2018年7月12日木曜日

第8章 千という数にちなんで(元データと判定・解釈・考察と書き換え)

訂正履歴)
・詩番号 103~105 解釈を著しく間違えましたので、判定、コメント、書き換え詩のを全面的に訂正しました。申し訳ありません。取り消し線と赤字にて訂正(20180914)
詩番号 106、107 書き換え詩が、ちぐはぐ だったので書き換えました。一部コメントも訂正します。取り消し線と赤字にて訂正(20180914)
詩番号 106 解釈を変えましたので、詩自体が不明という判定になり、元データの詩を温存することにしました。取り消し線と赤字にて訂正(20180914)
・詩番号 103~105 コメントに「戦い」についての補足をつけ、それに付随して書き換え詩に多少の変更を加えました。青字部分(20180918)

第8章 千という数にちなんで

 漢字にすべき箇所は、漢字にしましたが、漢字変換した表記を一つ一つにはしませんでした。

詩番号 100~102
***(元データ)*************
100)無益な語句を千たび語るよりも、聞いて心の静まる有益な語句を一つ聞く方が優れている。

101)無益な語句よりなる詩が千もあっても、聞いて心の静まる詩を一つ聞く方が優れている。

102)無益な語句よりなる詩を百も唱えるよりも、聞いて心の静まる詩を一つ聞く方が優れている。
***(判定)*************
100)A
101)A
102)A
***(コメント)*************
100)~103)なし
***(書換え詩)*************
100)~102)書換え不要


詩番号 103~105
***(元データ)*************
103)戦場において百万人に勝つよりも、唯だ一つの自己に克つ者こそ、じつに最上の勝利者である。
104)、105)自己にうち克つ事は、他の人々に勝つ事よりも優れている。つねに行ないをつつしみ、自己をととのえている人、──このような人の克ち得た勝利を敗北に転ずる事は、神も、ガンダルヴァ(天の伎楽神)も、悪魔も、梵天もなす事ができない。
***(判定)*************
103)B

104)、105)B
すべてD
***(コメント)*************
103)~105)
 自己にうち克つ事は、他の人々に勝つ事よりも優れているし、さらには、戦場において百万人に勝つよりも優れていて、最上の勝利者です。少し文章の順番を整えましょう。
 「自己を整える」といよりは、「自己を治める」という表現の方が的確だと思うので、他の箇所でも直したように、ここでも置き換えます。
 自己にうち克つ事は、他の人々に勝つ事とは別の事象です。自己にうち克つ事の定義を、常に行ないをつつしみ、自己を治めることとすれば、これができた人は勝利者であることは間違いありません。これは、戦いが強い弱いとは関係ありませんから、男女でも関係ありません。

 では、他の人々に勝つ場合、相手があってのことですが、その相手が真理から逸脱しているのか?それとも真理を護っているのかによって、戦うことの意味が違ってきます。これが大義名分のない戦いがダメだと言われるゆえんです。正義の旗印の下にいる人たちを相手に戦うのは外道ですし、外道(愚かな人)相手に戦うのは真理を護るためには必要な戦いなのです。戦いには、武力による戦い、そして言論による戦い、その他、諸々の戦いがあると考えています。
 戦いを分類せずに全てを暴力として忌みものとするのはよろしくない教えです。引っかかってしまいました(汗)。申し訳ありません。

 この3個の詩は一つの詩に書き換えます。

***(書換え詩)*************
103)常に行ないをつつしみ、自己を治めて、自己にうち克つ事は、他の人々に勝つ事よりも優れている。

104)さらに、戦場において百万人に勝つよりも、唯だ一つの自己に克つ者こそ、じつに最上の勝利者である。

105)自己に克った者の勝利を敗北に転ずる事は、神も、ガンダルヴァ(天の伎楽神)も、悪魔も、梵天もなす事ができない。

103)+104)+105)
 常に行ないをつつしみ、自己を正しく治めて、自己にうち克つ事はよい。
 自己に克った者の勝利を敗北に転ずる事は、神も、ガンダルヴァ(天の伎楽神)も、悪魔も、梵天もなす事ができない。唯だ一つの自己に克つ者は勝利者となる。

