2018年7月19日木曜日

第21章 さまざまなこと(元データと判定・解釈・考察と書き換え)

訂正履歴・記事
・タイトルの章番号が間違えていました。誤)22章→正)21章(20180919)
・第16章愛するものから詩217を詩303の前に移動しました。赤字対応(20181022)

第21章 さまざまなこと

詩番号 290~293

***(元データ)*************
290)つまらぬ快楽を捨てることによって、広大なる楽しみを見ることができるのなら、心ある人は広大な楽しみをのぞんで、つまらぬ快楽を捨てよ。

291)他人を苦しめることによって自分の快楽を求める人は、怨みの絆にまつわれて、怨みから免れることができない。

292)なすべきことを、なおざりにし、なすべからざることをなす、遊びたわむれ放逸なる者どもには、汚れが増す。

293)常に身体(の本性)を思いつづけて、為すべからざることを為さず、為すべきことを常に為して、心がけて、みずから気をつけている人々には、もろもろの汚れがなくなる。
***(判定)*************
290)B
291)A
292)A
293)A
***(コメント)*************
290)「心ある人」は「賢い人」、「見る」は「得る」に置き換えましょう。

291)「快楽を求める人は」は「快楽を求める人は愚かな人であって」と書き換えます。

292)「放逸なる者ども」は「放逸なる愚かな者ども」と書き換えます。

293)「自ら気をつけている人々」は「自ら気をつけている賢い人々」と書き換えます。汚れをなくす具体的な実践方法を示す貴重な詩です。
***(書換え詩)*************
290)つまらぬ快楽を捨てることによって、広大なる楽しみを見ることができるのなら、賢い人は広大な楽しみをのぞんで、つまらぬ快楽を捨てよ。

291)他人を苦しめることによって自分の快楽を求める人は愚かな人であって、怨みの絆にまつわれて、怨みから免れることができない。

292)なすべきことを、なおざりにし、なすべからざることをなす、遊びたわむれ放逸なる愚かな者どもには、汚れが増す。

293)常に身体(の本性)を思い続けて、為すべからざることを為さず、為すべきことを常に為して、心がけて、自ら気をつけている賢い人々には、もろもろの汚れがなくなる。


詩番号 294、295

***(元データ)*************
294) (「妄愛」という)母と(「われありという慢心」である)父とを滅ぼし、(永久に存在するという見解と滅びて無くなるという見解という)二人の武家の王を滅ぼし、(主観的機官と客観的対象とあわせて十二の領域である)国土と(「喜び貪り」という)従臣とを滅ぼして、バラモンは汚れなしに赴く。

295) (「妄愛」という)母と(「われありという慢心」である)父とを滅ぼし、(永久に存在するという見解と滅びて無くなるという見解という)二人の、学問を誇るバラモン王を滅ぼし、第五には(「疑い」という)虎を滅ぼして、バラモンは汚れなしに赴く。
***(判定)*************
294)D
295)D
***(コメント)*************
 この二つの詩は、中村氏の注釈が非常に多いのですが、そのすべてがブッダゴーサの注釈を日本語で紹介しています。また、後代に出来上がる仏教教義を彷彿させる内容です。これらの事から考えても、両詩は、お釈迦様が起因ではなく、ブッダゴーサが起因ではないかと、私は考えています。両方の詩ともに、似たことが書いてありますが、残念ながら整合が取れず、さっぱり意味不明です。もし仮に、ブッダゴーサがこの詩を作ったとして、この整合の取れない二つの詩を残したのであれば、なぜ、みすみす、少し考えれば、「頭おかしいじゃない?」とわかる、この二つの詩を並べておいたのでしょうか?この二つの詩の作られた目的が定かではありませんが、我々一般人にはわからない暗号ではないかと、私は推察します。
 (…)の部分を取って、文章のスキームを見てみましょう。
母と父とを滅ぼし、二人の武家の王を滅ぼし、12の国土と従臣とを滅ぼして、バラモンは汚れなしに赴く。
母と父とを滅ぼし、二人の学問を誇るバラモン王を滅ぼし、第五には虎を滅ぼして、バラモンは汚れなしに赴く。

