつでも集めるように悪を積むならば、やがてわざわいにみたされる。

122)「その報いはわたしには来ないであろう」とおもって、善を軽んずるな。水が一滴ずつ滴りおちるならば、水瓶でもみたされる。気をつけている人は、水を少しずつでも集めるように善を積むならば、やがて福徳にみたされる。

123)同行する仲間が少ないのに多くの財を運ばねばならぬ商人が、危険な道を避けるように、また生きたいとねがう人が毒を避けるように、ひとはもろもろの悪を避けよ。

124)もしも手に傷が無いならば、その人は手で毒をとり去ることもできるであろう。傷の無い人に、毒は及ばない。悪をなさない人には、悪の及ぶことがない。

125)汚れの無い人、清くて咎のない人をそこなう者がいるならば、そのわざわいは、かえってその浅はかな人に至る。風にさからって細かい塵を投げると、(その人にもどって来る)ように。

***(判定)*************
116)〜125)全て A

***(コメント)*************
漢字への変換、現代語風に直します。

***(書換え詩)*************
116)善をなすのを急げ。悪から心を退けよ。善をなすのにのろのろしたら、心は悪事をたのしむ。

117)人がもしも悪いことをしたならば、それを繰り返すな。悪事を心がけるな。悪が積み重なるのは苦しみである。

118)人がもし善いことをしたならば、それを繰り返せ。善いことを心がけよ。善いことが積み重なるのは楽しみである。

119)まだ悪い報いが熟さない間は、悪人でも幸運に遭うことがある。しかし悪の報いが熟したときは、悪人は災いに遭う。

120)まだ善い報いが熟さない間は、善人でもわざわいに遭うことがある。しかし善の果報が熟したときは、善人は幸福(サイワイ)に遭う。

121)「その報いは私には来ないであろう」と思って、悪を軽んずるな。水が一滴ずつ滴り落ちるならば、水瓶でも満たされるのである。愚かな者は、水を少しずつでも集めるように悪を積むならば、やがて災いに満たされる。

122)「その報いはわたしには来ないであろう」と思って、善を軽んずるな。水が一滴ずつ滴り落ちるならば、水瓶でも満たされる。気をつけている人は、水を少しずつでも集めるように善を積むならば、やがて福徳に満たされる。

123)同行する仲間が少ないのに多くの財を運ばねばならぬ商人が、危険な道を避けるように、また生きたいと願う人が毒を避けるように、人はもろもろの悪を避けよ。

124)もしも手に傷が無いならば、その人は手で毒をとり去ることもできるであろう。傷の無い人に、毒は及ばない。悪をなさない人には、悪の及ぶことがない。

125)汚れの無い人、清くて咎のない人をそこなう者がいるならば、その災いは、かえってその浅はかな人に至る。風にさからって細かい塵を投げると、(その人にもどって来る)ように。



詩番号 126

***(元データ)*************
126)或る人々は[人の]胎に宿り、悪をなした者どもは地獄に墜ち、行ないの良い人々は天におもむき、汚れの無い人々は全き安らぎに入る。

***(判定)*************
D

***(コメント)*************
 お釈迦様は、地獄という言葉をお使いになったとは、私は考えにくいと思っています。それぞれの魂の格によって、同種・同レベルが集まれば、居心地が良いはずですから、その魂は地獄とは感じないとなると、地獄という定義すら成り立たなくなってしまうというのが、日月神示の教えです。なんだか天才バカボンのパパのようですが、正しいとは感じます(証明なんてできませんが。)。
 この書き換え作業では、地獄という言葉を定義しない、あの世はどの魂にとっても天国という立場で、真理のことばを読み進めます。
***(書換え詩)*************
126)汚れの無い人々は全き安らぎに入り輪廻を離れ、それ以外の人々は輪廻にとどまり、行いにより死後に赴く場所が決まる。



詩番号 127)、128)

***(元データ)*************
127)大空の中にいても、大海の中にいても、山の中の奥深いところに入っても、およそ世界のどこにいても、悪業から脱れることのできる場所は無い。

128)大空の中にいても、大海の中にいても、山の中の洞窟に入っても、およそ世界のどこにいても、死の脅威のない場所は無い。

***(判定)*************
両方とも、A

***(コメント)*************
なし
***(書換え詩)*************
127)、128)書き換え不要

(第9章 悪 終わり)