2017年6月9日金曜日

第1章 ひと組ずつ(元データと判定・解釈・考察と書き換え)

真理のことば 第1章 ひと組ずつ

元データを判定し、解釈・考察を行い、書き換えました。

詩番号 1、2 

***(元データ)*************
1)
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも、汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人に付き従う。
---車をひく(牛)の足跡に車輪がついてゆくように。

2)
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人に付き従う---影がそのからだから離れないように。
***(判定)*************
A

***(コメント)*************
これでひと組、対。
***(書換え詩)*************
そのまま

詩番号 3、4 

***(元データ)*************
3)
彼はわれを罵った。彼はわれを害した。彼はわれにうち勝った。彼はわれから強奪した。」という思いを抱く人には、怨みはついに息むことがない。

4)
彼はわれを罵った。彼はわれを害した。彼はわれにうち勝った。彼はわれから強奪した。」という思いを抱かない人には、ついに怨みが息む。
***(判定)*************
A

***(コメント)*************
これでひと組、対。
***(書換え詩)*************
そのまま


詩番号 5 

***(元データ)*************
5)
実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。
怨みを捨ててこそ息む。これは永遠の真理である。"
***(判定)*************
A

***(コメント)*************
これでひと組。
この詩句は大好きです。
***(書換え詩)*************
そのまま

詩番号 6

***(元データ)*************
6)
「われらは、ここにあって死ぬはずのものである。」と覚悟をしょう。
---このことわりを他の人々は知ってはいない。しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。

***(判定)*************
D

***(コメント)*************
これでひと組。
“死ぬはず”を“死んでいる”としたら、私には理解できます。塵穢れの多いこの三次元社会では、正しく覚醒した人は死人と同様に扱われると認識しなくてはなりません。その結果、この世でのご利益を求めないという精神が必要になります。自分自身で、この世に対して自分は死人同様と思い成せば、つまらない争いに巻き込まれないか、もしくは被害最小限という教えです。争いに巻き込まれるのは、カルマの精算時や試練中は致し方ないですが、主張すべき事ややるべき事は正しい手続きや言葉で行い、その結果には執着しないとなれば、無益な闘争が自分自身に取って静まるのだというのが、この教えの境地だと思われます。
***(書換え詩)*************
6)
「我らは、ここにいながら、なおかつ死んでいるもの。」と覚悟をしょう。
この覚悟を普通の人々は知ってはいない。しかし、{この}覚悟を実践する人は、その人にとって{常住する}争いがしずまるのである。

詩番号 7、8

***(元データ)*************
7)
この世のものを浄らかだと思いなして暮らし、(眼などの)感官を抑制せず、食事の節度を知らず、怠けて勤めない者は、悪魔にうちひしがれる。−−−弱い樹木が風に倒されるように。

8)
この世のものを不浄であると思いなして暮らし、(眼などの)感官をよく抑制し、食事の節度を知り、信念あり、勤めはげむ者は、悪魔にうちひしがれない。−−−岩山が風にゆるがないように。 

***(判定)*************
 D

***(コメント)*************
これでひと組。
7)の“怠けて勤めない”を“怠り怠ける”と置き換える。
8)の“勤め励む”を“怠り怠けない”と置き換える。
***(書換え詩)*************
7)
この世のものを浄らかだと思いなして暮らし、(眼などの)感官を抑制せず、食事の節度を知らず、怠り怠ける者は、悪魔にうちひしがれる。
−−−弱い樹木が風に倒されるように。

8)
この世のものを不浄であると思いなして暮らし、(眼などの)感官をよく抑制し、食事の節度を知り、信念あり、怠り怠けない者は、悪魔にうちひしがれない。
−−−岩山が風にゆるがないように。

詩番号 9、10

***(元データ)*************
9)
けがれた汚物を除いていないのに、黄褐色の法衣をまとおうと欲する人は、自制がなく真実もないのであるから、黄褐色の法衣はふさわしくない。

10)
けがれた汚物を除いていて、戒律を守ることに専念している人は、自制と真実とをそなえているから、黄褐色の法衣をまとうのにふさわしい。 

***(判定)*************
E(後代の付け足しと思われます。)
削除

***(コメント)*************
 法衣を纏う条件ですが、釈尊は法衣を規定したのか疑わしいものです。教団の偽修行僧への注意喚起でしょうか。確かに生きている人から発せられるオーラで一番気持ちいいのは黄色(レモン色、金?)ですよ。だから、黄色の法衣を上位の修行僧が好んだのかしら?もはや、わかりませんが、戒律を守るとか、法衣の規定は、お釈迦様が勧められたとは思えません。お釈迦様の教えが、仏教という宗教へ誘われた時に、教団が付け足した詩文と、私は認識致しましたので削除としました。
 ちなみに、神様が造られた決め事を法(則)とすれば、戒律は神様より下位の存在(含 人間)が作ったものだと考えています。法律は漢字から言っても経験から言っても両者の中間でしょうか。苦しいところですが、社会人としては守らないと、社会が成り立たないという感じですね。
***(書換え詩)*************
 9)削除
10)削除