 何だか、相当やばそうな暗号もどきが出てきました。
 バラモンになるには、母と父を滅ぼすことが、第一条件なのでしょうかね。尊属殺人みたいなものですね。
 殺人とまではいかなくとも、子供にとって毒になる親が話題にのぼりますが、親にとって毒になる子供もいるんです。お互いの力を削ぐ波動を持っているという感じなので、双方がお互いに毒になるのです。ただ、先に毒になるのは親の方でしょう。オギャーと生まれた何もできない赤ちゃんや幼稚園児が、現実問題として、大きく親の毒になるとは考えにくいです。
 もちろん、その子どもを授かる因縁が親にはありますし、それを乗り越えるためのパワーや知恵は適時与えられる約束はあったのでしょう。普通なら、乳幼児から幼年にかけて、母親が自分に与えられている力を子どもに精一杯注げば、うまく乗り越えられることになっていましたが、ここ30年は子育て場の悪化が猛スピードで進んで、母親が子供に力を注げなくなってきていて、失敗子育てが増えてしまったと言わざる終えないのです。1980年代中盤までは、お母さんになる人たちも、女性は子育てと家事が大事だという当たり前の価値を持っている人たちがほとんどだったし、世間でも、世話を焼いてくれる優しい雰囲気や、なんとかお母さんを励まそうという雰囲気もあったので、多少難しい子でも、それなりにきちんと大人になっていきました。しかし、その後、個人至上主義と一緒に女性の自立(?)のような薄気味悪い思想で、みんながバラバラ、母子ですらバラバラなんです。
 実は、50代以上の方々は、行儀の悪さを見ればわかりますが、彼らは、他人のことより自分の快適な生活に価値を重く置く自己至上主義人間が多いのです。自分さえ良ければいいというその身勝手な行動が、この悲惨な子育て場を創出したのですが、そんなことは夢にも思わず、反省するどころか、若い人たちの労力をどうしたら自分のために搾り取れるかにご熱心で、本当に呆れます。ちなみに、現40代だって、自己至上主義人間なら、だんだん年を取っていったら、このように変化していくのです。
 だから、お母さんもダメ、環境(お父さんはもはや環境です。)もダメで、なかなか子育てが上手にコンプリートできない状況を拡大し続けて、現在ではトドメ状態なんですよ。こんな現状なのに、現在がもしべビーブームなら、地球の低次元化に拍車がかかるのです。現地球では、若い子が増えても、この連中のいいカモになるだけですし、人間として円満に成長できる環境もないので、あの行儀の悪い老人を再生してしまうだけなのです。なので、今はできる限り、不妊が進むことを私は祈らざる終えません。一方で、好き同士で結婚して、子どもを授かるということは人生においては、本当に最高の時なのですが、結婚しても、これが果たされないことを他人に祈る自分も、どうかしていると思います。しかし、人として生を受けて当たり前の幸せが甘受できないほど地球の不浄が増大しているので、仕方ありません。若い世代と行儀の悪い老人世代(実は、悪い洗脳を受けた人たちなのですが、)を引き離して、若い世代に正しい事を教えて、その上で彼らがどういう価値、信念を持って地球で暮らすかに、今後の地球が存続し得るかがかかっていると思います。

 私が子育てして、周囲を観察した限りでは、子どもの成長にしたがって子どもの力が増しますから、最終的には子どもが親を潰す形になるのです。その前に、親が子どもを死に至らしめるケースもあるでしょうが、大抵は、親は年を取るに従って子どもを精神的に放棄し、自分は廃人的になります。
 
