2019年2月8日金曜日

仏道における「空と相」

 「空と相」の議論は、度々、正しく語れずに失敗に終わっています。その度に正答に近づくのですが。今回の解釈は、しっくりと腑に落ちました。
 まずは、訂正するツイートは以下に示した2019年1/28のツイートです。







































 私も「この世の中は無相です。」なんて書いて、「この世には何もないよ」みたいなニュアンスを醸し出してしまいました。すみません。
 この世の中(3次元)は、私たちの修行の場ですから、とても価値のあるところです。ここで、自分の魂が十分学ぶために、時間を無駄にしてはならないのです。少なくともそういう心意気で臨みましょうというだけで、くれぐれも無理しないでください。身の丈にあった生活が一番なのです。そして、この世の中には実相があって、そこにはきちんとした物事や分別(個々の違い)があるということなのです。違いがないという教え自体が悪魔のささやきでした。ついつい、やられてしまいます。
 以下は、先のツイートの画像部分の文章を書き直したものです。

  詩番号  F257 (B084, D, O092+093, OS07)
  書換え詩
心の汚れが消え失せ解脱することは、空を体現してこの世の実相を認識することでもある。この解脱者たちの行く路(足跡)は知り難い。_空飛ぶ鳥の迹の知りがたいように。

元詩
 O092;財を蓄えることなく、食べ物についてその本性を知り、その人々の解脱の境地は空にして無相であるならば、かれらの行く 路(足跡)は知り難い。_空飛ぶ鳥の迹の知りがたいように。
 O093;その人の汚れは消え失せ、食べ物をむさぼらず、その人の解脱の境地は空にして無相であるならば、かれの足跡は知り難い。 _空飛ぶ鳥の迹の知り難いように。

***(コメント変;重要)*****************
 空と相について、説明を改めました。
 “「分別のない世界を一切空」と。”言うらしいのです。(http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-391.htm さんより)。

 私は、この説明は明らかに間違いであると思います。 実は、自分の色眼鏡を外す、言い換えれば、心の汚れを取り払ってこの世の中を見ることが、空の体現です。完全に取り払うこと は難しいですが、出来うる限り取り払う努力が必要です。この時、役に立つのが、禅定(瞑想)だとも思っています。その時に見 えてくる世界には、実は分別があるのです。はじめて体験すれば、空の中には物事も分別もあることがわかります。それらが、自分が色眼鏡で見ていた物事と分別とは違うということなのです。ですから、あえて私が空を一言で言えとなったら、「空とは、相を 取り払ったこの世の実相」になります。 

 では、相とは、何でしょうか?相とは、この世の形や現象です。この世の実相を覆うマトリックスのようなもので、空を体現す ることにより、色眼鏡を通して見えていた相が消えて、この世の中の物事も分別もある実相が見えてくる、これが「空の体現」で しょう。無相は「相を無くしてください。」という意味で、「有相を感じる。」という言い方でも良いでしょう。ですが、無相という と「何もかも無いと同じ」というイメージを持ってしまい、非常に危険です。
  解脱は、持続的に空を体現して、この世の実相と相を認識することに他なりません。これに従って、詩を書き換えました。 そして、空の体現と「食べ物を貪らず」や「食べ物の本性を知る」は同等のはずがありません。従って、この2句は削除します。 
 また、この教えは、在家と出家の両者に与えられているので、財は結果として溜まってしまうことまで禁じえません。突き詰め て言ってしまえば、「財を蓄えること=悪」と言う関係は間違いで、悪魔のトラップです。従って、これに関する句も削除します。 結果として、両詩はほとんど同様な詩句になるので、合体させます。