2018年9月11日火曜日

第23章 象(元データと判定・解釈・考察と書き換え)

訂正履歴
322+323)の書き換え詩において、“整える”を“治める”と書き換えました。赤字で示します。(180918)

第23章 象
 仏教では、象は、王様や王家、そして立派な人(真人、覚醒者)を比喩して使われることが多いです。ただ、この章では、この同一の性質や意味を表している詩ばかりではなく、多種多様な事柄を象という動物に重ね合わせて表現しているようです。ただし、象で表現されているものに関しては、立派になる素質があることが前提にあると思います。全く、この素質がない場合は、豚と表現しているようです(詩325)。また、時を経るに従って、お釈迦様のおっしゃった意味が口伝による劣化で、ぼやけてきているとは考えられますが、全体としては魔の手の改ざんの少ない章だと思います。それゆえに地味な印象がありますが、お釈迦様の説法を何となく肌で感じる章です。


詩番号 320、321

***(元データ)*************
320)戦場の象が、射られた矢にあたっても堪え忍ぶように、われらはひとのそしりを忍ぼう。多くの人は実に性質(たち)が悪いからである。

321)馴らされた象は、戦場にも連れて行かれ、王の乗りものとなる。世のそしりを忍び、自らをおさめた者は、人々の中にあっても最上の者である。

***(判定)*************
320)A
321)B

***(コメント)*************
320)なし
321)象と人間の対応がよくわからないので、「最上の象となる。」という文章を挿入します。

***(書換え詩)*************
320)書き換え不要

321)世のそしりを忍び、自らをおさめた者は、人々の中にあっても最上の者となる。馴らされた象が、戦場にも連れて行かれ、王の乗りものとなり、最上の象となるように。


詩番号 322、323

***(元データ)*************
322) 馴らされた騾馬は良い。インダス河のほとりの血統よき馬も良い。クンジャラという名の大きな象も良い。しかし自己をととのえた人はそれらよりもすぐれている。

323)何となれば、これらの乗物によっては未到の地(ニルヴァーナ)に行くことはできない。そこへは、慎しみある人が、おのれ自らをよくととのえておもむく。

***(判定)*************
322)A
323)A

***(コメント)*************
322)
 馴らされた騾馬は生活に余裕があるバイシャ(カースト制における一般市民)、
 血統良き馬は中小王侯貴族、
 クンジャラという名の大きな象はクシャトリヤの中でも大王に属する人たちを指すのでしょう。

 上記以外の人は人に非ずという過酷な世の中でしたが、お釈迦様は、これらを全面否定はしないものの、そこから漏れた最下層の人々にも、自己を整える(心を治める)ことによって、誰でも、最上の人(真人)になることが出来ると教えてらっしゃいます。
「自己を整える」という表現は改めました。

323)乗り物は、身分、血統や財の喩えです。

二つの詩を一つに統合します。

***(書換え詩)*************
322)+323)馴らされた騾馬は良い。インダス河のほとりの血統よき馬も良い。クンジャラという名の大きな象も良い。しかし自らの心を整えた人は、これらよりもすぐれている。なぜならば、これらの乗物(身分、血統や財)によって、未到の地(ニルヴァーナ)に行くことはできない。そこへは、慎しみある人が、おのれ自らの心を良く整えて治めておもむく。


詩番号 324

***(元データ)*************
324)「財を守る者」という名の象は、発情期にこめかみから液汁をしたたらせて強暴になっているときは、いかんとも制し難い。捕らえられると、一口の食物も食べない。象は象の林を慕っている。

***(判定)*************
324)D

***(コメント)*************
324)
 わからないこと極まりないです。“「財を守る者」という名の象”とは、財にしか興味がない王様のことです。象の発情期は凶暴になることで有名らしいのですが、この場合の発情期は、文脈から、性的なものではなく、財欲に目が眩んでいる時のことでしょう。
 象の林とは、自分の物と思っている財宝のことでしょう。

***(書換え詩)*************
324)「財を守る者」という名の王は、発情期にこめかみから液汁をしたたらせて強暴になっているときの象のように、いかんとも制し難い。財を捕らえられると、一口の食物も食べない象のように、命よりも財を慕う。

詩番号 325~327

***(元データ)*************
325)大食いをして、眠りをこのみ、ころげまわって寝て、まどろんでいる愚鈍な人は、大きな豚のように糧を食べて肥り、くりかえし母胎に入って(迷いの生存をつづける)。

326)この心は、以前には、望むがままに、欲するがままに、快きがままに、さすらっていた。今やわたくしはその心をすっかり抑制しよう、_象使いが鉤をもって、発情期に狂う象を全くおさえつけるように。

327)つとめはげむのを楽しめ。おのれの心を護れ。自己を難処から救い出せ。_泥沼に落ち込んだ象のように。

***(判定)*************
325)~327) A

***(コメント)*************
325)~327)どれもとても正確な詩文だと思います。

***(書換え詩)*************
325)~327)書き換え不要


詩番号 328~330

***(元データ)*************
328)もしも思慮深く聡明でまじめな生活をしている人を伴侶として共に歩むことができるならば、あらゆる危険困難に打ち克って、こころ喜び、念いをおちつけて、ともに歩め。

329)しかし、もしも思慮深く聡明でまじめな生活をしている人を伴侶として共に歩むことができないならば、国を捨てた国王のように、また林の中の象のように、ひとり歩め。