 話を戻しましょう。仏魔の試験に合格したバラモンに、仏魔が我々人間の住む12の領土(12支族の国)と人間
を守る王や従臣、そして、神様を表す虎の順で滅亡させる命令を出している、そんな感じの詩です。
 ブッダゴーサは仏魔の化身なんですね。それを逐一、記述してくださる中村元氏です。これは、すごい文献です。
 お釈迦様が活躍なさった当時は、実は、魔がヴェータに入り込み、バラモンは魔の手先に成り下がっていたのです。その見返りに、よいしょされて優遇され莫大な富を貯めていました。これを示す記述は“ブッダのことば第二小なる章7バラモンにふさわしいこと”(https://www.youtube.com/watch?v=WkuwXGyE9Ck 22:57あたりより。ただし、まだ、考察していないので、全てを鵜呑みにしないでください。)に書かれていますが、教えを述べられたお釈迦様に対して、「大富豪であるバラモンたちは、師に言った」と記述があります。大富豪のバラモンって、笑っちゃうよね。普通は読み過ごしちゃうけれど、気づくと笑っちゃいます。しかも、彼らは自分たちで、お釈迦様に「在俗信者として受け入れてください。」って懇願するんです。自分たちの財を投げ打つ出家なんて真っ平御免なんでしょうね。本当に大爆笑!
 ♪どんなに上手に隠れても、卑しい考え丸見えよ♪
 このバラモンたちは、学問を誇るバラモン王のお釈迦様を滅ぼしに来た、仏魔バラモンなんでしょうね。
 日本の僧侶、お坊さんも、このような解釈を、お経に関してなさったことはないでしょうが、今一度、よく自分の宗派の教えや仕事を見つめ直し、人間の良識を超えるものに関しては、距離を置く必要がある時期だと思います。僧職などを辞める必要はないのですが、自分が所属する宗派の現在のトップは仏魔バラモンである可能性が非常に高いことを鑑みて、
・おかしなことを檀家さんに喋ってないか?
・おかしなポスターをお寺に貼っていないか?
・お参りに来た人やお寺に助けを求めた人に親切にしているか?
・ご自分の良識と照らし合わせて、有益だと思ったならば行動する、有害だと思ったなら出来うる範囲でスルーしているか
を見直す必要があるのでしょう。トップクラスは何とも言えませんが、だいたいのご住職さんは、親切な方が多いと思うのです。
 でも、よく考えたら、これは会社勤めも同じですね。
 残念ながら、断固、戦う足場を持ち戦えるのは、本当の行者(修行僧)ですが、このような人たちは、すでに真人級になっているので、我々一般人とは、かなり違うと思われます。その代わり、教えや戒律で制限が多いのです。
 
***(書換え詩)*************
294)削除
295)削除


詩番号 296~301

***(元データ)*************
296)ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて、昼も夜も常に仏を念じている。

297) ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて、昼も夜も常に法を念じている。

298)ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて、昼も夜も常にサンガ(修行者のつどい)を念じている。

299)ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて、昼も夜も常に身体(の真相)を念じている。

300)ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて、その心は昼も夜も不傷害を楽しんでいる。

301)ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて、その心は昼も夜も瞑想を楽しんでいる。
***(判定)*************
全てD
***(コメント)*************
 各詩の、パーリ語の直訳を下に記します。
296)彼らにとって昼も夜も常にブッダを念じているなら常にゴータマの弟子はよく目覚めて、目覚める(http://76263383.at.webry.info/201211/article_26.htmlさんより)
297)彼らにとって昼も夜も常に法に向いて念じているなら常にゴータマの弟子はよく目覚めて、目覚める(http://76263383.at.webry.info/201212/article_1.htmlさんより)
298)彼らにとって昼も夜も常に僧に向いて念じているなら常にゴータマの弟子はよく目覚めて、目覚める(http://76263383.at.webry.info/201212/article_2.htmlさんより)
299)彼らにとって昼も夜も常に身体に向いて念じているなら常にゴータマの弟子はよく目覚めて、目覚める(http://76263383.at.webry.info/201212/article_3.htmlさんより)
300)彼らにとって昼も夜も常に不害の心を楽しむならば常にゴータマの弟子はよく目覚めて、目覚める(http://76263383.at.webry.info/201212/article_4.htmlさんより)
301)彼らにとって昼も夜も常に瞑想の心を楽しむならば常にゴータマの弟子はよく目覚めて、目覚める(http://76263383.at.webry.info/201212/article_5.htmlさんより)