 この勝利者が、他の愚かな人々に勝ち、戦場において愚かな百万人に勝てば百万人の愚かな者どもを打ち破れば、その人は最上の勝利者となる。



詩番号 106~108
***(元データ)*************
106)百年のあいだ、月々千回ずつ祭祀(マツリ)を営む人がいて、またその人が自己を修養した人を一瞬間でも供養するならば、その供養する事の方が、百年祭祀を営むよりも優れている。

107)百年のあいだ、林の中で祭祀(マツリ)の火につかえる人がいて、またその人が自己を修養した人を一瞬間でも供養するならば、その供養する事の方が、百年祭祀を営むよりも優れている。

108)功徳を得ようとして、ひとがこの世で一年間神をまつり犠牲(イキニエ)をささげ、あるいは火にささげ物をしても、その全部をあわせても、(真正なる祭りの功徳の)四分の一にも及ばない。行ないの正しい人々を尊ぶ事の方が優れている。
***(判定)*************
106)D
107)D
108)A
***(コメント)*************
106)、107)供養は、尊ぶ気持ちを表現する時の行為の一つです。供養やお布施は、金品のやり取りで使われ事が多いのです。しかし、本来は違うという仏教関連者の皆様の主張も、私は痛いほどわかるのです。ただ、このような誤解を招きやすい言葉であり、自己を修養した人(ブッダ、真人)を尊ぶ心を大切に表現をしたいと思いますので、
「尊ぶ」>「供養する、お布施をする。」
という構造を明確に表現出来る詩に書き換えますします。二つを一つの詩に合体します。

108)中村氏の注釈によれば、「真正なる祭り」とは、行ないの正しい人々を尊ぶ事だそうです。お祭りとは、「飲めよ! 歌えよ!」ではなく、尊ぶべき存在(神様、仏様、お釈迦様、キリスト様)に対して、敬意を表す儀式なんですね。合点が行きます。その結果、平和な楽しい時間 ––それが、「飲めよ! 歌えよ!」だったりするのでしょうが、–– が人間に与えられるという事なのですね。
***(書換え詩)*************
106)百年の間、月々千回ずつ祭祀(マツリ)を営む人がいて、またその人が自己を修養した人(ブッダや真人)を尊び、一瞬間でも供養するなら、その方が、百年祭祀を営むよりも優れている。

107)百年の間、林の中で祭祀(マツリ)の火につかえる人がいて、またその人が自己を修養した人(ブッダや真人)を尊び、一瞬間でも供養するなら、その方が、百年祭祀を営むよりも優れている。

106)+107)
 百年の間、月々千回ずつ祭祀(マツリ)を営む人や、林の中で祭祀(マツリ)の火につかえる人がいる。もし、それらの人々が自己を修養した人(ブッダや真人)を尊び供養するなら、たとえその供養がつかの間であっても、ただ、百年祭祀を営むだけよりも優れている。自己を修養した人を尊び供養することは優れている。

108)功徳を得ようとして、人がこの世で、一年間、神をまつり、犠牲(イキニエ)をささげ、あるいは火にささげ物をしても、その全部をあわせても、行ないの正しい人々を尊ぶ真正なる祭りの方が、はるかに優れている。