詩番号 11、 12

***(元データ)*************
11)
まことではないものを、まことであると見なし、まことであるものを、まことではないと見なす人々は、あやまった思いにとらわれて、ついに真実(まこと)に達しない。
12)
まことであるものを、まことであると知り、まことではないものを、まことではないと見なす人は、正しい思いにしたがって、ついに真実に達する。

***(判定)*************
A

***(コメント)*************
その通りです。敬礼!
法句経(玄奘三蔵さんの訳)では、“まこと”は“真利”となっているそうです。漢訳の字は、なかなかイキで、実感しやすいです。
ただ、中村氏は“まこと”を選んだので、それに沿わせていただきます。
***(書換え詩)*************
そのまま

詩番号 13 、14

***(元データ)*************
13)
屋根を粗雑に葺いてある家には雨が漏れ入るように、心を修養していないならば、情欲が心に侵入する。
14)
屋根をよく葺いてある家には雨の漏れ入ることがないように、心をよく修養してあるならば、情欲の侵入することがない。 

***(判定)*************
B

***(コメント)*************
 法句経では、“心”は“意”、“情欲”は“淫泆”と記してあるそうです。
情欲には、“異性の肉体に対する欲望”と“物をむさぼりそれに執着する心(仏教)”があるそうですが、三蔵法師様は、仏教的な意味ではなく、色情欲に特化して書かれている詩句と捉えたようです。私もそちらの方が曖昧にならなくていいと思います。色欲の過ちほど、重大な結果をもたらし、次元すら超えてしまうと感じるのです。食欲や名誉欲、金銭欲は、三次元的な範囲で収まる感じがしています。
 現在は、性的な交わりが比較的解放されていますが、それで苦しむのは、ご自身なのです。簡単に考えず、淫欲の交わりを実際には行わないということは、大切な自分を守ることなんだと思います。もっとも優先的に慎むべき欲は色欲ではないかと思います。次が名誉欲、金銭欲、食欲かな?!
***(書換え詩)*************
13)
屋根を粗雑に葺いてある家には雨が漏れ入るように、心を修養していないならば、色欲が心に侵入する。
14)
屋根をよく葺いてある家には雨の漏れ入ることがないように、心をよく修養してあるならば、色欲の侵入することがない。 

詩番号 15、16、17、18

***(元データ)*************
15)
悪いことをした人は、この世で憂え、来世でも憂え、ふたつのところで共に憂える。
彼は自分の行為が汚れているのを見て、憂え、悩む。

17)
善いことをした人は、この世で喜び、来世でも喜び、ふたつのところで共に喜ぶ。
彼は自分の行為が浄らかなのを見て、喜び、楽しむ。

18)
悪いことをなす者は、この世で悔いに悩み、来世でも悔いに悩み、ふたつのところで悔いに悩む。
「私は悪いことをしました。」といって悔いに悩み、苦難のところ(地獄など)におもむいて(罪のむくいを受けて)さらに悩む。

17)善いことをなす者は、この世で歓喜し、来世でも歓喜し、ふたつのところで共に歓喜する。
「私は善いことをしました。」といって歓喜し、幸あるところ(天の世界)におもむいて、さらに喜ぶ。

***(判定)*************
15)〜18)D 削除

***(コメント)*************
 お釈迦様は、来世を幸せに過ごすために仏法を説かれたのではありません。これが諸宗教の諸悪の根源;オネダリ信仰なのですよ!
 お釈迦様は、今が大切、今の心(意識)を整える方法、そして神様が創られた、そして神様の一部でもある、法(則)を、塵穢れに満ちた三次元を生きている人間に伝授されに、この世にいらしたのです。法というものは、人間にとって遠く離れたものではなく、正しく話を聞けば何となくでも理解できるものなのです。なぜなら、人間も法の一部だからです。それに対して、来世とか苦難のところとか、幸あるところという曖昧な言葉で連想される世界は、理解と言うより想像しかできないのです。曖昧な世界の描出、来世へのオネダリ系の詩句は削除します。
***(書換え詩)*************
15)〜18)削除

詩番号 19、20

***(元データ)*************
19)
たとえためになることを数多く語るにしても、それを実行しないならば、その人は怠っているのである。
---牛飼いが他人の牛を数えているように、かれは修行者の部類には入らない。 

20)
たとえためになることを少ししか語らないにしても、理法にしたがって実践し、情欲と怒りと迷妄を捨てて、正しく気をつけていて、心が解脱して、執着することの無い人は、修行者の部類に入る。
***(判定)*************
B

***(コメント)*************
この対詩は、修行者(覚醒者としても良い)の真偽の見分け方を教えています。
「牛」は、修行者の教えを聞き正しく生きようとする人間のこと。本当の在家信者と言うべき人たちのことだと思います。
「牛飼い」は修行者もしくは偽修行者。実行を伴わない偽修行者には、実は本当の在家信者はいない、彼らは、自分の信者だと思っていても、実は本当の在家信者は別のきちんとした修行者に導かれているのです!という意味でで解釈しました。
***(書換え詩)*************
19)
たとえためになることを数多く語るにしても、それを実行しないならば、その人は怠っているのである。
---牛飼いが他人の牛を数えているように、かれは偽修行者である。 

20)
たとえためになることを少ししか語らないにしても、理法にしたがって実践し、情欲と怒りと迷妄を捨てて、正しく気をつけていて、心が解脱して、執着することの無い人は、修行者である。

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