 中村氏の訳出が「AだからBです。」としたら、パーリ語では、「BだからAです。」なのです。これは、訳出ミスです。
 「昼も夜も常に」についてですが、「昼も夜も起きている間は常に」と置き換えます。“ブッダのことば”では、寝ている間は、意識がないので、免除されていますので、これに準じます。
 「念ずる」は、念と定のセットでないと行為として完結しないので、「念ずる」を「念定(禅定)する」と表現を変えます。
 以下に、各詩で引っかかった場所を個別に記します。
298)は、僧に対して念定(禅定)をするということは、この僧が仏魔僧か、正しい僧なのかをいつも見極めなさいということです。僧だからといって、簡単に信じてはならないという教えです。
299)は、第11章 老いること で歌われている詩の内容を、いつも心に留めて、“身体に向いて念じている”としています。
300)不害は、暴力のことです。正当性がある場合は武力、不当な場合は暴力としましたので、不害は暴力と置き換えます。

以上を考慮して、詩を整えて書き換えます。
これらは、第25章甲 仏弟子の最後に振り分けましょう。
***(書換え詩)*************
296)
ゴータマの弟子は昼も夜も起きている間は、常にブッダについて念定(禅定)すべきである。
これにより、彼らは、覚醒するか、もしくは、常によく覚醒しているのである。
297)
ゴータマの弟子は昼も夜も起きている間は、常に法について念定(禅定)すべきである。
これにより、彼らは、覚醒するか、もしくは、常によく覚醒しているのである。
298)
ゴータマの弟子は昼も夜も起きている間は、常に僧に対して念定(禅定)すべきである。
これにより、彼らは、覚醒するか、もしくは、常によく覚醒しているのである。
299)
ゴータマの弟子は昼も夜も起きている間は、常に身体について念定(禅定)すべきである。
これにより、彼らは、覚醒するか、もしくは、常によく覚醒しているのである。
300)
ゴータマの弟子は昼も夜も起きている間は、常に武力と暴力について念定(禅定)すべきである。
これにより、彼らは、覚醒するか、もしくは、常によく覚醒しているのである。
301)
ゴータマの弟子は昼も夜も起きている間は、念定(禅定)を楽しむべきである。
これにより、彼らは、覚醒するか、もしくは、常によく覚醒しているのである。

詩番号 302~305

***(元データ)*************
302)出家の生活は困難であり、それを楽しむことは難しい。在家の生活も困難であり、家に住むのも難しい。心を同じくしない人々と共に住むのも難しい。(修行僧が何かを求めて)旅に出て行くと、苦しみに遇う。だから旅に出るな。また苦しみに遇うな。
217)
 徳行と見識とをそなえ、法にしたがって生き、真実を語り、自分のなすべきことを行なう人は、人々から愛される

303)信仰あり、徳行そなわり、名声と繁栄を受けている人は、いかなる地方におもむこうとも、そこで尊ばれる。

304)善き人々は遠くにいても輝く、──雪を頂く高山のように。
善からぬ人々は近くにいても見えない、──夜陰に放たれた矢のように。

305)ひとり坐し、ひとり臥し、ひとり歩み、なおざりになることなく、わが身をととのえて、林のなかでひとり楽しめ。
***(判定)*************
302)D
217)A
303)A
304)A
305)B
***(コメント)*************
302)
 出家と在家で、詩がごちゃごちゃに編成されているので並べ直します。
 出家者や修行僧はこの世の利益を求めて策を弄することは一切禁止されていますが、これが正しく伝わるように書き換えます。
 また、お釈迦様ご自身が旅でご自分の教えを広められたのですから、決して「旅に出るな」とおっしゃるはずがないので、旅に関する記述は削除します。

217)第21章 さまざまなこと 詩303の前に第16章 愛するものから移動。
303)なし
304)なし
305)「林の中で一人楽しめ」は、「林の中で一人であっても楽しめ」に書き換えます。修行僧、出家者は、外に出て行って、真理を在家に教えるのが仕事ですから、辛いことが多くても、外に出なくてはなりません。
***(書換え詩)*************
302)
在家の生活は困難であり、家に住むのも難しい。なぜならば、心を同じくしない人々と共に住むのは難しいからである。
出家の生活は困難であり、それを楽しむことは難しい。出家者が策を弄して利益を求めると、苦しみに遇う。だから、出家者は、策を弄して利益を求めてはいけない。


217)書換え不要

303)書き換え不要

304)書き換え不要

305)ひとり坐し、ひとり臥し、ひとり歩み、なおざりになることなく、わが身を治めて、林のなかでひとりでも楽しめ。

(第21章 さまざまなこと 終わり)