詩番号 109
***(元データ)*************
109)つねに敬礼を守り、年長者を敬う人には、四種の事がらが増大する。──すなわち、寿命と美しさと楽しみと力とである。
***(判定)*************
109)D
***(コメント)*************
109)お釈迦様は、年長者かどうかは、人の判断の材料にはあまりしていません。人となりを判断する基準は、第5、6、7、19、25、26、14章で述べられています。
 亀の甲より年の功というところもありますが、年齢が行けば悪知恵も付きます。ただ、日本では、年長者は伝統的に敬われていたと思いますし、昔は、年齢と人徳のあつさにもそれなりに相関があったと思います。しかし、現代では、50歳以上の行儀の悪い人々もかなり見かけます。びっくりしてしまいますが、うるさいバイクで騒音を垂れ流しているライダーって、けっこうなお年の方もいます。若い人もいますが、同じかそれ以上の確立でおじさん方です。ですから、いつもきちんと自分で、人が自己を修養した人かどうかを判断する癖をつけないといけないのです。お釈迦様は、人が自己を修養した人(ブッダや真人)を常に敬うように教えてらっしゃいます。
 さらに、寿命と美しさと楽しみと力の4種ですが、三次元的な寿命や美しさ、楽しみや力の決定要因は、光と闇が拮抗するこの世では、神様からのものかもしれないですし、悪魔からのものかもしれません。ですから、この4種は、この世の私たちそのものではなく、私たちの魂が得る事ができるものでしょう。
***(書換え詩)*************
109)常に、人が自己を修養した人(ブッダや真人)に敬礼を守れば、魂の寿命と美しさと楽しみと力が増大する。


詩番号 110~112
***(元データ)*************
110)素行が悪く、心が乱れていて百年生きるよりは、徳行あり思い静かな人が一日生きる方が優れている。

111)愚かに迷い、心の乱れている人が百年生きるよりは、知慧あり思い静かな人が一日生きる方が優れている。

112)怠りなまけて、気力もなく百年生きるよりは、堅固につとめ励んで一日生きる方が優れている。
***(判定)*************
110)~112)A
***(コメント)*************
110)~112)なし
***(書換え詩)*************
110)~112)書換え不要


詩番号 113
***(元データ)*************
113)物事が興りまた消え失せることわりを見ないで百年生きるよりも、物事が興りまた消え失せることわりを見て一日生きる事の方が優れている。
***(判定)*************
113)B
***(コメント)*************
113)「物事が興りまた消え失せることわり」とは「物事が興りまた消え失せる因果」とします。「見る」を「見極める」とします。
***(書換え詩)*************
113)物事が興りまた消え失せる因果を見極めずに百年生きるよりも、この因果を見極めて一日生きる事の方が優れている。



詩番号 114、115
***(元データ)*************
114)不死(シナナイ)の境地を見ないで百年生きるよりも、不死の境地を見て一日生きる事の方が優れている。

115)最上の真理を見ないで百年生きるよりも、最上の真理を見て一日生きる方が優れている。
***(判定)*************
114)D
115)BE(不明)
***(コメント)*************
114)「不死」については、中村氏は注釈で非常に困惑しています。中村氏は、学者なので伝統を重んじて真面目に訳出してらしゃいます。お釈迦様は、魂は死なないという原理原則(不死)にお立ちですから、どの魂もよほどのことがない限り、不死なのです。もちろん、身体は死にますが、魂は不死という立場でお話しなさっています。ですが、この魂の不死と体の不死を分離して捉えることができる人ってそう多くないと思います。
 以上から、「不死の境地」というのは「魂の不死の境地」と置き換えてみます。また、「不死の境地を見る」ではなく、「不死の境地を理解する」と、現代風にします。

115)仏道の最高峰は真人、できれば、ブッダになる事ですから、仏道でいう最上の真理とは、ブッダになった後の真理を言うのだと思います。要するに、「最上の真理」とは、安らぎ、解脱のことです。でも、人間の私にはそれが涅槃(最上のやすらぎ)なのか、別のものか、よくわからないので、この詩はこのまま残します。
***(書換え詩)*************
114)魂の不死の境地を理解せず百年生きるよりも、これを理解して、一日生きる事の方が優れている。


115)ブッダの知る最上の真理である安らぎを見ないで百年生きるよりも、これを見て一日生きる方が優れている。
最上の真理を見ないで百年生きるよりも、最上の真理を見て一日生きる方が優れている。
(第8章 千という数にちなんで 終わり)