330)愚かな者を道伴れとするな。独りで行くほうがよい。孤独(ひとり)で歩め。悪いことをするな。求めるところは少なくあれ。___林の中にいる象のように。

***(判定)*************
328)~330) A

***(コメント)*************
328)、329)これらは婚姻関係にある相手との詩です。
330)仕事相手、同胞についての詩です。

***(書換え詩)*************
328)~330)書き換え不要


詩番号 331、332

***(元データ)*************
331)事がおこったときに、友だちのあるのは楽しい。(大きかろうとも、小さかろうとも)、どんなことにでも満足するのは楽しい。善いことをしておけば、命の終るときに楽しい。(悪いことをしなかったので)、あらゆる苦しみ(の報い)を除くことは楽しい。

332)世に母を敬うことは楽しい。また父を敬うことは楽しい。世に修行者を敬うことは楽しい。世にバラモンを敬うことは楽しい。

***(判定)*************
331)、332) D
***(コメント)*************
331)
 ブッダゴーサによる改ざんがなされています。中村氏の注釈によると、“事がおこったときに、友だちのあるのは楽しい”がブッダゴーサによる注釈に従っているらしいのですが、詩330)で、「愚かなものが一緒なくらいなら一人でいなさい。」という教えと反するのです。ですから、この部分は消去します。

332)
 ブッダゴーサによる改ざんがなされています。中村氏の注釈によると、“世にバラモンを敬うことは楽しい”の部分がブッダゴーサによる注です。しかし、中村氏は漢訳法句経で、「天下に道あるは楽し。」を紹介しています。バラモンは、現在の仏魔支配の仏教では、その頂点に位置するととらえるべきです。残念ですが、現時点では、バラモンという表現は、真人や目覚めた人、ブッダ、(正)道で置き換えていくほうが安全だと感じています。
 バラモンという言葉を、使うべきかどうかは、この“真理のことば”が一通り読み終わったら、再考します。その際は、既出の第26章 バラモンも変更があるかもしれないです。
 ただ、お釈迦様は、バラモンについて“ブッダのことば第二小なる章7バラモンにふさわしいこと”で、昔のまっとうだったバラモンについて言及なさっています。この件については、第22章 さまざまなこと(元データと判定・解釈・考察と書き換え)の詩294)と295)のコメントで触れていますので参考にしてください。

***(書換え詩)*************
331)(大きかろうとも、小さかろうとも)、どんなことにでも満足するのは楽しい。善いことをしておけば、命の終るときに楽しい。(悪いことをしなかったので)、あらゆる苦しみ(の報い)を除くことは楽しい。

332)世に母を敬うことは楽しい。また父を敬うことは楽しい。世に真人や覚醒者を敬うことは楽しい。天下に正しい道があるのは楽しい。


詩番号 333

***(元データ)*************
333)老いた日に至るまで戒しめをたもつことは楽しい。信仰が確立していることは楽しい。明らかな知慧を体得することは楽しい。もろもろの悪事をなさないことは楽しい。

***(判定)*************
333) A

***(コメント)*************
333)
 老いた日に至るまで戒めを保つためには、幼少期(全て親の責任)や青年、中年時代(幼少期の影響を受けつつも自分の責任が生じる)を、如何に道を大きく誤らずに進んだか?が問題なんです。人生の総決算が老齢期です。
 若い時に変な宗教や歪んだイデオロギーを頭に叩き込まれると、老齢期にはその思考回路から離れられずに気付かないうちに周りに対して不快かつ迷惑な行動を取っているのです。こんな状態で老いた時に戒めなんか守れるはずはないのです。

 幼少期の親の影響は絶大ですから、ある人の人生が、周りへの毒の散乱で終わった場合、その人の親には絶大な責任があるのは確かです。しかし、親から離れた20代で、自分から良くしていこうと決心したら救われる道もあります。これは、とても大変なことなのはわかります。今、こんなに世の中が乱れてしまっているので、このような状況でアップアップしてらっしゃる方もいると思います。でも、何とか歯を食いしばって、正当な方法で三年頑張ってみてください。何かが必ず変わります。40歳以降、あまりに修正不可能であると、病魔に捕まってしまうのですが、30代までは、本当に十分に大きな軌道修正ができます。
 40代以降でも、年々、修正できる範囲が狭まってはきますが、大幅な踏み外しでなければ、軌道修正はできます。とりあえず、長いけれど三年、歯を食いしばって頑張った後に自分の中に映る世の中を楽しみにしてみてください。きっと、最高の幸せ感はないでしょうが、物事の見え方の変化に驚くことでしょう。

***(書換え詩)*************
333)書き換え不要

(第23章 象 終わり)